婚約破棄の理由が“愛しているから”なんて、聞いてない!!
――「リリアナ・エルドール。婚約を、破棄したい」
弦楽の旋律が途切れ、シャンデリアの光だけが、私と彼を照らしていた。
煌びやかな舞踏会場。花々の香りに満ちた空気の中で、アレンの声だけが、異様なほど静かに響く。
「……理由を、伺ってもよろしいですか?」
乾いた喉を押さえつけるようにして、私は問い返す。
アレンは少しだけ視線を落とした。長い睫毛が震え、苦しげに唇を噛みしめる。
「……他に、愛する人ができた」
その言葉が落ちた瞬間、会場の空気が一変した。
囁きが波のように広がり、真紅の絨毯を踏む靴音さえ遠のいていく。
「まあ……」
「子爵令嬢を公の場で辱めるなんて……」
「やはり、グラスト家はもう終わりね」
非難と嘲笑の入り混じった声が、耳の奥に刺さる。
アレンは一歩も動かず、まるで誰かに縫いつけられたように、その場に立ち尽くしていた。
白い手袋をはめた拳が震えている。
その指先の力の入り方が、彼の言葉とは裏腹に――痛みを堪えているように見えた。
私はゆっくりと息を吸い込み、微笑んだ。
この場で取り乱すことは、彼が望まないと分かっていたから。
「……分かりました。お幸せに、アレン様」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。
彼の瞳が一瞬だけ揺れ、次の瞬間には、氷のような表情に戻る。
踵を返し、彼は去っていった。
すれ違いざま、衣の裾が私の手に触れた。
わずかな温もりが、指先に残る。
――これは、本心じゃない。
確信めいた感情が、胸の奥で静かに疼く。
アレンがそんな薄情な人ではないことを、私は誰より知っている。
幼い頃から、彼は誰かを泣かせるよりも、自分が傷つく方を選ぶ人だった。
宴の後、私はひとり、広間の外に出た。
冷たい夜風が、頬を撫でる。
月が高く、まるで見透かすように白く光っていた
◇
翌朝、私は馬車を出し、グラスト家へ向かった。
夜明けの霧がまだ街を覆っている。車輪が石畳を軋ませるたびに、胸の奥まで不安が響いた。
――きっと、昨日の言葉は何かの間違いだ。
そう思いたかった。
アレン様があんな顔で私を突き放すはずがない。
私が知る彼は、困っている人を放っておけない人だった。子どものころ、庭に落ちた雛鳥を夜通し看病していたほどに。
だから、昨日のあの冷たい瞳も、どこか演技めいて見えたのだ。
けれど、屋敷の前にたどり着いた瞬間、別の衝撃に塗り替えられる。
グラスト家の門の前には、無表情な門番が二人、槍を交差させて立っている。
「お嬢様、申し訳ございません。アレン様のご意向で、どなたもお通しできません」
いつも丁寧に一礼してくれる門番が、今日は硬い声でそれだけを告げる。
私は思わず馬車の階段を降り、門に近づいた。
「……アレン様の、ご意向? どういうことなの?」
問いかけても、門番は目を伏せるだけだった。
その沈黙が、かえって全てを物語っていた。
「はい。どうか、もうお帰りを」
重々しい鉄の門が、きぃ、と音を立てて閉ざされる。
その音は、まるで胸の奥で何かが砕けるように響いた。
風が吹いた。冷たい朝の風が、頬をかすめ、瞳の奥の熱をさらっていく。
目の前の屋敷は、かつて私とアレンが笑い合った思い出の場所だった。春の庭で紅茶を飲み、夜には星を眺めた――あの時の彼の笑顔が、まるで幻のように遠い。
拒まれた理由が、どうしても分からなかった。
ただ、胸の奥に小さな痛みが残る。
まるで、見えない糸を断たれたような――そんな感覚だった。
◇
重い足取りで実家に戻ると、屋敷の玄関には静けさが満ちていた。
侍女たちが気まずそうに視線を逸らし、廊下を抜けるたび、足音がやけに響く。
何もかもが、昨日までと違って見えた。
執務室の扉を叩くと、父の低い声が中から聞こえた。
「入りなさい」
扉を開けると、父は机の上の書類に目を落としたまま、私に向けて静かにため息をついた。
その横顔には、深い皺が刻まれている。
窓から差し込む午後の日差しが、紅茶の琥珀色を照らしていた。
「……お前も、聞いたか。グラスト家の噂を」
「え……?」
私の声がかすれる。
父は言葉を選ぶように、一度カップを持ち上げ、香りを確かめてから、低く続けた。
「伯爵夫人の浪費、そして当主による領地資金の横領だ。嫡男――アレン殿直々の訴えにより、いま王家の監査官が入っている。屋敷は既に封鎖されたそうだ」
手にしたティーカップが震え、わずかに紅茶が波打つ。
優しく香っていたはずの茶葉の匂いが、遠のいていく。
現実感が、ふっと薄れていくようだった。
「そんな……それでは……アレン様は――」
「アレン殿については罪を明るみにした事で処刑は免れるだろうが……領地や爵位の剥奪は免れないだろう」
父は言いながら、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
その表情には怒りも蔑みもなく、ただ静かな憂いがあった。
「彼は……それを知っていたのだろう。おそらく、領地を守るために必死だった。そして――恐らく彼はお前を巻き込みたくなかった」
その言葉が胸に落ちた瞬間、息が詰まった。
アレンの冷たく見えた瞳が、脳裏に蘇る。
――あれは、私を突き放すための嘘だったの?
