第三十五話
「一人二役の精霊王さま」第三十五話です。
本作は毎週火曜日の更新を目標にしています。
翌朝。
晴れやかな気分で目を覚ましたイザベル・ラスキンは、侯爵家から届く朗読会欠席の報を、今か今かと待ち侘びていた。
しかしけっきょく使いの者は来ず、代わりに朗読会予定の時刻一〇分前、夫人を乗せた侯爵家の馬車が、男爵邸の前に止まった。
「セルヴィッジ侯爵夫人、ご到着」の報告を受けたイザベルは、信じられない思いで玄関ホールに向かった。
暗黙のしきたりで、こういった催しには上位の貴族ほど遅れて現れるものだが、時間厳守のクラリスはいつも早めに会場へ向かう。今日も自身の良識に従い、侯爵夫人は他の出席者より早く男爵邸に到着した。彼女はホールに現れたイザベルを見て、「まぁ」と喜色の笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、イザベル様。今日はご招待くださいまして、ありがとうございます」
初夏に相応しい爽やかなラベンダーカラーのドレスに身を包み、クラリスはいつもの優雅な仕草で挨拶をした。
「クラリス様……。ようこそ……いらっしゃいました……」
しかし挨拶を受けたイザベルの方は、まるきり作法を忘れた子どものように、その場にただ茫然と突っ立っていた。カーテシーすら行わない自分の主人を、脇に控えていた執事が慌てた顔つきで見つめる。
だが無作法を受けた当人はあまり気にしていないらしく、クラリスはニコニコと明るい笑顔をイザベルに向けた。
「久しぶりにイザベル様からお便りが届いて、私、本当に嬉しかったのですよ。お元気そうなお顔を見られて、ホッといたしました。今日は、茶菓子用にフルードゥリス産の焼き菓子を持参しましたの。イザベル様のお口に合えば幸いですわ」
「それは……、お心遣いをありがとうございます……」
一定の距離を保ったまま、イザベルは慎重な顔つきで侯爵夫人を見つめた。
「あの……、ご家族の皆様はご健勝かしら。ご主人のセルヴィッジ侯爵様や、ご息女のアリッサ様は……」
「ええ、お蔭様で」
クラリスは満面の笑みで答えた後に、「あっ、そうそう」と弾んだ声で言った。
「この度は娘のアリッサに、素晴らしい贈り物をありがとうございます! 本当に良い物をいただいて、この御恩にどう報いるべきかと思案しておりますわ」
「え……」
セルヴィッジ家の者を家に呼ぶ口実のため、息子への頂き物から適当に未使用品を選んだだけのイザベルは、クラリスの言う「素晴らしい贈り物」が思い出せず、一瞬ポカンとした顔つきになった。
「昨日さっそく娘を座らせてみましたの。アリッサもとても気に入っておりましたわ。今朝の食事の席でも、あの椅子に座りたがったくらいですのよ」
クラリスはそう言って、フフッと上品に笑った。
「これであの子を連れての馬車旅が格段に安全になりました。ありがとうございます」
「あ、ああ……。いえ、そんな大した物では……」
ようやく贈った品を思い出し、イザベルは戸惑いを隠せず表情を曇らせた。
「あんな物に、礼など不要ですわ……」
「そんな。もうすぐご子息の二歳のお誕生日でしょう? ぜひ我が家からも何か贈らせてくださいませ。できる限りの品をご用意いたしますわ」
「……お気遣いなく」
言葉少なに歩を進め、イザベルは自分の計画が完全に失敗したことを悟った。
(まったく、なんて使い物にならない騎士なの……。いえそもそも、あの香水自体が不良品だったのかも……)
しかしそこで、イザベルはあることを思いつき、いきなり侯爵夫人を振り返った。
「クラリス様」
「え?」
驚いて同時に歩を止めたクラリスに、イザベルはいつもの自信に満ちた表情で言った。
「じつはちょっと、クラリス様にお見せしたい物がございますの。サロンの前に、私の執務室に寄っていただけません?」
「え? ええ……」
困惑するクラリスを伴い、イザベルははやる心を抑えて二階の執務室に向かった。
そこには、金貨五百八十枚をはたいて購入した、『マリオネットの雫』が保管されていた。部屋に着くとすぐ、イザベルは鍵付きの机に仕舞っておいたそれを、箱ごと取り出してクラリスに見せた。
「あら、これは……香水ですか?」
