第二十七話
「一人二役の精霊王さま」第二十七話です。
本作は毎週火曜日の更新を目標にしています。
ウィスタリア王宮の内部は、驚くほど広大である。
王族が暮らす宮殿以外にも貴族議会の立法府と実務に携わる行政府の関連部署、王の執政を補佐する文官たちが集う王政執務室、軍事担当である王国軍の軍本部など、様々な機関が専用の建物を与えられて、頑強な塀に囲まれた王宮の敷地に点在している。
塀内部の端と端にある内宮と議事堂は、人の足では一時間以上かかる距離になるため、中央を走る本道は普通に馬車も走っている。
王宮内に入るにはまず専用の通行証を使い、東門西門南門と分かれている三つの門どれかを使って塀の中に入る。門兵が常駐しているが、何しろ毎日あまりに多くの人が出入りするため、下働きの者などは顔パス状態である。
その代わり建物内部にもいたるところに衛兵がおり、それぞれの建物にもまた許可なく入ることは叶わない。王宮の敷地内は基本魔法の行使は禁じられており、特に主要な建物は、攻撃系魔法を封じる特殊な魔法陣により守られている。また外壁は十メートル以上の高さがあり、これも安易な侵入は不可能だ。王都自体平和な街だったが、王宮内は特に不可侵の安全地帯であった。
そしてこの煌びやかな安全地帯で、“墓守り”と呼ばれている部署がある。
「公文書保管庫管理室」なる職員わずか三名のこの部署は、法務省の公的文書管理課に属する。現王朝のみならず、ウィスタリア国が興って以来の様々な公的書類の原本及び正本が保管されている倉庫(つまり公文書たちの“墓”)を管理維持することが仕事で、バイロン・ハーリー男爵はここの管理室室長という立場にあった。
職員らの主な仕事は、国が正式に発表した政令文や外交報告書の分類・整理および保管、また誰がどういう目的でその正本を外へ持ち出したかという貸し出しの記録であり、その仕事内容は図書館司書とよく似ている。
だが大勢が利用する図書館と異なり、この管理室を利用者が訪れるのは稀で、新法が制定されたり外国の使節団が来たりというイベントでも起こらない限り、新たな仕事が入ることもない。
三人の職員は通常、劣化破損した書類を専用の道具を使って修復するのが一日の仕事で、平和な王宮内にあっても、ことさら長閑な、退屈すぎる職場だった。
この日もハーリー室長は二人の文官とともに、百年前の議事録集を黙々と修繕していた。糊が乾いて背から外れたページを、正しい順番に貼りつけていく。
「室長」
勤続五年目の青年文官が、室長席に座っているハーリー男爵に話しかける。
「そう言えば、奥様のお加減はいかがですか。体調を崩されたと聞いて五日になりますが」
「ああ……、うん」
バイロンは視線を机上に落としたまま、曖昧な表情で答えた。
「まだ、良くないね……」
「医者には診せたのですか?」
「うん、何人かに来てもらったが、原因不明だと言われたよ……」
部下の顔を見ないまま、男爵は言った。
「それは心配ですねぇ……」
向かいの席にいるもう一人のベテラン職員が、人の良い顔をわずかに歪めて会話に入ってきた。
「この前は、執事の方が重篤な状態だったのでしょう? 質の悪い伝染病という可能性はないのですか?」
「それはないよ」
男爵は即座に答えた。
「それなら、他の者も具合が悪くならないとおかしいだろう。私はこうして元気だし、住み込みの下男も通いの女中も、みんな何ともないんだ。それに件の執事も、今はもうすっかり元気になっている」
「奥様の症状はどういったものなんですか?」
「風邪に似ているが、熱はないんだ……。ただめまいがひどくて、食欲も落ちている」
「他にはどんな?」
「頭痛と関節痛があるようだ。耳鳴りもするらしい……」
「高熱ならそれら全部説明がつきますが、体温は平常なんですか?」
「……うん」
「ううん……、よく分からない症状ですねぇ」
「……そうだね」
バイロンは気まずそうに答えた。視線はずっと、修復中の議事録に向いている。
コの字型に机を並べて修復作業をし、作業中の飲食は禁じられているため、気を紛らわせる方法はおしゃべりくらいしかない。
口数の少ない男爵の態度を、愛妻を心配して気落ちしていると解釈した二人の職員は、自分の母親にはあの薬湯が効いたとか、どこどこ町の教会に腕のいいヒーラーがいるとか、どうにか男爵の力になれないかと、お節介な発言を続けた。
だが部下が気遣えば気遣うほど、男爵の胸はズキズキと痛んだ。夫人の病は詐病であるのだから、善良な彼にとってこの状況は針の筵でしかない。
「と、ところで……」
