鬼の里、人間の少年
鬼神の棲まう世界は、人々の世界とは異なる法則に支配されていた。鬼子母神と十羅刹女の娘たちが暮らす宮殿は、殺伐とした瘴気の中にありながらも、シャクにとっては温かい我が家だった。
それは、かつて人間だった多門智朗が、数字と虚無感に満ちた人生を終え、温かい愛情に包まれて生きることを選んだ魂にとって、何にも代えがたい安らぎの場所であった。
姉たちは、鬼の戦士としてではなく、かわいらしい末の弟としてシャクを溺愛した。十羅刹女の一人である迦毘羅は、シャクを膝に乗せては、人間の世界で手に入れた珍しい物語を読み聞かせた。
物語の中に登場する、勇気ある人間たちの信義や、小さな命を懸命に守る親の姿は、シャクの心に深く響いた。
それは前世の記憶と重なり、虚ろだった心にじんわりと温かい光を灯すようだった。もう一人の姉である阿陀那は、人間の文化を真似て、シャクのために季節の行事を祝った。
桜の花が舞う日には花見を催し、冬には雪遊びを教えた。鬼神の世界には存在しなかった、繊細で美しい人間たちの営みをシャクは肌で感じ、深く愛するようになった。
しかし、ただ甘やかすだけではなかった。鬼子母神は、慈愛に満ちた眼差しで我が子を見守りながらも、いつかシャクが独り立ちする日のために、鬼としての力を教え込んだ。殺伐とした修練場。鬼子母神は、剣を構えるシャクに鋭い闘気を放ちながら、その眼差しは優しさに満ちていた。
「シャクよ、お前の強さは鬼の力だけではない。前世で得た人間の心、その繊細な感受性こそがお前の剣を磨く。ただ力任せに振るうのではない。守るべきものが何なのか、それを常に心に留めておきなさい」
そう言って、鬼子母神はシャクに教えた。その教えは、ただ強くなるためのものではなかった。鬼子母神は、かつて自分が犯した過ちを二度と繰り返さないために、弱き者を守ることの大切さ、そして一度誓った信義を貫き通すことの重要性を、身をもってシャクに示し続けた。
姉の阿毘羅は、シャクに剣術の型を教えながら言った。
「私たちは鬼。人々に恐れられ、疎まれる存在。だからこそ、私たちには『信』が不可欠だ。一度信じると決めた者を裏切るな。守ると誓った命は、たとえ自らの身を犠牲にしてでも守り抜け。それが私たちの、鬼としての矜持だ」
迦毘羅は、シャクに陀羅尼神呪を教えた。
「これは、いざという時に私たち姉弟の魂を呼び出すための真言。ただし、これは私たちとの絆の証。真に困ったとき、本当に守りたいものがあるときに使いなさい。決して軽々しく使ってはならない」
シャクは、剛健な肉体と、人間の繊細な感受性を併せ持った少年へと成長した。黒髪に端正な顔立ちを持つその姿は、鬼子母神の誇りであり、姉たちの自慢でもあった。そして、シャクの心の中には、前世の虚無感に代わり、母と姉たちから教えられた「弱きを助け、信義を貫く」という確固たる信念が芽生えていた。
しかし、平穏な日々は長くは続かない。鬼子母神の過去の因縁、そしてシャク自身の特異な存在が、やがて世界に大きな波紋を広げることになるのだった。シャクは、愛する家族と、学んだ信義を守るため、その小さな背に、鬼と人間の誇りを背負い、やがて来るであろう試練へと立ち向かうこととなる。




