プロローグ 鬼の母、慈愛を知る
かつて、人を食らう邪悪な鬼神として恐れられた鬼子母神がいた。彼女は数千の子を持ちながらも、人間の子供を奪い食らうことを常としていた。
ある日、釈迦はそんな彼女を諭すため、彼女がもっとも愛する末の子を隠す。最愛の子を失った悲しみに打ちひしがれ、嘆き悲しむ鬼子母神は、初めて愛する子を奪われる人間の親の嘆きを知り、自らの犯した罪の深さに気づいた。
釈迦の教えを受け、鬼子母神は人食いをやめ、安産と子育ての守護神となることを誓う。それは、彼女が深い後悔と慈愛に目覚めた、まさにその直後のことであった。
同じ頃、現代日本。大手金融グループの最前線で働く男がいた。多門智朗。彼は、絶え間なく続く数字と利益の追求に人生のすべてを捧げていた。
朝から晩まで働きづめの日々。成功を手にしたはずなのに、彼の心は満たされることはなく、漠然とした虚無感を抱えていた。
「なぜ、こんなにも我武者羅に働くのか」
「生きる意味とは何なのか」
夜空を見上げ、都会の喧騒の中に一人佇む彼は、何度も自問自答を繰り返した。そんなある日、過労によって心臓発作を起こし、彼は意識を失った。
智朗の意識が途切れた瞬間、世界は色彩を失い、静寂に包まれた。そして、深い暗闇の中を漂う。やがて、遠くから微かな光が見え、それは次第に大きくなっていく。光は温かく、智朗の心を包み込む。それは、智朗が一度も経験したことのない、安心感に満ちた光だった。
同じ頃、遠い時空の彼方。深い懺悔と慈愛に満ちた鬼子母神の元に、人々の畏怖と儀式によって捧げられた人間の赤子が届けられた。
かつての彼女であれば、その肉を迷わず食らっていたかもしれない。しかし、愛する子を失った痛みを知った今の彼女には、その選択肢は存在しなかった。赤子の小さな手足、か細い泣き声。そこに映るのは、かつて自分が奪い去った無数の命の面影だった。鬼子母神は、赤子を抱きしめ、深く、深く涙を流した。
「シャク」と名付けられたその赤子は、鬼子母神の最後の子供となった。智朗の魂が宿ったシャクは、多くの娘たちに囲まれ、末っ子の男の子として、家族の愛情を一心に受けて育つ。慈愛に満ちた母の瞳、優しい姉たちの笑顔。前世の智朗が知ることのなかった温かい日々が、シャクの心をゆっくりと満たしていく。
鬼子母神は、シャクを育てながら、食人鬼だった頃に子を奪われた親の悲しみと、鬼である自分が与えることのできる愛の深さを噛み締めていた。それは、彼女の深い懺悔の証であり、新しい人生の始まりでもあった。
シャクとして転生した智朗は、やがて前世の記憶を思い出す。数字に追われ、意味を見失っていた人生。そして、今、鬼神の子として得た、深い愛情に満ちた日々。彼は知る。
真の豊かさとは、数字や利益ではない、温かい心の繋がりの中にあるということを。しかし、その幸せが永遠ではないことを、シャクはまだ知らなかった。やがて、母である鬼子母神の過去の因縁が、静かに彼らに影を落とし始めることになるのだった。




