表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/28

プロローグ 鬼の母、慈愛を知る

 かつて、人を食らう邪悪な鬼神として恐れられた鬼子母神きしもじんがいた。彼女は数千の子を持ちながらも、人間の子供を奪い食らうことを常としていた。


 ある日、釈迦はそんな彼女を諭すため、彼女がもっとも愛する末の子を隠す。最愛の子を失った悲しみに打ちひしがれ、嘆き悲しむ鬼子母神は、初めて愛する子を奪われる人間の親の嘆きを知り、自らの犯した罪の深さに気づいた。


 釈迦の教えを受け、鬼子母神は人食いをやめ、安産と子育ての守護神となることを誓う。それは、彼女が深い後悔と慈愛に目覚めた、まさにその直後のことであった。


 同じ頃、現代日本。大手金融グループの最前線で働く男がいた。多門智朗たもんともあき。彼は、絶え間なく続く数字と利益の追求に人生のすべてを捧げていた。


 朝から晩まで働きづめの日々。成功を手にしたはずなのに、彼の心は満たされることはなく、漠然とした虚無感を抱えていた。


「なぜ、こんなにも我武者羅に働くのか」

「生きる意味とは何なのか」


 夜空を見上げ、都会の喧騒の中に一人佇む彼は、何度も自問自答を繰り返した。そんなある日、過労によって心臓発作を起こし、彼は意識を失った。


 智朗の意識が途切れた瞬間、世界は色彩を失い、静寂に包まれた。そして、深い暗闇の中を漂う。やがて、遠くから微かな光が見え、それは次第に大きくなっていく。光は温かく、智朗の心を包み込む。それは、智朗が一度も経験したことのない、安心感に満ちた光だった。


 同じ頃、遠い時空の彼方。深い懺悔と慈愛に満ちた鬼子母神の元に、人々の畏怖と儀式によって捧げられた人間の赤子が届けられた。


 かつての彼女であれば、その肉を迷わず食らっていたかもしれない。しかし、愛する子を失った痛みを知った今の彼女には、その選択肢は存在しなかった。赤子の小さな手足、か細い泣き声。そこに映るのは、かつて自分が奪い去った無数の命の面影だった。鬼子母神は、赤子を抱きしめ、深く、深く涙を流した。


 「シャク」と名付けられたその赤子は、鬼子母神の最後の子供となった。智朗の魂が宿ったシャクは、多くの娘たちに囲まれ、末っ子の男の子として、家族の愛情を一心に受けて育つ。慈愛に満ちた母の瞳、優しい姉たちの笑顔。前世の智朗が知ることのなかった温かい日々が、シャクの心をゆっくりと満たしていく。


 鬼子母神は、シャクを育てながら、食人鬼だった頃に子を奪われた親の悲しみと、鬼である自分が与えることのできる愛の深さを噛み締めていた。それは、彼女の深い懺悔の証であり、新しい人生の始まりでもあった。


 シャクとして転生した智朗は、やがて前世の記憶を思い出す。数字に追われ、意味を見失っていた人生。そして、今、鬼神の子として得た、深い愛情に満ちた日々。彼は知る。


 真の豊かさとは、数字や利益ではない、温かい心の繋がりの中にあるということを。しかし、その幸せが永遠ではないことを、シャクはまだ知らなかった。やがて、母である鬼子母神の過去の因縁が、静かに彼らに影を落とし始めることになるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