第四十六話
「一人二役の精霊王さま」第四十六話です。
本作は隔週火曜日の更新を目標にしています。
ウィスタリアの王城にはいくつもの宮殿があり、それぞれが立派な通り名を持っている。
王太子が住む第四宮殿は蒼玉宮、アリッサが誕生日パーティーを開いた第七宮殿は真珠宮、そして国王の愛妾であるイザベルに与えられたのは、第五宮殿の翠玉宮だ。
全体が緑白色に輝くその宮殿は、以前は別の目的で使われていた違う建物だった。イザベルが王の子であるクライヴを産んだ際に、王命により改築・改装して今の美しい姿に生まれ変わった。翠玉宮という名前をつけたのも王だった。この事実だけでも、現王のイザベルへの寵愛がよく分かる。
イザベルが妊娠した時も、堕胎させるべきという重臣たちから王は彼女を庇った。そしてイザベルは男児を産んだ。庶子の扱いだが王の子であることは間違いなく、下位とはいえ王位継承権も持っている。
イザベルの生家であるラスキン伯爵家は国内で強い影響力を持ち、王都一と言われるランズベリー伯爵家に次ぐ資産家だった。強い私兵団を有し、国外の政治家や商会とも多くの繋がりを持っている。むしろ周囲は、そんな強い後ろ盾のあるイザベルの方を、危険人物とみなし警戒していた。そしてその疑心は、生まれた子が男児であったことでますます強まった。
無理もない。温和な性格で国の安寧を何より望む王妃に対して、イザベルは野心が強く手段を問わない性格だった。自身の権力のためならば、他者を害することもためらわない、それがイザベル・ラスキンという女だった。
王妃とその親族は、イザベルが王太子に害をなすやもと危惧し、彼をけっして彼女に近づけなかった。王家主催のパーティーなどでも、王太子は周囲を忠臣に囲まれ、イザベルと対面することは徹底的に避けられた。
王もそんな王妃や側近たちの心情を慮り、第四宮殿から一番遠い第五宮殿をイザベルに与えた。
名前は第五とついているが、事実、翠玉宮は王族の住まいから一番遠い場所に建っている。執務殿からも距離があるため、かつてのイザベルはそれを不満に思っていた。
しかし今は、王妃や王太子と顔を合わせることのないこの城を与えられて、本当に良かったと思っている。いらぬ火種を呼ぶことを、今のイザベルは避けていた。
この日、国王と夕食を約束していたイザベルは、前日から第五宮殿に来てその準備に抜かりがなかった。晩餐のメニューを吟味し、食堂の花を選び、寝所を整えさせた。王の渡りに合わせて呼んでいた宝石商や服飾商は、ここ数年呼んでいない。代わりに用意した金子を宮殿の使用人たちに配り、その働きぶりをねぎらった。
これらは改心後のここ最近の変化だが、横暴な態度を改めて施しを与えるだけで、使用人たちの態度は一変した。
かつては彼女の登城を憂いていた城の者たちだが、心を入れ替えた男爵夫人に対して、好意的な眼差しを向けるようになっていた。
「イザベル様。今日の晩餐でお出しするデザートでございます。ご試食いただけますか」
料理長が運んできた一口サイズのケーキとゼリーを、イザベルは食堂のテーブルで試食した。食べ終えた彼女は静かに微笑み、「大変結構よ」と料理長に言った。
「どちらも陛下の好まれる味付けだわ。メインも、陛下がお好きな仔牛の香草焼きにするのよね?」
「はい。それに旬の野菜を使ったポタージュスープと、鴨肉のフルーツソース添え、根菜のサラダをお出しする予定です」
「いいわね。どれも陛下が好まれるメニューだわ。あなたに任せておけば安心ね」
男爵夫人の言葉に、料理長は感激した顔で「はい、ありがとうございます!」と頭を下げた。
「まぁ、見て。料理長のあの嬉しそうな顔」
「前は、第五宮殿の料理なんて作りたくない、って騒いでいたのに。ずいぶんな変わりようね」
「あら、変わったのは料理長じゃなくて、イザベル様の方でしょう」
料理長が厨房に戻り、次にメイド長と打ち合わせを始めたイザベルを見て、メイドたちはひそひそと言葉を交わした。
「たしかに、以前のあの方とは別人のようね」
「噂では、息子のクライヴ様が死の危機に瀕したことを機に、心を入れ替えられたそうだけど……」
「ご友人である、セルヴィッジ侯爵夫人の影響もあると聞いたわ。あの方との交流が始まってから、驚くほど穏やかになられたと、男爵邸で働いているメイドから聞いたもの」