「ええ」
イザベルは慎重な手つきで香水瓶の蓋を開けた。怪しい魔道具は見せかけの姿を保つために、本物の香水と違わぬ芳香を放っている。
「とても甘い香りの香水ですわね……。初めて嗅ぐ香りですわ。これは、南国のフルーツが使われているのかしら……」
「ええ、そうかもしれません。クラリス様のご実家は精油の製造が盛んな土地で、ご自身も香料への造詣が深い方と伺っております。この香りで、何の精油が使われているかお分かりになりませんか?」
そう言ってイザベルは、さりげなく自分の鼻と口をハンカチで覆うと、侯爵夫人に向かっていきなり香水を吹きかけた。
顔に直接香水を吹きつけられたクラリスは、「きゃっ」と短い悲鳴を上げると、上体を大きく仰け反らせた。
「いきなり何をなさいますの!」
小さく憤慨しながら、クラリスは慌てて自分のハンカチで顔にかかった香水を拭った。
「え……」
侯爵夫人の予想外の反応に、イザベルは驚きのあまり固まった。
「こんなことをされなくても、香水の元になった香りは予想がつきますわ」
不愉快を露わにするクラリスを、イザベルは信じられないものを見る目で見つめた。
「あの……クラリス様……」
「何ですか」
「その……お願いがあるのですが……」
「え?」
「今ここで、三回廻ってワン、と鳴いていただけます?」
「…………」
クラリスは自身の耳を疑った後で、真顔の男爵夫人を見つめ、今度は彼女の頭の中を疑った。
「……あの、イザベル様。いったいどうされたのです? 今、ご自分が何を仰ったか、理解しておられますか?」
「え? ええ、もちろん。ですから、三回廻ってワンと鳴いてくださいと……」
「…………」
クラリスは思わず片手で額を押さえ、次に机の上に置かれた呼び鈴を鳴らした。廊下に控えていた執事がすぐに現れ、「お呼びですか」と戸口に立つ。
「ああ、ちょっと、こちらへ来てくださる?」
クラリスは執事を部屋に招き入れると、「申し上げにくいのだけれど……」と声を潜めて彼に告げた。
「どうも男爵夫人は、体調が芳しくないようだわ。今日の朗読会は、中止にした方が良いのではないかしら……」
「え……?」
クラリスはためらいつつ、さきほどのイザベルの突拍子もない発言について伝えた。
執事は「まさか……」と困惑したが、男爵夫人がいきなり自分たちに向けて香水を吹きかけてきたため、驚いて主の顔を見た。
最初の瓶が効果がなかったため、わざわざ二本目の瓶を開けたイザベルは、「あなたたち、三回廻ってワンと鳴きなさい!」と真剣な表情で叫んだ。
「奥様!?」
この男爵夫人の行動には、さすがに普段冷静な執事も激しく動揺した。
「何を仰っているのですか! いったいどうされたと言うのです!?」
「うるさい! 私の命令に従いなさいっ!」
癇癪を起こしたイザベルは、人目も憚らずキィキィ喚いた。
「どうして誰も従わないのよっ! 早く、ワンと言いなさいっ! ワンと言うのよ、ワンと!」
「おお……何ということだ……」
乱心した主人を前に、執事は慌てて他の家臣を呼んだ。
そしてクラリスに向かい、「こ、侯爵夫人、どうか今すぐご退室を。あとは我々が……」と、急いで部屋を出るよう告げた。
メイドに誘導されながら、クラリスは逃げるようにイザベルの執務室から出た。急ぎ階段を下りたところで、ちょうど男爵邸に着いたばかりの、他の招待客と鉢合わせる。
「まぁ、クラリス様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、クラリス様。お会いできて嬉しいですわ」
「今日も素敵なお召し物ですわね。どちらの店で仕立てられたのかしら」
「は……、あの……」
顔見知りの婦人たちが次々挨拶してくるが、クラリスの方は気が動転しており、息も切れてまともに答えられなかった。
「それが……、その……」
「どうされたのですか、クラリス様」
侯爵夫人のただならぬ様子に、すぐに婦人たちも気づいた。
「お顔が真っ青でいらっしゃいますわよ」
「それに、今、二階から下りていらっしゃいましたが、サロンは一階では……」
皆がクラリスを囲むように階段の下に集まったタイミングで、階上からイザベルの金切り声が響く。
