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静かな海(リメイク)  作者: 浮世雲のジュン


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第十三話 見えないものの名前

この章は、雫が“見えない気持ちに名前をつける”ことを学ぶ物語です。


そらくんは、まだ五歳なのに、

心の中の景色をそのまま感じ取り、

大人が言葉にできないものを、まっすぐに指さす力を持っています。


雫がずっと霧の中にいた理由。

どこにいるのか分からなかった日々。

その“見えない場所”に、少しずつ輪郭が生まれていきます。


名前がつくと、安心できる。

そんな小さな気づきが訪れる午後の物語です。


第十三話 見えないものの名前

次の日も、午後はよく晴れていた。

雫は縁側で洗った布巾をたたんでいた。

母は買い物に出ていて、家の中は静かだった。庭の木々が風に揺れる音と、どこか遠くで鳴く

鳥の声だけが、ゆっくりと時間を運んでいる。

そんな中、門の外から小さな声がした。

「雫さーん」

顔を上げると、宙くんが立っていた。

今日は帽子をかぶっておらず、髪が少し跳ねている。片手には、なぜか細い棒が一本握られて

いた。

「こんにちは」

「こんにちは」

宙くんは、その棒を見せた。

「これは、きょうの探検用です」

「なんの探検?」

「まだ未定です」

雫は思わず笑った。

「未定なんだ」

「はい。でも、道具があると気持ちが整います」

その言い方がまた妙にもっともらしくて、雫は布巾を置きながら立ち上がった。

「じゃあ、今日はどこ行く?」

宙くんは少し考えてから、庭の向こうを指さした。

「昨日の基地の近くに、まだ調べていない場所があります」

文子さんの庭の裏手へ行くと、昨日の木陰に午後の光がまだらに落ちていた。

石も、どんぐりも、そのままの場所にある。宙くんは満足そうにうなずいた。

「基地は無事です」

「よかった」

「大事なことです。拠点が失われると、人は少し悲しいですから」

雫はその言葉に、少しだけ祖母のランタンを思い出した。

火がついていなくても、そこにあるだけで安心できるもの。

なくしたら、きっと胸のどこかがさみしくなるもの。

二人で木陰に座ると、宙くんは持ってきた棒で地面に丸を描きはじめた。

大きな丸、小さな丸、その横にぐるぐると線。何を描いているのかよく分からない。

「それ、なに?」

雫が聞くと、宙くんは真剣な顔で答えた。

「地図です」

「どこの?」

「まだ、見えていないものの地図です」

雫は目をぱちぱちさせた。

「見えてないのに、地図になるの?」

宙くんは、棒を持ったまま少し考えた。

「見えてないから、地図がいるんです」

その答えが、あまりにも自然に返ってきたので、雫はしばらく何も言えなかった。

宙くんは地面を見たまま続けた。

「たとえば、森の中とか、はじめて行く場所とか、あと……心の中とか」

最後の言葉で、雫は思わず宙くんを見た。

宙くんはまるで天気の話でもしているような顔をしていた。

その横顔は幼い。けれど時々、年齢とは別の場所から言葉を持ってくる。

「心の中にも、地図っているのかな」

雫が小さく聞くと、宙くんはすぐにうなずいた。

「いります」

「なんで?」

「だって、自分でもどこにいるか分からなくなることがあるから」

風が、木の葉をひとつ揺らした。

雫は自分の手元を見た。

ここしばらくの自分は、まさにそうだった。悲しいのか苦しいのか、寂しいのか、それともた

だ疲れていたのか。どこにいるのか分からなくて、ずっと霧の中を歩いているようだった。

宙くんは地面の丸を指さした。

「ここが、さみしいところです」

「うん」

「ここが、むずかしいところ」

「うん」

「ここが、だれかがいてくれるところ」

雫は、その丸を見つめた。

大きくもない、きれいでもない、ただ棒で描いただけの線だった。

でも、その並び方がなぜか、今の自分の中にある景色に少し似ていた。

「……宙くん」

「はい」

「それ、誰に教わったの?」

宙くんはきょとんとしてから、少し考えた。

「たぶん、まだ教わってないです」

「え?」

「でも、そういう感じがします」

雫はふっと笑った。

この子はきっと、分かって言っているのと、感じて言っているのが、半分ずつなのだろう。だ

からこそ、理屈を飛び越えて胸に入ってくる。