「どちらにしろ、私たちにとっても幸いね。以前の夫人は短気で怖い方だったけれど、今はとても穏やかになられたし。お給金が良くてボーナスも出て、今じゃ、ここが城内で一番楽な部署って言われてるもの」
「私も。ここへ配属されてラッキーだったわ」
「ただ、厳しいメイド長の目もあるし、とりあえず仕事はきっちりこなさないとね」
「陛下もお見えになるのだから、柱も床にピカピカに磨いて、粗相のないようにしましょう」
「ええ、頑張りましょうね」
イザベルが改心したことですべてが上手く回るようになり、下で働く者たちのやる気も向上した。それはごく当たり前の人の心の変化だったが、イザベルにとっては新しい驚きだった。
夕刻になり、国王が第五宮殿に現れた。
「陛下。今日のご政務もお疲れ様でございました。今夜はこちらでゆるりとお寛ぎください」
二十人掛けの広いテーブルで国王の斜め隣の席に座り、イザベルは穏やかな笑みを浮かべ言った。
人目を惹く華やかな容姿は変わらないが、最近の彼女はすっかり毒気が抜け、時に聖母のごとき慈愛ある表情を見せるようになった。
装いも一変した。以前は露出高めの濃い色合いのドレスばかり着ていたが、今日身に着けているは胸元の詰まった落ち着いた濃紺色のドレスだ。アクセサリーも必要最低限で、社交界でも「服のセンスが良くなった」と噂されているらしい。
イザベルの美貌と物怖じしない性格に惹かれたものの、時に彼女の激しすぎる気性に手を焼いていた国王としては、彼女の劇的な変化に驚きつつも、内心諸手を挙げて歓迎していた。
「イザベルよ」
和やかな晩餐に満足しながら、カーティス二世は美しい愛妾に笑顔を向けた。
「私は今、そなたと過ごせるこの時間が、楽しみでしょうがない。ここでそなたと一緒にいると、日頃の雑事から解放されて、とても心が休まるのだ」
「まぁ、ありがとうございます。お世辞であっても、とても嬉しいお言葉ですわ」
「いやいや、本心で言っているのだよ。そなたの功績は大きい。だからどうだろう、そなたの忠義に報いるためにも、何か褒美をやりたいのだが……」
「……陛下」
イザベルはカトラリーを皿に置き、テーブル上の国王の右手に自分の手を重ねた。
「褒賞はご遠慮いたします」
淡々とした口調で、彼女は言った。
「わたくしは悟ったのです。人は欲をかきすぎてはいけないことを。わたくしは陛下の公妾という立場を得て、このような立派な宮殿を授かりました。陛下との間に息子を持つこともできました。これ以上、何を望むと言うのでしょう。わたくしは、今のままで十分幸せでございます」
以前の彼女ならば、こんな綺麗事は嘘でも口にしなかっただろう。だが今のイザベルは、本心からそう答えていた。
「イザベルよ……。そなたは容姿だけでなく、心までも女神のように美しいのだな」
予想外の返事を聞き、カーティス二世は感激した顔で言った。
「だが、本当に何も望むものはないのか? 最近は国庫も潤い、新しい宮殿の一つも建ててやることもできるが」
「そうですね……」
イザベルは少し考え、「もし一つだけお願いを聞いていただけるのなら……。息子のクライヴに、もう少し会う時間を作っていただけないでしょうか」と控えめな口調で言った。
「今、あの子が陛下とお会いできるのは、春と秋にある王家主催の園遊会と、陛下のお誕生日を祝う会のみで、年に三度だけでございます。そして会えても短い言葉を交わすのみ。あの子は何も申しませんが、父親と限られた時間しか会えないことを、とても寂しく思っているようです。大変な我儘を申し上げているのは分かっておりますが、王太子様に割く時間の十分の一でも、息子に使ってやってはいただけませんか」
「……ふむ」
国王自身、二番目の息子のことを、気にかけていないではなかった。ただその限られた数の面会の時でさえ、こわばった表情でいつも緊張した様子の息子を見て、自分は嫌われていると思い込んでいた。
「クライヴがそう言っていたのか? 私に会えなくて寂しいと」
「言わずとも分かります。母親ですから」
「…………」
カーティス二世はしばし黙って、イザベルの双眸をじっと見つめた。その瞳は美しく煌めいて、一切の偽りも宿していなかった。
「……よかろう。第五宮殿に来るのは月に一度だが、もう一日くらい増やすことは可能だ。今度から、第五宮殿には月に二度来ることにする。そなたと二人で過ごす晩餐の日と、息子を交えて親子三人で昼食をとる日だ。どうだ?」