「放しなさい! 私を誰だと思っているの!」
続いて執事たち家臣の、「奥様、お気を確かに!」「落ち着いてください!」となだめる声。
それは一階にいる婦人方の耳にもしっかり届き、皆が驚いて顔を見合わせた。
「クラリス様……。いったい上で何が起きているのでしょう?」
「イザベル様に何かあったのですか?」
「いえ、それが……」
慎み深いクラリスとしては、とても本当のことなど話せない。
「その……、イザベル様は今日、お加減が悪いようで……」
歯切れ悪く説明するも、そんな言葉で納得する者など一人もいない。
「あら、先ほど聞こえたお元気そうな声は、イザベル様のものではございませんか?」
「ええ、わたくしも確かに聞きました」
「それに、上階がずいぶんと騒がしいようですわね」
「隠さないで教えてください。いったい何があったのです?」
「ええと……」
皆に囲まれて困り顔のクラリスを、傍らにいたメイドがおろおろと見つめる。
そこへ、二階の状況を確認したメイド長が、慌てた様子で階段を下りてきた。
「皆様、お待たせして申し訳ございません」
顔に「緊急事態発生」と書いたメイド長はそれでも落ち着いた声を保ち、階段下に勢揃いした招待客へ深々と頭を下げた。
「大変申し訳ございません。本日の朗読会は中止とさせていただきます。お帰りの際にお渡しする予定だった記念品を、今からお配りしますので、今日のところはお引き取りくださいませ」
丁寧な言い回しではあったが、その口調には有無を言わせぬ圧があった。
ここでごねてラスキン家と揉めるのは得策ではないと思ったのか、婦人たちは渋々その言葉に従った。
他の招待客と共に屋敷を出たクラリスは、話を聞きたい婦人方に引き止められそうになったが、どうにかそれをやんわり退け侯爵家の馬車に戻ることができた。
座席に落ち着いたところで、付き添いの侍女から「大丈夫ですか、奥様」と声をかけられる。
「こんなに早くお戻りになるなんて……。他の奥様方も帰られていくし……。いったい男爵邸で何があったのですか?」
馬車で待っていた彼女は、中で起きた騒動を知らずにいた。長年自分に仕えてくれている侍女に、クラリスは「それが……」と疲れた表情で答えた。
「何が起きたか話しても、あなたはきっと、信じないと思うわ」
「ええ? 何ですか、それ。話してくださいよ」
「……そうね。帰ってから教えてあげる。あとこれは、ラスキン家からいただいた記念品よ。パティスリー・フェリシテの包装紙だから、きっとマカロンね。侍女の皆で食べなさい」
「わぁ、ありがとうございます!」
結婚して二人の子を持っていても、まるで十代の女学生のようにお菓子で喜ぶ侍女を見て、クラリスはようやく表情を和ませた。それから窓の外に視線をやり、早々に去ることになった男爵邸を見つめた。
(イザベル様……。もしかしたら、何か悪い病に罹っていらっしゃるのではないかしら……。もし治る病気なら、どうにかしてさしあげたいわ……)
あんな目に遭ったにも関わらず、クラリスの慈愛の心はいささかも損なわれていなかった。心優しい侯爵夫人は、友人の一日も早い回復を祈りながら、男爵邸を後にした。
***
客が全員帰路についた頃。
部屋から使用人を全て追い出し、花瓶やガラスが散乱した荒れ果てた執務室で、イザベルは一人発狂していた。
「いったいどういうことなのよっ!」
テーブルに両手を突き、床に転がった空の香水瓶を凄い目で睨みつける。
あれから、自分を取り押さえようとする執事や他の使用人たちに向け、やみくもに香水を吹きかけては、「ワンと鳴け!」「三回廻れ!」と怒鳴り散らした。
だが誰もその命令には従わず、執事は泣きながら「奥様はご乱心されている! 早く教会から司祭を呼べ!」と他の者に命じた。
瓶が全て空になって、ようやくイザベルは抵抗を止めた。もう落ち着いたから大丈夫だと、不安がる使用人を全員部屋から追い出した。
それでもおそらく、執事は司祭を呼ぶだろうし、自分はしばらく自宅療養を命じられるだろう。
男爵夫人の執務室には、三瓶空にされた香水の残り香が充満し、誰かが慌てて窓を開けたが、おそらくこの匂いはしばらく消えないだろう。だがそんなことよりも、信じられないのは香水の効き目が切れたことだ。
