第十四話 白いページ
この章は、雫が“自分の言葉で自分を見つめる”物語です。
白いページは、何も書かれていない空っぽではなく、
これから生まれる言葉を静かに待つ場所でもあります。
宙くんの
「見えないものも、名前がつくと安心します」
という言葉が、雫の中でゆっくりと形になり、
胸の奥にあった気持ちに、初めて自分の手で名前をつけていきます。
“書けない日があってもいい”
“白いままでも開いておくことに意味がある”
そんな、やさしい時間の物語です。
第十四話 白いページ
その日の夕方、家の中はいつもより静かだった。
母は買い物に出ていて、文子さんの家からも今日は子どもの声が聞こえない。
風だけが、庭木をやさしく揺らしていた。
雫は居間の棚に置かれたランタンを見上げ、それから机の前に座った。
目の前には、真新しいノートが一冊ある。
昼すぎに、押し入れの整理をしていた母が見つけたものだった。
使いかけでもなく、完全に白いまま残っていたノートだ。
「これ、使う?」
母はそう言って、あっさり雫に渡してきた。
「私が若いころに買ったんだけど、きれいなまましまい込んじゃってね。書きたいことがある
なら、使えばいいよ」
書きたいことがあるのかと聞かれたら、雫にはよく分からなかった。
ただ、宙くんの言葉だけは残っていた。
見えないものって、むずかしいですけど。
名前がつくと、少し安心します。
その一言が、ずっと胸のどこかで静かに響いていた。
雫はノートを開いた。
白いページが、何も言わずにこちらを見ている。
こういうとき、何から書けばいいのだろう。
今日あったこと。
海の色。
宙くんの妙に大人びた言葉。
それとも、自分の胸の中のこと。
雫は鉛筆を持ったまま、しばらく動けなかった。
書こうとすると、急に言葉が逃げていく。
心の中には何かあるのに、それをそのまま出そうとすると、どれも少し違う気がする。
悲しいと書くには、悲しいだけではない。
苦しいと書くには、苦しいだけでもない。
寂しい、怖い、分からない。
どれも近いのに、どれだけ書いても少し足りない。
「むずかしい……」
声に出すと、部屋の中でその言葉だけが小さく響いた。
窓の外では、夕方の光が少しずつ色を薄くしている。
昼と夜のあいだの時間。
結菜が“ちょっとこわい”と言っていた色だ。
でも今の雫には、その曖昧さが少しだけ分かる気がした。
はっきりしない時間にも、ちゃんと名前がある。
夕方、という名前が。
雫はノートの一行目に、ゆっくりと書いた。
きょうは、静かな日だった。
書いてみると、それはあまりに普通の文で、少し拍子抜けした。
けれど、嘘ではなかった。
静かな日だった。
それはたしかだ。
雫はもう一行書いた。
でも、前みたいに、ただ静かなだけじゃなかった。
そこまで書いたところで、玄関の戸が開く音がした。
母が帰ってきたらしい。
「ただいまー」
「おかえり」
返事をすると、母が買い物袋を提げたまま居間をのぞいた。
「あら、書いてるの?」
雫は少し照れくさくなって、ノートを半分閉じた。
「うん……ちょっとだけ」
母はそれ以上、のぞき込んだりしなかった。
ただ、買い物袋を台所へ置く前に、雫のそばへ麦茶をひとつ置いた。
「書けないときは、書けないでもいいからね」
雫は顔を上げた。
「え?」
母は肩をすくめて笑った。
「白いままでも、開いておくことに意味がある日もあるでしょ」
それだけ言って、台所へ行ってしまった。
雫はその言葉を、しばらくそのまま受け取っていた。
白いままでも、開いておくことに意味がある。
それは、今の自分にぴったりの言葉だった。
全部を書けなくてもいい。
ちゃんとまとまらなくてもいい。
開いておくこと。
向き合おうとすること。
それだけでも、前とは違う。
雫はまたノートを開いた。
そして今度は、少し考えてから書いた。
私は、ずっと平気な顔をしていた。
でも、本当に平気だったわけじゃない。
ただ、どう言えばいいか分からなかった。
書きながら、自分の手が少しだけ震えていることに気づいた。
怖いのかもしれない。
