第三十二話
「一人二役の精霊王さま」第三十二話です。
本作は毎週火曜日の更新を目標にしています。
※一部アップ後に変更した箇所があります。
いきなり屋敷の主に客間へ呼ばれた若いメイドは、状況が理解できずにおどおどしていた。この春に地元の学校を卒業した小さな商家出の彼女は、真新しいメイド服もまるで借り物のように見えた。
シモンはメイドを近くへ呼ぶと、「君は、生き物で何が一番苦手かな」と言った。
「え……」
質問の意図を理解できない娘を、イザベルはじろりと睨んだ。
「さっさと答えなさい」
「はっ、はい! えっと、えっと……蛇、です」
「蛇。あのニョロニョロと細長い体をした、舌の長い……」
本当に苦手なのだろう。メイドはシモンの言葉を聞いたとたん、「ひっ!」と短い悲鳴を上げ、慌てて耳を塞いだ。
「なるほど、なるほど。どうやら相当、蛇がお嫌いのようだ」
「嫌いって言うか、すごく怖いです……」
両手を胸の前で組み、娘は青ざめながら答えた。
「子どもの頃に、ピクニックへ出かけて……。森の中で、大きな毒蛇に襲われそうになって……。それ以来ずっと、蛇が一番怖い生き物です……」
「なるほど、なるほど」
娘の説明を聞き、シモンは嬉しそうに頷いた。
「ならば……」
シモンはそこで、またトランクケースから何かを出した。高さ三〇センチほどの大ぶりなガラス瓶で、中には琥珀色の液体が入っている。
「お嬢さん、この瓶の中身を御覧なさい」
シモンに促され、メイドは恐る恐るテーブルに近づき、瓶の中を覗き込んだ。が、液体の中にあるものを目にするなり、声にならない悲鳴を上げ、数メートル遠くへ飛び退いた。
「何なの、いったい……」
怪訝な顔のイザベルに、シモンはにこやかな表情で告げた。
「これは、蛇酒です」
「え?」
「この瓶の中には、蛇の死体が浸かっているんです」
シモンは瓶を両手で持ち上げ、イザベルにもよく見えるように中身を光に翳した。たしかに琥珀色の酒の中に、とぐろを巻き細い体をした生き物の影が見えた。
「マムメイ国の修験者から手に入れたものです。毒性の強い蛇を、他の薬効効果の高い薬草や木の実と一緒に、度数の高い酒に長期間浸けて蛇酒にするのです。かの国ではこの蛇酒を、滋養強壮の特効薬として長年愛飲しており、特に精力の衰えに効果があるとして、中年男性から人気の薬酒なのです」
「あ、そう」
呆れ顔のイザベルを無視し、シモンは壁の隅で震えるメイドに、にっこりと笑いかけた。
「お嬢さん。あなたのすぐ近くにある水差しの隣のグラスを、こちらへ持ってきてください」
「え……。は、はい……」
メイドの娘は震えながらも、命令通りグラスを手に戻ってきた。シモンはグラスを受け取ると、蛇酒をそのグラスに注いだ。そしてそれを、青ざめるメイドに向かって差し出した。
「これを飲んでください」
「えっ!」
驚いて声を上げたのは、メイドでなくイザベルだった。娘の方は、もしかするとすでに予感していたのか。死刑宣告を受けた虜囚のような顔つきになり、恐怖のあまりその場で膝をついた。
「む、無理、です……」
顔を白く染めガタガタと震えながら、娘は言った。
「金貨を一枚差し上げます、と言ってもですか?」
「えっ……」
「え!」
イザベルはまた驚いたが、シモンは静かに微笑んだまま、床に座り込んだメイドを見つめていた。
「こちらの給金がいくらか存じませんが、金貨一枚を稼ぐのはなかなか大変でしょう」
「それは、もちろん……」
「どうですか? 人によっては高いお金を払ってまで欲しがる、貴重なお酒ですよ。これを飲み干すだけで、金貨を差し上げると言っているのです。この機会を逃す手はないでしょう?」
「それは……。でも……」
メイドはまた、チラと卓上の瓶を見た。そこには変わらず、蛇の死骸が酒に浸かっていた。
娘は慌てて目を逸らし、「それでも、私には無理です。できません……」と小さな声で答えた。
「では、金貨五枚では?」
「えっ!」
「ウィスタリアでは、金貨五枚で立派な家が建つと聞きました。この酒一杯飲み干すだけで、家が建てられるんですよ?」
娘にグラスを差し出したまま、シモンは笑顔で言った。
