表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/51

第十六話 放課後の風

この章は、雫が“学校の外で誰かと並んで歩く”物語です。


学校はまだ少し息がしづらくて、

ざわめきの中にいると胸が浅くなることもあります。


それでも、放課後の風の中で、

雫はひとりではなく、誰かと歩く選択をします。


湊の言葉は大げさではなく、

慰めすぎることもなく、

ただ雫の足元をそっと照らすようなものでした。


“話し続けなくてもいい”

“同じ風を受けているだけで呼吸が深くなる”


そんな静かな午後の物語です。


第十六話 放課後の風

その日の放課後、教室にはまだ午後の熱が少し残っていた。

最後の授業が終わると、あちこちで椅子の音がして、クラスメイトたちは部活や帰り支度で一

気に動き出した。

笑い声、机を引く音、廊下を走る足音。

朝より少しだけやわらいでいるとはいえ、雫にとって学校のざわめきはまだ長く浴びるには濃

すぎた。

雫は教科書をゆっくり鞄にしまいながら、ひとつ息をついた。

今日は、ちゃんと一日いた。

それだけで、もう十分な気がした。

「帰る?」

声がして顔を上げると、湊が机に手をかけて立っていた。

肩に鞄をかけたまま、急かすでもなく、何気ない顔をしている。

「うん。そのつもり」

「そっか」

それだけ言って、湊は自分の席へ戻りかけた。

雫は、なぜだか少しだけ名残惜しいような気持ちになって、口を開いた。

「湊は?」

「今日は部活ないから、帰る」

「そうなんだ」

それだけの会話だったのに、不思議と途切れなかった。

湊はまた雫のほうを向いて、少し考えてから言った。

「途中まで、一緒に帰る?」

雫は一瞬だけ迷った。

いやだったわけではない。

ただ、誰かと帰ること自体が少し久しぶりで、どう返すのが自然なのか分からなかったのだ。

「……うん」

小さく答えると、湊は「じゃあ、ゆっくりでいいよ」と言った。

その言い方が、雫には少しありがたかった。

昇降口へ向かう廊下は、西日の色に染まりはじめていた。

窓の外では運動部の掛け声が遠く響いていて、校庭の土の匂いが風にまじって流れてくる。

雫は靴を履き替えながら、なぜか少しだけ落ち着かない自分に気づいた。

湊は特に話しかけてこなかった。

それが、かえって楽だった。

校門を出てしばらくは、二人で並んで歩いた。

空はまだ明るいけれど、午後の光はもう少しで夕方に変わりそうだった。

道ばたの花壇に、小さな白い花がいくつか咲いている。

「今日、一日いたね」

湊がぽつりと言った。

雫は前を向いたまま答えた。

「うん。なんとか」

「なんとか、で十分じゃない」

その返しに、雫は少し笑った。

「湊って、たまに先生みたい」

「それは困るな」

「なんで?」

「先生って、だいたい“ちゃんとしろ”って言う側だろ」

「たしかに」

湊も笑った。

その笑い方は大きくなくて、でもどこか気が抜けるようなやわらかさがあった。

少し歩いたところで、商店の前に置かれた風鈴が、風に鳴った。

涼しげな音が、短く、きれいに道へ落ちる。

雫はその音に目を向けた。

湊も同じように見ていた。

「こういう音、好き?」

湊が聞いた。

「うん。好き」

「そっか。なんか、雫っぽい」

雫は足を止めそうになった。

「え?」

「いや、うまく言えないけど。静かだけど、ちゃんと残る感じ」

言ったあとで、湊は少し気まずそうに視線をそらした。

「……変なこと言ったかも」

雫はしばらく返事ができなかった。

そんなふうに言われたことがなかったからだ。

静かだけど、ちゃんと残る感じ。

その言葉は、まるで風鈴の音みたいに、雫の胸の中に小さく鳴ったまま残った。

「変じゃない」

やっとそれだけ言うと、湊は少しだけ安心したように笑った。

「ならよかった」

また歩き出す。

二人の間に沈黙が落ちても、今日はそれが苦しくなかった。

話し続けなくてもいい。

無理に明るくしなくてもいい。

