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静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


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第十五話 学校へ戻る朝

この章は、雫が“外の世界へ戻る一歩”を踏み出す物語です。


家の灯り、海の灯り、白いページに書いた自分の言葉。

それらを胸に抱えたまま、雫は久しぶりに学校へ向かいます。


学校はにぎやかで、少し息がしづらくて、

でも、まったく同じ場所ではありませんでした。


小さな会話、小さな笑い、小さな安心。

そのひとつひとつが、雫の足元をそっと照らしていきます。


“行けるかどうか”ではなく、

“行ってみる”という気持ちで進む朝の物語です。


第十五話 学校へ戻る朝

次の月曜日、雫はいつもより早く目を覚ました。

カーテンの隙間から差し込む朝の光はやわらかく、部屋の机の上には、昨夜閉じたままのノー

トが置いてある。

表紙に手をのせると、あの白いページに自分の書いた言葉がまだ静かに残っている気がした。

今日は学校だった。

制服は、きちんとハンガーにかかったままだった。

着ればそれで済むはずなのに、雫はしばらくそれを見つめていた。

布地の匂いも、胸元のリボンも、通学鞄の重さも、全部ちゃんと知っているものなのに、今日

は少しだけ遠いものに見える。

「起きてる?」

母が障子の向こうから声をかけた。

「うん」

「朝ごはん、できてるよ」

雫は返事をして、ゆっくり制服に袖を通した。

鏡の前に立つ。

見慣れたはずの自分の姿が、今日は少しだけぎこちない。

けれど前みたいに、鏡の中の顔が固く閉じている感じもしなかった。

居間へ行くと、母が焼き鮭を皿にのせていた。

味噌汁の湯気がのぼり、いつもの朝の匂いが部屋に満ちている。

「今日は少し早いね」

「うん」

雫が座ると、母はそれ以上あれこれ言わなかった。

ただ、味噌汁の椀を手前に寄せてくれる。

「……行けそう?」

雫は箸を持ったまま、少しだけ考えた。

「分からない。でも、行ってみる」

母は静かにうなずいた。

「それでいいよ」

そのひと言に、雫は少しだけ肩の力を抜いた。

ちゃんと行きなさい、でもなく、無理しないで休みなさい、でもない。

ただ、今の自分のままで出かけていいと言われた気がした。

家を出ると、朝の空気はまだ少し冷たかった。

通学路の途中、電柱の影が細く伸びている。

小学生の列、自転車を押して歩く人、いつもの町の朝。

世界はいつも通り動いているのに、雫だけが少し遅れて歩いているような気がした。

校門が見えたとき、胸の奥で息が浅くなった。

校舎の前には、制服姿の生徒たちが何人もいて、笑い声や呼び合う声が重なっている。

その明るさがまぶしくて、雫は少しだけ足を止めた。

大丈夫。

足元が見えれば、それでいい。

自分にそう言い聞かせて、雫は校舎へ入った。

廊下には、ワックスの匂いと、朝の少し湿った空気が混じっていた。

教室に近づくにつれて、ざわめきが大きくなる。

誰かが昨日見たテレビの話をしていて、誰かが小テストのことを嘆いていて、窓際では笑い声

がはじけている。

教室の戸を開けた瞬間、その音の多さに少しだけ胸が詰まった。

「おはよ、雫」

同じクラスの女子が、席に座ったまま手を振った。

雫は小さく「おはよう」と返す。

それだけなのに、ちゃんと返せたことが少しうれしかった。

自分の席は窓際の後ろから二番目。

鞄を置き、椅子に座ると、ようやく少し息ができた。

窓の外には校庭が見え、その向こうに朝の光を受けた木々が並んでいる。

風が吹くたび、葉がかすかに揺れた。

「久しぶり」

その声に、雫は顔を上げた。

隣の列の席に鞄を置いていた男子生徒が、こちらを見ていた。

同じクラスの**みなと**だった。

目立つタイプではない。

背は高すぎず低すぎず、話すときも声を張らない。

でも、授業中に窓の外を見ているときの顔が妙に静かで、雫は前から少しだけ印象に残ってい

た。

「……うん」

雫が答えると、湊はそれ以上踏み込まずに言った。

「今日は、風が気持ちいいな」

雫は少し意外に思った。

普通なら「大丈夫?」とか「休んでたよね」とか言いそうなところを、湊は窓の外の話をした

からだ。