頭に上った血を下げるため、イザベルはため息をついてソファに腰を下ろした。
これはやはり、あのメイドと商人がグルで、自分はペテンにかけられたと言うことか、と考える。
しかし蛇酒を飲んだメイドは逃げ出しもせず男爵家で働いているし、セルヴィッジ家の騎士にも下男にも香水の効果はあった。
「いったいどういうことなの……」
先ほどと同じ台詞を、イザベルは繰り返した。それ以外に、言葉は出てこない。
そんな、一人茫然自失状態の男爵夫人を少し上空から見下ろし、有沙は「フゥ」とため息をついた。
今朝、精霊王の手によって解呪されたそれは、今は何の変哲もないただの香水に戻っていた。クラリスや執事に命令が効かなかったのはそのためだ。
だがそんな事情をイザベルは知らないし、彼女にこの謎は一生解けない。
おそらく近いうちに、イザベルは例の商人を自宅に呼ぼうとするだろう。だがシモンはもう、ランズベリー商会にはいない。そもそもそんな男は、ランズベリー商会に存在していない。
同様に、商人ギルドの名簿にあるサントス商会の代表シモン・サントス・ソウザという人物は、『マリオネットの雫』を持ってきた商人とは別人だった。
つまりイザベルに呪物を売りつけたシモン・サントス・ソウザは、肩書きも年齢も、何もかもが嘘で塗り固められた詐欺師だったのだ。
偽物シモンの行方は、エドガーが監視につけた精霊の報告で判明している。彼はすでにウィスタリアを出て、隣国のラウレ帝国にいるらしい。しかしそこでは名前も身分も変えて、今はカトゥーレ共和国出身の見習い司祭を騙っているようだ。
あの男の裏には必ず黒幕がいて、いずれそちらと接触するだろうと予測し、今、偽シモンについては監視のみを続けている。
おそらく偽シモンはもう、ラスキン男爵夫人の件は終わったことにしている。名前も身分も偽り、今はもうこの国にいない彼を、イザベルが捜し当てることは不可能だろう。
(まったく、いったい何が目的なんだろう。ターゲットがアリッサなことは間違いないけれど、どうしてそんなにセルヴィッジ家を目の敵にしているの?)
黒幕が分からないことには、敵の目的も不明だ。それが有沙にははがゆかった。
(精霊王なんて呼ばれて持ち上げられているけれど、私は全能じゃない。その証拠に、あのシモンって男にもマインド・リーディングは効かなかったし、これから何が起こるのかを予知することもできない。ホシミの国の神子の方が、よほど有能だよ……)
極東の島にあるホシミという名の国には、予言ができる巫女がいる。占いに長けた神子と呼ばれる若い女性が国の長で、神官が政治を行う単一民族宗教国家だ。和風な国名といい、女性が国のトップなことといい、歴史の授業で習った邪馬台国とよく似ているな、と有沙は思った。
五十年ほど前になるが、一度この国にも行ったことがある。
ちょうど、年に一度行われる「星集の儀」という祭事の最中で、この期間は、世界中の精霊がこの国に集まるのだと言われている。
もちろん、本当に全ての精霊が一国に集うわけではない。だが確かに一つの土地に対して、集まった精霊の数はかなりのものだった。
おまけに神子や神官に限らず神聖力の高い民族なのか、精霊王である有沙が近づくだけで皆が何かを感じ取り、ある者は天を仰いで涙を流し、ある者は恐れ慄き地面にひれ伏しと、とにかくすぐ大騒ぎになったため、ろくな観光もできずに早々に退散した場所でもある。
そういう意味で、ホシミは有沙にとっても特別な国だった。
精霊王という立場ならあの国の神子を利用することも可能だが、あの国はあのままでいさせるのが良いと判断し、有沙はそれ以後一度もホシミの国へ行っていない。前世の母国を彷彿とさせる文化を持つため、滞在すれば懐かしい思いに浸れるかもしれないが、大切な場所だからこそあえて触れずにいる。
(まぁ、精霊たちから聞いた話だと、あの国は五十年前と変わらず平和らしいし……。神子は代替わりしたそうだけど、今回の件にもきっと無関係だよね……)
執務室の空間に浮かび、自身も物思いに囚われていた有沙は、チリン、という鐘の音に我に返った。
イザベルが執事を呼んだのだった。