「信用できませんか? じゃあ、これでどうです?」
彼はそこでグラスをいったんテーブルに置くと、懐の布袋から金貨を取り出した。きっかり五枚を手の平に乗せ、娘にも見せる。
「あなた、本当にこの子に、金貨五枚払うつもり!?」
「はい」
シモンは表情を変えず答えた。
「男爵夫人の前で、嘘など申しません」
異国の商人は微笑んだまま、メイドに琥珀色の酒を突き付けた。「金貨五枚」という言葉はかなりの威力があったようで、娘は震えながらも、どうにかグラスを受け取った。
そしてそれを、口元にまで持っていった。
イザベルとシモンが見守る中、娘は意を決したようにグラスに口を付けたが、唇が液体に触れる前に、またそれを顔から遠ざけた。
「や、やっぱり無理です……。私にはできません……」
彼女はシモンにグラスを返し、その場で深く頭を下げて詫びた。
「申し訳ございません。どうかお許しくださいませ……」
「飲まないって言うの!?」
メイドの返事に驚き、イザベルは思わずその場で立ち上がった。
「別に毒を飲むわけでもないのに! 金貨五枚の対価を聞いても、それでも飲まないって言うの!?」
「も、申し訳ございません……。ですが、どうあっても無理なのです……。どうかお許しください……」
両頬を涙で濡らし、メイドはイザベルに向かって祈るように手を重ねた。
「イザベル様。申し訳ございません。私にはできません……」
「まあ、信じられない」
興をそがれた顔で、イザベルはソファに座り直した。
「私なら何杯でも飲むわよ? たかが蛇でしょう?」
「さすが、女性でありながら貴族位をお持ちの男爵夫人は、肝が据わっていらっしゃる」
シモンはニコニコしながら夫人と向き直り、「ですがこれこそ、私の狙い通りの展開です」と言った。
「何ですって?」
訝しげなイザベルの前で、シモンは床に跪いたまま泣くメイドに向かい、いきなり例の香水を吹きかけた。とたんに娘は泣き止み、茫とした顔で虚空を見つめた。
「君、喉が渇いたでしょう。ちょうどここに、渇きを癒やす極上の果実酒があります。飲みませんか?」
「はい、飲みます……」
虚ろな表情で、メイドは答えた。
「えっ!」
驚くイザベルの目の前で、怯えていたメイドは蛇酒のグラスを受け取ると、それを何のためらいもなく飲み干した。
「なっ……」
「美味しい……」
茫とした表情で、娘はそう言って微笑んだ。
「そうでしょう。とても貴重なお酒ですからね。もっと飲みたいですか?」
「はい……」
「では、今度は瓶ごと飲みますか?」
シモンはそこで、酒瓶を手に取り娘に渡した。蛇の死骸が浸かった瓶を、娘は平然と受け取った。さらに直接、瓶の口に唇を寄せた。
驚きに茫然とするイザベルの目の前で、娘は瓶から直接、蛇酒を飲んだ。
「あぁでも、飲みすぎは体に毒ですからね。その辺でやめておきましょう」
シモンが瓶に手をかけると、娘は素直に酒瓶を返した。
「ご苦労様です。これは約束の対価です」
シモンはメイドのエプロンのポケットに、先ほどの金貨五枚を入れた。
「二日酔いにならないよう、水を沢山飲んでくださいね。今日はもう、自室に戻ってお休みなさい。あ、今日ここで見聞きしたことは、すべて忘れてくださいね」
「はい……」
何の感情も移さない瞳で、娘は答えた。そしてそのまま、静かに部屋を出ていった。
「いかがですか」
思いがけない展開に茫然とするイザベルを見て、シモンはニッコリと笑った。
「この特別な香水、『マリオネットの雫』の効果は」
「マリオネットの雫。それがその香水の名前なの」
「はい。これを作った錬金術師が、フルードゥリス国の出身でして。国の伝統工芸品である操り人形から付けた名前です」
「錬金術師なんて、本当に存在したの?」
「元は魔塔出身の魔導士ですが。魔道具の研究に夢中になりすぎて、魔塔をくびになったそうです。今はユグドル王国の山に籠って、新しい魔道具を作る錬金術師をしています」
「ふぅん……。かなり怪しい商品ね」
「はい。ですからその効果を、直接男爵様に見ていただこうと思いまして」
「……そうね。かなり驚いたわ」
