門が開くとき、神は笑った
カジノ神殿が光に包まれるその裏で、
世界の深部では別の歯車が回り始めていた。
祈りとは、守るための願いではなく、
捧げる覚悟を問われるものなのか。
カジノ神殿が営業を開始した、その裏で。
クレタ島の祭壇では、“世界に触れてはいけない闇”
が目を覚ましていた。
「これ、見たことある。絶対触っちゃいけない奴だ」
テレノアの幽閉された乙女の牢獄と座標が重なり、
浸食が始まる。
闇の奥からは黒い球体が泡立つように溢れ、
辺りを徐々に飲み込んでいく。
「世界の綻び、これで何とかなるといいけど…」
夏樹はぶら下げていた角笛を掲げると。
それは眩い光を放っていた。
空気が、神の名を思い出したかのように震えた。
角笛から次元を超越する
男神テレノアの声が響く。
「クノックスの乙女よ。
本来の次元に私の角笛を置くのだ」
――角笛が淡く明滅し、
天界の空気が震えるように。
夏樹は現実世界の祭壇に角笛を置き、
テレノアが現世と行き来できるルートを繋げた。
夏樹が角笛を掲げた瞬間、
祭壇の左右に、重々しい音を立てて
巨大な“鍵穴”が浮かび上がった。
黒く、深く、底の見えない穴。
「……祈りを捧げるのだ」
テレノアの声が、背後ではなく“内側”から響く。
導かれるように、
夏樹は背の翼へと意識を向けた。
光が歪み、羽根は形を変える。
金属音とともに、“鍵”へと変質していく。
そのまま、鍵穴へ――差し込んだ。
祭壇の奥が震え、
封じられていた巨大な門が、ゆっくりと姿を現す。
同時に。
夏樹の内側から、神気が吸い上げられ始めた。
「……くっ」
体が軽くなる。いや、削られている。
力が、意思ごと引き抜かれていく感覚。
そのときだった。
闇の奥が、不自然にうねった。
ずるり、と。
巨大な影が這い出してくる。
八本脚。肥大した胴。無数の眼。
――深蜘蛛。
「そうか」
テレノアが、どこか納得したように呟く。
「砂時計の塵に、セーレの因子まで混じっていたか。
闇が濃ければ……顕在化もする」
ギシャァァァッ!!
咆哮とともに、深蜘蛛が跳んだ。
「来る……!」
夏樹は反射的に叫ぶ。
『シールドバッシュ!』
頭上に巨大な光の盾が展開され、
叩きつけられた前脚を正面から弾き返す。
衝撃音。
火花のような神気が散る。
ギィ……ッ。
深蜘蛛は一度距離を取り、低く身を伏せた。
様子をうかがっている。
(私に、遠距離攻撃手段はない)
夏樹は歯を噛みしめる。
沙耶香の射撃も。
恵の広域浄化も。
志津香の結界も使えない。
ここまで来る道は、ずっと近接だけで切り開いてきた。
深蜘蛛はそれを悟ったのか、腹部を震わせた。
ぼと、ぼと、と。
卵が裂け、黒い小蜘蛛が溢れ出す。
床一面を覆う、蠢く闇。
「……数で来るか」
門がさらに軋みを上げる。
神気の流出が、はっきり分かるほど強くなった。
長くはもたない。
「夏樹」
テレノアの声が低くなる。
「門は“供物”を選んでいる」
「……供物?」
理解した瞬間、胸の奥が冷えた。
守るために祈るのではない。
捧げる覚悟があるかを、試している。
「だったら――」
夏樹は一歩、前へ出た。
「私が鍵でいい」
翼は完全に形を失い、
一本の、眩い“鍵”として固定される。
神気の吸収が一気に加速した。
視界が白く滲む。
それでも、夏樹は叫ぶ。
「来い、グリモッド!」
深蜘蛛は、すぐには飛びかかってこなかった。
その場に伏せたまま、八つの眼で夏樹を測るように見つめる。
やがて――動いた。
周囲の闇が、円を描くように蠢き始める。
小蜘蛛たちが距離を保ちつつ散開し、
夏樹を中心に、静かな包囲網を作り始めた。
「……囲い込んでる」
逃げ道はない。
門を背に、前方には黒い輪。
神気の吸収は止まらない。
むしろ、門が開くにつれて強くなっていく。
膝が、わずかに震えた。
(まずい……)
包囲は、ゆっくりと、だが確実に狭まっていく。
まるで――
“消える瞬間”を待っているかのように。
テレノアの声が、低く響いた。
「理解したか、夏樹。あれは賢い」
「門が完全に開く瞬間……お前の神気は、ほぼ空になる」
喉が鳴る。
「つまり――」
「その瞬間が、最も脆い」
グリモッドの腹部が、わずかに持ち上がった。
糸腺が脈打つ。
狙いは、門ではない。
“夏樹そのもの”。
門と繋がる鍵を、引き剥がす気だ。
(……来る)
門が、きしみを上げる。
開口部の奥から、異質な光が溢れ始める。
同時に、全身から力が抜けていく。
視界が白く滲み、指先の感覚が遠のく。
その瞬間。
――放たれた。
無数の糸が、一直線に夏樹へと伸びる。
空間を裂く速度。
回避は不可能。
「っ……!」
深蜘蛛が咆哮し、全身で突進した。
衝突の瞬間――
祭壇が白く爆ぜ、
巨大な門が軋みながら、開き始める。
その隙間から、
底知れない“向こう側”の気配が、静かに滲み出した。
テレノアが、愉しげに笑う。
「そうだ。それでいい」
「祈りとは――いつだって、犠牲の形を取る」
糸が絡みつく、その寸前。
門の奥が、爆ぜた。
轟音。
白とも黒ともつかぬ奔流が噴き出し、空間を引き裂く。
次の瞬間。
“何か”が、そこに立っていた。
輪郭を持たない光と影の集合。
圧だけで、空気が悲鳴を上げる。
「――あと一息だったな!グリモッド」
声が、直接意識を叩いた。
伸びていた糸は、触れられる前に砕け散る。
いや、砕けたのではない。
存在そのものが、粉微塵に分解された。
グリモッドが悲鳴を上げる間もなく、
その巨体に、見えない衝撃が叩き込まれる。
甲殻が割れ、脚が千切れ、闇が霧散する。
「愚かな」
テレノアの声は、冷たく、どこか愉悦を帯びていた。
「門が開いた“内側”に、手を伸ばすとは」
最後の一撃。
圧縮された神気の奔流が、深蜘蛛を包み――
粉々に、砕いた。
黒い残骸が、音もなく崩れ落ちる。
静寂。
祭壇には、砕けた闇の塵だけが残った。
門の前で、夏樹は膝をつく。
力が戻らない。
視界が揺れる。
その前に、影が落ちた。
「よく耐えたな」
テレノアが、初めて“近い位置”に立っていた。
「少しでも遅れていれば、お前は引き剥がされていた」
その声は、労わりにも、評価にも聞こえる。
そして、淡々と続けた。
「――だが、これで引き返せなくなった」
門は、完全に開いている。
次話、動き出すのは――天界か、地上か。