「まぁ、陛下……!」
イザベルはパァと明るい笑顔を見せ、「こんな素晴らしい贈り物をいただけるなんて……、あの子もどれほど喜ぶでしょう! 本当にありがとうございます!」と感極まった声を上げた。
「そなたが喜んでくれて、私も嬉しい」
愛妾の手を握り返し、国王は満足げに微笑んだ。
「ところで……」
食事がデザートまで進み、カーティス二世はおもむろな口調で言った。
「そなたは今、セルヴィッジ侯爵家と懇意にしているな」
「はい。クラリス様とは友人としてお付き合いいただいております」
「であれば、夫人のお子とも面識があるだろう?」
「アリッサ様ですね。ええ、もちろんです。息子のクライヴの良いお友達ですわ」
「うむ……」
どう切り出したものか、という顔で、カーティス二世は目の前の皿に視線を落とした。
「その、じつはだな……。昨日、セルヴィッジ侯爵に、王太子とアリッサ嬢の婚約の打診をしたのだ」
そこで国王はチラとイザベルの顔を見た。だが彼女の表情はまったく変わらなかった。
「……驚かないのだな」
「ええ。いずれ上がる話だと思っておりましたから」
「何、本当か?」
「はい」
イザベルは表情を変えないまま、「陛下は、というより王宮では、アリッサ様を聖女と見なされているのでしょう?」と驚く指摘をした。
「であれば、聖女であるアリッサ様をジェイデン様の妃にと考えられるのは、当然だと思います」
「そ、そうか……。そなたもアリッサ嬢は聖女だと思うのだな」
「……アリッサ様が誕生してから、セルヴィッジ家では色々なことが起きました。それは全て、良い変化です。私自身、セルヴィッジ家と関わるようになって、大きく変わりました。息子もです。その変化の中心にいらっしゃるのは、間違いなくアリッサ様です」
「そうか……。では、アリッサ嬢が聖女なことは、間違いないのだろうな……」
「ええ。……ですが、陛下」
以前とは色の異なる強い眼差しで、イザベルは言った。
「アリッサ様の婚約に関しては、わたくしは反対の立場でございます」
「な、なぜだ」
補佐官の話を思い出し、国王は明らかにうろたえた。
(まさか、やはりイザベルは……)
「アリッサ様は、まだ七歳です」
相手の思惑には気づかないまま、男爵夫人は生真面目な顔つきで言った。
「恋も知らないお年なのに、この国の王太子と婚約となれば、あの方は、本物の恋を知らないまま王家に嫁ぐことになります。それは女としてあまりに不幸です」
「なん、だと……」
愛妾の思いがけない発言に、国王は目を瞬かせた。
「もしかするとお年頃になって、ジェイデン様以外の男性に恋心を抱かれるかもしれません。けれど王太子の婚約者という立場が足枷になり、恋を始める前から諦めることになるでしょう。……陛下。陛下の従妹であらせられる、アンジェリカ公女様の事件を覚えておいでですか」
「もちろん、覚えている」
「あの方は身分違いの恋に悩んだ末、服毒自殺を図られました。幸い一命をとりとめたものの、毒の影響で四肢に麻痺が残り、祖国から遠く離れたセントーレア国で療養生活を続けておいでです。相手の男爵家は責任を問われ、お家は取り潰し。次男はその後、行方知れず。こんな悲劇は、二度と起こすべきではありません」
「ああ、……うむ」
じつはその後、公女は回復し日常生活を送れるまで元気になった。さらに療養先の異国で身分を偽り、恋人である男爵家の次男とともに仲睦まじく暮らしている。また取り潰しとなった男爵家の方も、長男が仕事での功績を認められ子爵位を賜り、家自体は家格を上げて存続している。
これら全て大公家と王家の恩情による結果だが、公にはされていないため、イザベルもこういった裏事情は知らないらしい。
「……つまり、そなたはこう言いたいのだな。王太子の婚約者という立場は、アリッサ嬢の今後に悪影響を与えるかもしれないから心配だと」
「そうです。これからアリッサ様は、学園に入って多くの男性と交流されます。しかし王太子の婚約者となれば行動が制限され、妃教育に時間をとられて青春を楽しむどころではなくなります。人生の一番輝かしい時を、妃教育に費やして終えてしまうだなんて、とてもお気の毒ですわ」
「……余の妃も十歳の時から王太子の婚約者だったが、そなたは王妃も気の毒だと思うのか」