雫も窓の外を見た。

「うん。少しだけ」

「こういう日は、教室の中より外のほうがちゃんとしてる気がする」

その言い方が少しおかしくて、雫はほんの少し笑った。

「なにそれ」

「分からないけど」

湊も笑った。

そのやりとりはすぐ終わった。

でも、雫の中には小さく残った。

急かされなかったこと。

聞かれすぎなかったこと。

それなのに、自分がそこにいていいと思えたこと。

ホームルームが始まると、担任の声が教室に広がった。

連絡事項、小テスト、提出物。

いつもの学校の朝だ。

雫は机の上で手を重ねながら、その声を聞いていた。

前なら、この空気に飲み込まれていたかもしれない。

みんなが普通にしている中で、自分だけうまく息ができないことが苦しかったかもしれない。

でも今日は、まだ浅いながらも、呼吸がちゃんと続いている。

一時間目のあと、短い休み時間になった。

周囲が立ち上がり、椅子が鳴り、話し声がまた広がる。

雫は教科書を閉じて、そっと息をついた。

「疲れた?」

また声がして、顔を上げると湊が立っていた。

でも、その言い方は心配を押しつけるものではなく、ただ天気を確かめるみたいに静かだった。

雫は少し迷ってから答えた。

「……ちょっとだけ」

「そっか」

湊は机の端に手を置いて、廊下のほうを見た。

「無理に元気な顔しなくても、朝は朝で終わるよ」

雫は思わず、湊を見た。

言葉は軽い。

でも、変に慰めようとしていないぶん、不思議なくらい胸に入ってきた。

「それ、慰めてるの?」

雫が聞くと、湊は少し考えてから言った。

「半分くらい」

その曖昧さが、妙にやさしかった。

「ありがとう」

雫が小さく言うと、湊は肩をすくめた。

「礼を言われるほどのことじゃないよ」

それから、少しだけ雫の顔を見て言った。

「でも、前より少しだけ、顔がやわらかい」

雫は目を丸くした。

つい昨日、宙くんにも似たようなことを言われたばかりだったからだ。

「……またそれ言われた」

「また?」

「うん。昨日、五歳の子にも」

湊は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。

「そっちのほうが気になるな」

雫もつられて笑った。

笑ってから、自分で少し驚いた。

学校で、こんなふうに自然に笑ったのは久しぶりな気がしたからだ。

窓の外では、春とも夏ともつかない明るい光が校庭を照らしている。

教室のざわめきは相変わらず落ち着かない。

それでも、その中にいる自分は、前より少しだけ固くなかった。

昼休み、雫は机の中から小さなノートを出しかけて、やめた。

まだ誰かに見せるつもりはない。

でも、書いた言葉が鞄の中にあると思うだけで、少し安心できた。

見えないものに名前をつけること。

それは学校でも、自分を見失わないための小さな灯しになるのかもしれない。

帰り際、教室の戸のところで、湊が何気なく言った。

「また明日」

雫はその言葉に、少しだけ胸が動くのを感じた。

大きな意味はないはずだ。

ただの挨拶。

ただの一日のおわり。

それでも、その短い言葉が、今日の帰り道を少しだけやわらかくした。

「……また明日」

雫はそう返して、廊下へ出た。

窓から見える空は、もう少しで夕方の色に近づいていた。

まだ呼吸は浅い。

学校の空気は、やっぱり少し疲れる。

でも、ただ苦しいだけではなかった。

家の灯し。

海の灯し。

そして今日、教室の中にも、小さな灯しがひとつ増えた気がした。

雫は階段をゆっくり下りながら、そのことを胸の中でそっと確かめた。

雫はこの日、久しぶりに学校へ戻りました。


まだ呼吸は浅く、

教室のざわめきは少し重く、

全部が前と同じようにはいきません。


それでも、

「行ってみる」という気持ちで歩いたこと。

「また明日」と言われて、自然に返せたこと。

その小さな積み重ねが、雫の中に新しい灯りを作っていきます。


家の灯し。

海の灯し。

白いページに書いた灯し。

そして今日、教室の中にもひとつ灯りが増えました。


そらは、この章の風をこう言っています。


――「外の世界ってね、

   灯りを持っていくと、前より少し歩きやすいんだよ。

   わらわら」


読んでくださり、ありがとうございました。


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