書いてしまうと、本当にそれがそこにあると認めることになるから。
それでも、雫は続けた。
海へ行った夜、ランタンの火を見て、泣きそうになった。
たぶん、胸の奥にたまっていたものが、やっと一滴になった。
あれが、雫なのかもしれない。
“雫”と書いた瞬間、雫は鉛筆を止めた。
自分の名前を、自分で書く。
それは当たり前のことのはずなのに、今日は少し違って感じた。
前よりも、その字が遠くなかった。
他人の名前のようでも、ただの呼び名でもなく、今の自分の中にあるものに近づいてきた感じ
がした。
雫は、もう一度書いた。
雫は、弱さじゃない。
言葉にならなかった気持ちが、やっと形になったもの。
その文字を見ていると、胸の中に小さな熱が生まれた。
何かを全部分かったわけではない。
でも、前より少しだけ、自分の中のものに触れられた気がする。
そのとき、台所から母の声がした。
「雫、お味噌汁温めなおすけど、お腹すいてる?」
「うん、少し」
「じゃあ、すぐできるよ」
その何でもないやりとりが、今日はひどくやさしく感じられた。
雫はノートに目を戻した。
そして、次のページの上のほうに、短くひとつ書いた。
灯し。
たった三文字なのに、書いたあとで、少しだけ息が深くなった。
灯し。
それは祖母のランタンの火だった。
母の「少しずつでいいよ」だった。
吉岡さんの短い言葉だった。
文子さんの笑い声だった。
結菜の「一緒だと、そんなに暗くなかった」だった。
宙くんの「名前がつくと、少し安心します」でもあった。
雫は、その下にゆっくり書いた。
灯しは、大きな答えじゃない。
でも、次の一歩が見えるだけで、人は少し安心する。
そこまで書いたとき、雫はふっと笑った。
全部、自分の中から出てきた言葉だった。
誰かに教わったことばかりではない。
もちろん、たくさんの人の言葉に支えられている。
でも、それをいま自分の言葉として置けたことが、うれしかった。
母が味噌汁を運んできて、机の横に置いた。
「ずいぶん真剣な顔してるね」
「うん、ちょっとだけ」
「書けた?」
雫は、少し迷ってからうなずいた。
「少しだけ」
母はノートを見ようとはしなかった。
ただ、湯気の立つ椀を見ながら言った。
「少しだけ、って、いい言葉だね」
雫はその言葉に、自然に笑った。
少しだけ。
ほんとうにそうなのだ。
少しだけ話せるようになった。
少しだけ笑えるようになった。
少しだけ、光が入りやすくなった。
全部じゃない。
でも、少しだけなら、ちゃんとここにある。
味噌汁をひとくち飲むと、あたたかさが喉を通っていった。
窓の外では、もう夕方の色が深くなりはじめている。
けれど今日は、その時間があまりこわくなかった。
机の上の白いページには、まだたくさん余白が残っている。
でももう、それは空っぽには見えなかった。
これから書けるもののための場所に見えた。
雫はノートをそっと閉じた。
表紙の下には、たしかに自分の書いた言葉が残っている。
消えない灯しのように、静かに。
その夜、居間の棚のランタンは火を灯していなかった。
それでも雫には、部屋の中が少し明るく見えた。
見えないものに名前をつけること。
それは、自分の心の中に小さな灯りを置くことなのかもしれない。
雫はそう思いながら、閉じたノートの表紙をもう一度だけ、そっと撫でた。
雫はこの日、初めて“自分の名前を、自分の意味として書く”ことができました。
悲しい、苦しい、寂しい、分からない。
どれも近いのに、どれも少し違う。
その曖昧さのまま向き合うことが、
雫にとっての“白いページ”でした。
「白いままでも、開いておくことに意味がある」
母のその言葉は、雫の心にそっと灯りを置きます。
そして雫は、
“雫は弱さじゃない”
“灯しは次の一歩を見せてくれる”
そう書くことで、
自分の中にあった見えないものに、ひとつずつ名前をつけていきます。
宙は、この章の風をこう言っています。
――「名前ってね、心の中の灯りのスイッチなんだよ。
つけると、少しだけ見えるようになるんだ。
わらわら」
読んでくださり、ありがとうございました。