「思っておりますわ。まぁリネット様の場合、自分が王妃となることに何の疑問も抱いておられないようでしたので、多少の不便など気にされなかった可能性も高いでしょう。陛下はそういったお話を、王妃様とされたことはございませんか?」
「……ないな。私自身、自分はいずれ王になるのだと信じていたし、王太子時代に課せられた義務も責任も、必要なものだと受け入れていた。息子のジェイデンも同じだと思うが」
「まぁ、陛下も王太子様も、生まれついての王族でいらっしゃいますのね」
「今のは皮肉か?」
「まさか。尊敬申し上げているのです」
ですが、と男爵夫人は続けた。
「私は、貴族としてのマナーやしきたりが大嫌いでした。正直に申しますが、陛下が私の好みから外れた殿方ならば、いくら国王からの求愛であっても、公妾となることはお断りしていたと思います」
「ああ、たしかにそう言っていたな。私が、そなたの好む見た目と性格で幸いだったよ」
同時にカーティス二世は、イザベルのこの自由奔放な性格も新鮮で好ましく思っていた。不敬であることは間違いないが、国のトップに対しても自分の意志を貫く彼女の気の強さは、貞淑な妻にはない特別な魅力がある。
「だが、私の国王という地位も、そなたにとって魅力ではあったろう?」
「もちろんですわ。私は強い男が好きなのです。国王はこの国で一番強い存在です。またその王に愛された女も、国で強い権力を持ちます。陛下の公妾となったことで、私の立場も強くなりました。おかげで、嫌いな相手に媚を売る必要もなくなりました。感謝しておりますわ」
「フッ……」
以前よりずっと穏やかな性格になったとはいえ、やはり本質は変わらない。イザベルはやはり、あのイザベル・ラスキンだ。そう思って、国王は思わず笑いをこぼした。
「それでつまり、アリッサ嬢がそなた同様に自由を好む性格であった場合、王太子の婚約者という地位は邪魔であると、そなたはそう言いたいのだな?」
「ええ。間違いありませんわ。アリッサ様は、縛られることを嫌う性格でいらっしゃいます」
「確かか? もしかすると、リネットのように地位と義務を重んじる性格かもしれないだろう?」
「いいえ。あの方は、そのようなしきたりに縛られる性格ではありません」
国王が戸惑うほどに、イザベルは自信満々に言い切った。
「……ふむ」
だが、国王も諦めなかった。
「もしそうだとしても、アリッサ嬢がジェイデンを気に入ったらどうだ? 好いた男相手ならば、婚約しても構わないのでは?」
「そうですね。もしアリッサ様ご自身が、ジェイデン様との婚約を望まれるのであれば、婚約を結んでも良いかもしれません。ですがお二人はまだ幼くていらっしゃいます。これから思春期を迎えて本当に好きな人ができた時に、相手が違っていたら悲劇です。これは、ジェイデン様にも当てはまることですわ」
「……ふぅむ」
好みの女性は愛人にし、妃にはそれに相応しい家格と品性を備えた女性を、という価値観だったカーティス二世は、イザベルの意見に新鮮な驚きを覚えていた。
「そこは私も、息子に確認していなかったな」
「ではぜひとも、ジェイデン様のお考えも聞いてみるべきですわ」
「……うむ。では二人の気持ちさえ確かならば、そなたもこの婚約に反対しない、という認識で良いか?」
「そうですね。ただ、息子のクライヴは怒るでしょうね。あの子はアリッサ様が大好きですから」
「何、やはりそうなのか」
「やはりとは?」
「いや、ちょっと小耳に挟んだのだ。そなたが、クライヴとアリッサ嬢を婚約させたがっていると……」
「それは誤解ですわ。私の考えは、息子に対しても同じです。子どもたちが年頃になって、自分の意志で結婚したい相手を決められるようになるまでは、誰とも婚約させません」
「相手がアリッサ嬢でもか」
「二人が望めば反対はしませんが、まだ自分で相手を決められる年ではないでしょう」
「ううむ……だが王族は普通……」
「私は伝統やしきたりより、大切な子どもたちの心の方を優先いたします」
「うむぅ……」
貴族の義務よりも親心を大事にする、というイザベルの主張に対し、国王は何も言えなくなって黙り込んだ。
ただおそらく、肝心のセルヴィッジ侯爵夫妻も彼女と同じ価値観だろうと思われ、思った以上にこの婚約は難しい問題だと認識を新たにした。
第四十七話につづく
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