そう思った途端、視界が滲んだ。
頬を伝うものを拭う暇もなく、私は席を立った。
「リリアナ!」
父の呼び止める声が背中に響いたが、足は止まらない。
廊下を駆け抜けながら、胸の奥で何かが強く燃え上がる。
確かめなければ――。
彼が本当に、私を守るためにすべてを犠牲にしたのかどうか。
私はすぐに馬を用意し、グラスト家のある丘へと向かった。
夕陽が沈みかけ、空が茜色に染まっていく。
その光の中で、馬の蹄が土を叩く音だけが響いていた。
◇
屋敷の前には、王家の紋章を掲げた馬車が十数台、列をなしていた。
赤と金で染め抜かれた旗が風に翻り、冬の陽光を鈍く反射する。
その下で、鎧をまとった兵士と王家の役人たちが慌ただしく行き来していた。
誰もが無言で、しかし緊張に満ちている。まるで、この場所に流れる空気そのものが罪の匂いを帯びているようだった。
馬のいななきと鎖の擦れる音が混じり合う。
そして、その中心に――見慣れた背中があった。
鎖につながれた伯爵夫妻と、その隣で同じように手を縛られたアレンが立っていた。
彼の肩は少し痩せて見えた。
けれど、背筋は不思議なほどまっすぐで、まるでその姿だけで誇りを語っているようだった。
「アレン様!」
気づけば、私は声を上げていた。
兵士たちの制止も聞かずに駆け寄ろうとする。だが、鋭い声が私の足を止めた。
「近づくな! 王命で拘束中だ!」
腕を掴まれた瞬間、冷たい鉄の感触が肌を刺した。
それでも私は、必死にアレンの名を呼んだ。
その声に、彼が振り向く。
目の下には深い隈。頬もやつれていた。
けれど、その瞳だけは昔と変わらない。真っ直ぐで、嘘を許さない光を宿している。
「リリアナ……君には、こんな姿を見せたくなかった」
静かな声だった。
しかし、その一言が空気を震わせた。
私は唇を噛みしめ、溢れる涙を止められなかった。
「どうして、どうして何も言わなかったの!」
震える声が、夜気に吸い込まれる。
あの日の笑顔が脳裏に蘇る――庭園で紅茶を飲みながら、未来の話をしていた彼の横顔。
それが、こんな終わりを迎えるなんて。
「言えば、君が僕を助けようとする。だから……黙っていた」
その言葉は、まるで告白のように優しかった。
私はただ首を振ることしかできない。
兵士が彼の腕を引いた。
鎖が鳴る。
それでも、彼は私から目を逸らさなかった。
「君のことを心の底から愛していた――だけど、どうか僕のことは忘れて……幸せになってくれ」
夕陽が沈みかけ、彼の姿を赤く染めた。
その背中が馬車に押し込まれ、扉が閉ざされる。
次の瞬間、車輪が泥を弾いた。
鈍い音とともに馬車が動き出す。
遠ざかっていく影に、私は腕を伸ばした――けれど、届かない。
風が頬を打つ。冷たいのに、涙で熱い。
唇が震える。声が出ない。
ただ、心の中で彼の名を何度も呼んだ。
その声は、夜空に吸い込まれ、静かに消えていった。
◇
――アレン様。
どうして、もっと早くに言ってくれなかったの。
その問いを口にする前に、光が差し込んできた。
まぶたの裏を、やさしい朝の色が照らす。
窓辺のレース越しに射す陽光が、カーテンを透かして淡く揺れていた。
「……お母さま、起きて?」
小さな手が、私の頬をつつく。
目を開けると、そこには金色の髪をした女の子がいた。
柔らかな蜂蜜のような光を宿した髪。
「おはよう、アリア」
声に出すと、胸の奥が温かく満たされていく。
あの日から、いったいどれほどの月日が経ったのだろう。
季節が何度も巡り、涙はいつしか静かに乾いていた。
けれど、夢の中では今も彼に呼びかけてしまう。
あの夜の雨、鎖の音、別れの言葉。
どれも色褪せないまま、心の奥に刻まれている。
「また夢を見ていたんですか?」
メイドが微笑みながらカーテンを開ける。
庭から差し込む光が、白いシーツの上に花模様を描いた。
「ええ……昔の夢を」
私は微笑んで、アリアの髪を撫でる。
細い指先に感じるぬくもりが、まるで運命そのもののように尊かった。
グラスト家はもうこの世にない。
伯爵夫妻の罪は暴かれ、家は取り潰された。
アレンは責を負い、国外の人も寄り付かない秘境へと追放された。
「お母さま、今日はお庭に出たいわ!」
「ええ、行きましょう。今日は風が気持ちいいもの」
私はアリアの手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
窓を開けると、朝の光が頬を包む。
花々が風に揺れ、鳥のさえずりが遠くから響く。
――その庭の奥に、1人の人影が見えた。
かつては肩程までに長かった蜂蜜色の髪を短く切り揃え、以前と変わらぬ温かい目でこちらを見る男性に思わず口元がほころんだ。
「お父さま!」
「おっと、どうしたんだい? 我が家のお姫様は」
そんな会話を交わしている我が子と――我が家に婿入りした夫を見ていると、ふと彼は私の方を見て口を開いた。
「愛してるよ、リリアナ」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で長い冬が解けていくのを感じた。
「ええ、私もよ――アレン」
そうして朝の光の中で、すべてがようやく報われた気がした。
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