第一話 雫と灯し
前書き
この物語は、強い言葉や大きな事件で進む話ではありません。
むしろ、うまく言えない気持ちや、誰にも見えない心の揺れ、小さな灯りのようなやさしさを 、
ひとつずつ拾いあげるように書きました。
苦しいのに、その理由をうまく説明できない日があります。
明るくしなければと思うほど、かえって息が浅くなることもあります。
それでも、人はほんの小さな言葉や、誰かの待ってくれる沈黙や、帰る場所のぬくもりに支え
られて、また次の朝へ向かうことができるのではないかと思います。
『静かな海』は、そうした「大きくはないけれど、たしかに人を支えるもの」を描きたくて生
まれました。
雫の歩みが、どこかであなたの心にも静かに寄り添えたなら、うれしく思います。
「雫、あんた最近、何を考えてるのか分からないよ」
夕食のあと、母は湯呑みを置きながらそう言った。
責める声ではなかった。困ったような、疲れたような声だった。
雫は返事ができなかった。
「別に怒ってるわけじゃないの。ただ……あんたが黙ってると、こっちも心配になるの」
「……うん」
やっと出た声は、それだけだった。
本当は言いたいことがあった。
苦しいことも、寂しいことも、自分でもうまく説明できないことも。
けれど、言葉にしようとすると胸の奥で絡まってしまう。だから雫は、また黙るしかなかった。
母もそれ以上は何も言わなかった。
ただ、「風、冷えるから上着を着なさいよ」とだけ言った。
雫は小さくうなずき、家を出た。
夜の海は静かだった。
波の音はしているのに、騒がしくはない。遠くで誰かがゆっくり息をしているような、低くて
やわらかな音だった。防波堤の先まで歩き、雫は足を止めた。
手には古いランタンを持っていた。
祖母が昔使っていたものだ。停電の夜に、祖母はいつもこれに火を入れていた。
――明るすぎる灯りはね、疲れるのよ。
祖母の声を思い出す。
――でも、小さな灯りは違うわ。ちゃんと、足元を見せてくれるから。
そのときは意味が分からなかった。
けれど今夜、雫はその言葉を思い出していた。
ランタンの火は小さく揺れていた。
海風が吹くたびに、消えそうになる。雫は思わず両手で囲った。
「……消えないで」
自分でも驚くほど小さな声が漏れた。
火は細くなりながらも、消えなかった。
わずかな熱が指先に伝わる。
そのぬくもりに触れた瞬間、胸の奥が急に痛んだ。
どうしてだろう、と雫は思った。
たかが小さな火だ。部屋全体を照らせるほど強くもない。海の闇なんて、まるで消せない。
それなのに、その小さな灯りがあるだけで、自分はさっきより少し落ち着いている。
「これで……いいのかな」
雫は海に向かってつぶやいた。
答える人はいない。
けれど、波がひとつ、静かに返事をしたように聞こえた。
そのとき、背後で声がした。
「いいんじゃないか」
振り向くと、近所の古びた漁具小屋の見回りをしている老人が立っていた。顔見知りではある
が、話したことはほとんどない。
「びっくりした……」
「悪い悪い。そんな顔するな」
老人は雫の手元のランタンを見て、少し笑った。
「いい灯りだな」
「古いんです。おばあちゃんの」
「古い灯りは、いい。無理に明るくないからな」
雫は思わず、その人を見た。
老人は海のほうへ目を向けたまま言った。
「若いころはな、でっかい答えばっかり欲しくなる。これからどうする、何が正しい、何を選
ぶ、そういうのをな。でも人間、ほんとに弱ってるときは、そんなもん見えなくていいんだ」
「え?」
「次の一歩が見えりゃ、十分なんだよ」
雫は言葉を失った。
まるで、今の自分の胸の中を見られたようだった。
老人は肩をすくめた。
「大きな光は立派だ。でも、夜道で助かるのは、案外こういう小さい灯りだ」
そう言って去っていく背中を、雫はしばらく見ていた。
次の一歩が見えりゃ、十分。
その言葉が胸の中で、静かに沈んでいく。
灯しとは、きっとこういうものなのだ。
人生を全部照らす奇跡ではない。
悲しみを消す魔法でもない。
ただ、真っ暗な夜に、足元だけは見失わないようにしてくれるもの。
そのとき、ぽつり、と頬に何かが落ちた。
雨ではなかった。
「あ……」
涙だった。
雫は、泣くつもりなんてなかった。
けれど胸の奥にたまっていたものが、ようやく一滴になってこぼれたのだと分かった。
その一滴は、みじめなものには思えなかった。
むしろ、ようやく本当の気持ちに触れたしるしのように思えた。
悲しかったのだ。
分かってほしかったのだ。
黙っていたけれど、本当はずっと苦しかったのだ。
雫は袖で涙をぬぐった。
「これが……雫か」
自分の名前を、初めて自分で受け止めた気がした。
雫とは、弱さではない。
心の奥に沈んでいたものが、やっと形になった最初のしるしだ。
そして灯しとは、そのしるしを抱えたままでも前へ進めるようにしてくれる、小さな光なのだ。
海の向こうで雲が切れた。
月の光が水面に細く伸びる。
雫はランタンを持ち直した。
遠くは見えない。明日がどうなるかも分からない。
それでも、今夜は足元が見える。
それでいい。
今は、それで十分だ。
「帰ろう」
小さく言って、雫は歩き出した。
手の中には、消えない灯し。
胸の奥には、ようやくこぼれた一滴の雫。
その二つがあれば、この夜は越えていける気がした。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
雫にとっての「雫」は、弱さではなく、ようやく形になった本当の気持ちでした。
そして「灯し」は、世界を一度に照らす奇跡ではなく、次の一歩だけを見せてくれる小さな光
でした。
この物語を書きながら、私自身もまた、人はそんな小さな光に支えられて生きているのだと、
あらためて感じました。
家族の言葉、祖母の記憶、近所の人の笑い声、子どもの無垢なひと言、学校で交わす短い会話。
そうした何気ないものが、気づけば心の深いところで灯りになっている。
そして、その灯りは、いつか誰かを照らす側にもなっていくのだと思います。
『静かな海』は、静けさの中にあるぬくもりを信じて書いた物語です。
もしこの作品が、読む方にとっての小さな灯しのひとつになれたなら、これほど幸せなことは
ありません。
心より、ありがとうございました