ただ隣に人がいて、同じ風を受けているだけで、少しだけ呼吸が深くなる。

そのことに、雫は歩きながら気づいていた。

途中の曲がり角で、湊が「あ、俺こっち」と立ち止まった。

雫の家とは、そこから道が分かれる。

「そっか」

「うん」

少しだけ間があった。

夕方の光が、湊の横顔に斜めに落ちていた。

教室にいるときより、外で見る顔のほうが少しだけやさしく見える。

雫は、そんなことを思った自分に少し驚いた。

湊は、いつもの落ち着いた声で言った。

「雫」

名前を呼ばれて、雫は顔を上げた。

「今日、ちゃんと来ててよかった」

その一言は、頑張ったね、とも、えらいね、とも違っていた。

ただ、そこにいたことをそのまま受け取ってくれるような言い方だった。

雫は胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じた。

「……うん」

「また明日」

「また明日」

湊は軽く手を上げて、曲がり角の向こうへ消えていった。

雫はしばらくその場に立っていた。

さっきまで並んで歩いていた空気が、まだ少しだけ隣に残っている気がした。

恋、なのかどうかは分からない。

そんなふうに簡単に名前をつけてしまうには、まだ雫の呼吸は浅い。

学校はやっぱり少し疲れるし、自分の中にはまだ整理のつかないものがたくさんある。

でも、ひとつだけ分かることがあった。

湊と並んで歩くと、少しだけ息がしやすい。

それは、とても静かで、小さなことだった。

けれど、雫にとっては確かに本当のことだった。

家に着くころには、空はもう夕方の色に変わっていた。

門の前で一度立ち止まり、雫は風鈴みたいに胸の中へ残った言葉を思い返す。

静かだけど、ちゃんと残る感じ。

誰かにそう見えていたことが、少しうれしかった。

そして、その言葉をくれた人の声を、もう一度聞きたいと思っている自分にも、雫は気づきは

じめていた。

居間へ入ると、母が台所から顔を出した。

「おかえり。今日は少し遅かったね」

「うん。ちょっとだけ」

雫は靴を脱ぎながら、自然に笑っていた。

「誰かと一緒だったの?」

母が何気なく聞く。

雫は一瞬だけ答えに迷って、それから小さく言った。

「……クラスの子と、少し」

母はそれ以上聞かなかった。

ただ、「そう」と言って味噌汁の火を弱めた。

その“そう”がありがたくて、雫はそっと部屋へ上がった。

机の上には、昨日のノートが置いたままだった。

雫は鞄を下ろし、ノートを開く。

白いページの端に、少しだけ迷ってから、短く書いた。

放課後の風は、思ったよりやさしかった。

それから、ほんの少し間をあけて、もう一行。

名前を呼ばれると、胸のどこかが静かに動くことがある。

書いたあとで、雫は鉛筆を止めた。

頬が少し熱い。

でも、それは苦しさとは違う熱だった。

窓の外では、夕方の風がまたひとつ、木の葉を鳴らした。

雫はノートを閉じる前に、その一行をもう一度だけ見つめた。

まだ名前のない気持ち。

でも、たしかにそこにあるもの。

それは灯しに似ていた。

小さくて、はっきりしなくて、でも次の一歩を少しだけやわらかくしてくれるものだった。

雫はこの日、放課後の風の中で、

初めて“誰かと歩くことのやさしさ”を知りました。


湊の言葉は、強くも弱くもなく、

ただ雫の存在をそのまま受け取るものでした。


「今日、ちゃんと来ててよかった」

その一言は、頑張ったねとも、無理しないでとも違って、

雫の胸の奥に静かに残ります。


名前を呼ばれると、胸のどこかが動く。

その感覚はまだ名前のない気持ちだけれど、

たしかに灯りに似ていました。


そらは、この章の風をこう言っています。


――「放課後の風ってね、

   ひとりで歩くと冷たいけど、

   誰かと歩くと少しだけあったかいんだよ。

   わらわら」


読んでくださり、ありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