宙くんは棒を置いて、今度は雫の顔をじっと見た。

「雫さん」

「うん?」

「このまえより、少しやわらかいです」

「え?」

「顔がです」

あまりにも真顔で言うので、雫は思わず吹き出した。

「なにそれ」

「ほんとです」

宙くんはまったく笑わない。

「最初に会ったときは、きれいだけど、ちょっと“カチッ”としてました」

「カチッ?」

「はい。いまは、もう少し“ふわっ”です」

雫は笑いながらも、胸のどこかが静かに揺れた。

最初の自分は、そんなふうに見えていたのか。

固くて、きれいだけれど、少し触りにくいものみたいに。

「それ、いいこと?」

雫が聞くと、宙くんはうなずいた。

「いいことです。ふわっとしてるほうが、光が入りやすいです」

また、雫は言葉を失った。

ふわっとしているほうが、光が入りやすい。

その表現は、五歳の子どもが言ったにしては、あまりにこの物語にぴったりだった。

固く閉じていた心に、少しずつ言葉が入り、笑いが入り、人のぬくもりが入り、やっと呼吸が

しやすくなってきた。

それを、宙くんは“光が入りやすい”と言ったのだ。

「……すごいね、宙くんは」

雫がそう言うと、宙くんは少しだけ首をかしげた。

「そうですか?」

「うん。すごい」

すると宙くんは、少し照れたように下を向いた。

そしてぼそっと言った。

「でも、夜はひとりでトイレに行くの、ちょっとこわいです」

雫は思わず声を立てて笑った。

「そこは五歳なんだ」

「そこは五歳です」

宙くんは真面目に答えたあと、つられて笑った。

そのとき、庭の向こうから母の声がした。

「雫ー、宙くーん。すいか切ったよ」

宙くんの目がぱっと輝いた。

「これは朗報です」

「大げさだなあ」

「大げさではありません。すいかは夏の重要案件です」

二人で立ち上がり、縁側へ戻る。

盆の上には、赤いすいかがきれいに並んでいた。母は笑いながら、「宙くん、その言い方ほん

と面白いねえ」と皿を差し出す。

宙くんはすいかを受け取りながら、急に雫のほうを見た。

「雫さん」

「うん?」

「見えないものって、むずかしいですけど」

「うん」

「名前がつくと、少し安心します」

雫はすいかを持ったまま、立ち止まった。

見えないものに、名前がつく。

それはまるで、自分がここまでしてきたことだった。

胸の中の苦しさに“雫”という意味が生まれ、進むための小さな力に“灯し”という名前がつ

いた。

名前がつくと、少し安心する。

本当に、その通りだった。

宙くんは何事もなかったように、すいかをひとくち食べた。

それから満足そうに言った。

「甘いです。今日は、かなり成功の日です」

母が笑い、雫も笑った。

その笑いの中で、雫は静かに思った。

自分の中にあった、形のないものたちは、少しずつちゃんと名前を持ちはじめている。

それは全部を解決する力ではない。

でも、どこにいるか分からなくなったときの、小さな地図にはなる。

木陰の基地。

祖母のランタン。

母の味噌汁。

結菜の言葉。

そして、宙くんの不思議なくらいまっすぐなひと言。

そういうものが、雫の心の地図を少しずつ描いているのだ。

縁側の先では、午後の光が少しだけやわらいでいた。

まだ夕方には早い。

でも、その手前のやさしい時間が、今日はとてもよく似合っている気がした。

雫はすいかの甘さをゆっくり味わいながら、小さく息をついた。

見えないものにも、名前はつけられる。

そのことを知っただけで、今日の空気は昨日より少しだけやさしかった。

宙くんは、雫の心の中にある“見えない場所”を

まるで地図を描くように示してくれました。


さみしいところ。

むずかしいところ。

だれかがいてくれるところ。


それは、雫がずっと探していた“心の位置”でした。


「ふわっとしてるほうが、光が入りやすいです」

「見えないものも、名前がつくと安心します」


宙くんの言葉は、理屈ではなく、

雫の胸にそのまま届く灯りでした。


見えないものに名前がつくと、

人は少しだけ前に進める。

雫はそのことを、この午後に静かに受け取ります。


そらは、この章の風をこう言っています。


――「心の地図ってね、

   ひとりで描くより、誰かと描いたほうがあったかいんだよ。

   わらわら」


読んでくださり、ありがとうございました。


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