イザベルはソファに深く腰掛け、酒瓶をトランクに仕舞う白い商人をじっと見た。
「それで、使い方は今見た通りなの? 人形にしたい相手に、香水を吹きかけるだけでいいの?」
「はい。自分にかからないように少し距離をとるか、もしくはハンカチで鼻と口を覆いながら、使いたい相手に吹きかけます。ただし香水の効果は短いので、命令はすぐに実行できるものでなければなりません」
「どのくらい効果は続くの」
「もって一日、というところです。人によっては数時間で切れる場合もございます。それと、同じ人物に使うとどんどん効果が薄れますし、その者が本当にしたくないことはできません」
「死にたくない人間に死ねと言っても、それは実行しない、ということね」
「左様でございます」
「……まぁ、こういう道具はそういった制約はつきものよね。でも、簡単な命令ならいくらでも聞くってことよね?」
たとえば……とイザベルは声のトーンを落として言った。
「さっきの蛇酒が毒入りワインと知っていても、命令を受けた人間はためらわず飲むってことでしょう?」
「そうですね。剣で自分の胸を突くことはしませんが、毒を薬と信じさせて飲ますことは可能でしょう」
「だけど、信じられないわ」
淡々と恐ろしい言葉を口にする商人を、イザベルはさっきより疑心に満ちた目で見つめた。
「こんな恐ろしい魔道具が存在するなんて。じつはさっきのメイドとあなたがグルで、私をペテンに嵌めようとしているのではなくて?」
シモンはクッと喉の奥を鳴らし、「たしかに物騒な品です」と言った。
「ですから、けっして市井には出回りません。入手できるのはごく一部の、特権階級にある方たちだけです。何より大変高価な物ですから、市民がおいそれと買える物ではございません」
「これを持ち込んだのは、うちが初めて?」
「え? ええ、はい。ランズベリー伯爵様から、ラスキン男爵様は新しく珍しい品がお好きだと聞いて、まずこちらに伺ってから他のお屋敷にも行かせていただこうかと……」
「全部私が買うわ」
「えっ……」
驚く商人をジロと睨み、イザベルは扇で口元を隠しながら言った。
「聞こえなかったの。そのマリオネットの雫は、全部私が買うわ。他の家には教えないで」
「ええっと、こちらの香水ですが、一瓶金貨二百枚で取り引きさえていただこうと思っておりまして。それがわたくしの手元には現在、三瓶ほどございますので……」
「全部で金貨六百枚ってことね。いいわ、即金で全部買うわ」
イザベルのこの言葉に、シモンは嬉しそうに笑顔を見せ、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
「一瓶で何回使えるの」
「そうですね。一回一吹きで、十回分はございますでしょうか」
「三瓶で三十回ね。在庫はもうないの」
「作り手の錬金術師によると、材料の調達が困難とのことで、同じ物を作るにはかなり時間がかかるようです」
「……まあ、三瓶もあるのだから、べつに急がないわ。ただし、また同じ香水ができたら、また私の所へ持ってきてちょうだい。他の貴族には売らないと約束して」
シモンは大仰に腰を折り、「かしこまりました」と了承した。
あと、とイザベルは続けた。
「あなた実演のために、商品を一回使ったでしょう。十回分が金貨二百枚なのだから、一吹き使った瓶は金貨百八十枚にしなさい」
***
きっちり金貨五百八十枚の代金を受け取り、シモンは帰っていった。またこのような特別な品が手に入ったら、いの一番にこちらへ持って参ります、と言ったため、イザベルは今後ランズベリー商会との商談は、このシモンを担当にすることを決めた。
ふたたび自室に戻り、イザベルは専用の木箱に入った、三つの香水瓶を見つめた。
「これを使えば……、私の計画を実行に移せるわ……」
イザベルは呼び鈴を鳴らし、入ってきたメイドに告げた。
「セルヴィッジ侯爵家に使いを出して。侯爵夫人に届けたいものがあるから、そちらの屋敷から人を送ってほしいと」
第三十三話につづく
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