心配顔で現れた執事に、イザベルは疲れた様子で、「先日うちに来た、シモンという商人をここへ呼んで」と命じた。
「あの男から買った商品のせいで、私はおかしくなったのよ。ただの香水に大金を払うなんて、本当にどうかしていたわ」
正気を取り戻したらしい主人を見て、執事は「おぉ……」と安堵の声を洩らした。
「それと、今日いらした方たちへ、詫び状を書くわ。それに添える品を、テネーブル宝石店で購入してきて。マネージャーに招待客リストを見せて、それぞれの方に合ったブローチを見繕ってもらって。そうね、一つ銀貨十枚から三十枚の範囲で選んでちょうだい」
「かしこまりました。すぐに手配いたします」
有能な執事はすぐに顔を上げ、「奥様」と控えめな声で言った。
「特にご迷惑をおかけしたセルヴィッジ侯爵夫人様は、いかがいたしましょう」
クラリスの名が出て、イザベルはピクリと肩を揺らした。
「他の方へのお詫びの品に加えて、何か別の物もお付けした方がよろしいのでは……」
「…………」
いきなりひどい頭痛を覚え、イザベルは険しい顔つきで額を押さえた。だが冷静さを取り戻した彼女は、執事の進言に「そうね」と同意した。
「それがいいわね。……じゃあセルヴィッジ家にはブローチとは別に、他の宝飾品をつけるようにして。額はお前に任せるわ」
「はい。かしこまりました」
自分の意見を受け入れてもらって、執事はすっきりした顔つきで部屋を出て行った。
だがイザベルの方は、よけいに腹の虫が収まらない。
不良品の魔道具を大金で買わされた上に、大勢の人間の前で恥をかき、何より、宿敵とも言えるセルヴィッジ侯爵夫人に対し、大きな借りを作ってしまった。
何もかもがうまくいかず、ただ苛立ちだけが募る。
そんな哀れな男爵夫人を、有沙は憐憫の目で見つめていた。
詐欺師に大金を騙しとられたことは、彼女にとって痛い勉強となったことだろう。これでしばらくは大人しくなるかもしれない。
だが、アリッサを殺害しようと計画し、魔道具を使ってクラリスまで操ろうとしたことは許されざる罪だ。
(やっぱりイザベルには罰が必要なのかな……。とりあえずこの、他罰的で自己中な性格はどうにかすべきだよね……)
しかし人間とは本来、自己中心的な生き物だ。その欲の強さがモラルや良心を上回った時、人は悪事を犯す。
精霊たちは、この世界の秩序やルールは、精霊王である有沙にあると言う。有沙が否と言えばそれは世界が否定するものであり、可と言うならば、多くの命が失われてもそれは「可」なのだ。
(私の個人的な感情で、イザベルを断罪してもいいの……? 彼女が問題ある人間であることは紛れもない事実だけど、実質的な被害は出ていないのに、未遂であっても罪は罪だと、私が裁いていいものなの……?)
逆に有沙が許せば、イザベルの罪は世界が許したことになる。精霊王の命であれば、精霊たちも彼女には手を出さない。
(だけどそうすると……、イザベルはまたセルヴィッジ家に対して悪だくみを考えそうだし……)
できれば有沙は、彼女に改心してほしかった。自分が指をパチリと鳴らせば、一瞬で消滅してしまうような脆弱な存在を、一方的に断罪したくなかった。
鳥の雛や生まれたばかりの子猫など、小さくか弱い命に対し人が感じる庇護欲と同様に、今の有沙にとっては、この世界の生きとし生けるもの、全てが慈しみ守るべき存在だった。イザベルもまた、有沙にとっては庇護の必要なか弱い命なのだ。それほどまでに、精霊王としての有沙の心は、深く広く成長していた。
とは言え、有沙にとって一番大切なのはアリッサと、彼女を取り巻くセルヴィッジ家の者たちで、それらを害する存在を放置しておくことはできない。
「うーーー……ん」
一つだけ、思いついた計画があった。
それを実行すれば、きっとイザベルは改心するだろうし、クラリスへのわだかまりも解けるだろう。
だが計画を遂行するにあたって、一つの懸念材料があった。だからすぐに、実行に移す気持ちにはなれない。
イザベルとはまた違った葛藤を抱え、有沙はひとまず男爵家から離れた。
だが彼女が目を離した隙に、事件は起こった。
第三十六話につづく
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