あまりのいたたまれなさに、バイロンは無理やり話題を変えた。
「君たちにちょっと聞きたいんだが……」
「はい」
二人はピタとお喋りの口を閉じた。
「あの……。もし、もしも、の話なんだが……」
そこでようやく、バイロンは顔を上げた。緊張で右頬がわずかにひきつっているが、本人は気づいていない。
「私が、この仕事を辞めると言ったら……どう思う?」
「え?」
「はい?」
意外な質問を受けて、部下二名は目を瞬かせた。
「どういう意味ですか?」
「まさか室長、異動になるんですか?」
「いや、それは……、まだ決まったわけじゃないんだが……」
自分から切り出した話題ながら、バイロンは返す言葉を失くしてまた視線を机に戻した。
そのタイミングで、力強いノックの音が響いた。
「はい」
一番若い青年文官が席を立ち、内側からドアを開く。
廊下に立っていたのは、年若な軍服姿の青年だった。肩の飾りから佐官の階級と分かったが、三人にとって初めて見る顔だった。
見慣れぬ武官の登場に、応対した青年文官が戸惑い顔になる。
軍人らしい引き締まった体の武官は、感情の見えない顔つきで、「事前の連絡もなく、突然来て申し訳ありません」と詫びた。
「こちらに、バイロン・ハーリー男爵はおいででしょうか」
「あ、私です……」
男爵が立ち上がると、漆黒に近い青髪の青年は優雅なお辞儀をし、「初めまして。私は王国軍総司令部参謀補佐官のルイス・ハサウェイと申します」と自己紹介した。
「じつはハーリー男爵に、私の上司であるセルヴィッジ参謀長がご相談したいことがあるとのことで、お迎えにあがりました。今、お時間よろしいでしょうか」
「えっ!」
いきなりセルヴィッジの名が出て、バイロンは明らかに動揺した。
「さ、参謀長殿が、私にどのような用が……」
「それは私も存じ上げません。話は直接、参謀長からお聞きください。今都合がつかないようでしたら、のちほど改めてお迎えに参ります」
「い、いや、今からで大丈夫です……」
バイロンは慌てて席を離れ、ハサウェイ補佐官の前に行った。そして二人の部下を見て、「ちょっと席を外すよ。戻りが遅くなるかもしれない。適当に昼休憩に入ってくれ」と命じた。
***
「単刀直入にお尋ねする。ハーリー男爵。あなたは、我がセルヴィッジ侯爵家の領主代行の任を受ける気はおありか」
男爵が籍を置く保管庫管理室から、歩いて三〇分ほどの距離にある王国軍総司令部参謀長執務室。
バイロンが到着した時、部屋の中にはトマス・セルヴィッジ侯爵が一人で待っていた。彼は使いに出した部下を下がらせ、男爵との挨拶もそこそこに椅子を勧めると、その向かいに腰を下ろし、開口一番告げた。
「もしおありなら、貴殿にはチェスナス地区全域の管理監督をお任せしたいと考えているのだが、いかがか」
「えっ……」
もしかしたら、と予感していた申し出だったが、それでもあまりに突拍子のない話だったため、バイロンはとっさにうろたえた。
「……男爵」
困惑顔のバイロンを見て、トマスが不思議そうに訊ねた。
「貴殿もすでに承知の話と聞いていたのだが、もしや何も聞いておられないのか?」
「えっ、あっ……。いえ、そんなことはありません……」
ポケットからハンカチを出して、バイロンは額に滲んだ汗を丁寧に拭った。
「その、ある御方から、私にそのような話が来ることは、すでに伺っております。おりますが……、あまりに常識を超えたお話でしたので、にわかには信じ難く……」
「うむ」
トマスも厳しい表情でうなずいた。
「私も驚いた。しかし精霊様がそうせよと仰ったのだ。その通りにすれば間違いないだろう」
「そうですね……」
思わず同意しかけたバイロンはそこで、「えっ!」と驚いて顔を上げた。
「侯爵様の所にも、精霊様がいらしたのですか?」
「うむ。にも、と言うことは、男爵の所にもお越しになったのだな」
「は、はい……」
お茶も茶菓子も、何も置かれていない無垢のテーブルを挟んで、二人の貴族は磨かれた天板をじっと見つめた。
今この会話で、トマスが言った「精霊様」とは光の精霊エレノアのことで、男爵の言う「精霊様」はもちろん、精霊王のリディアと闇の精霊エドガーのことだった。そこに小さな齟齬が生まれていたが、二人とも気づいていなかった。
「……あの」
短い沈黙のあとで、バイロンは思いきって侯爵に訊ねた。
「侯爵様は、どこまでご存知なのでしょうか」
「どことは? 精霊様からは今回、チェスナス地区を自分たち精霊の治める土地として借りたい、というお話があった。しかし実務は人がする必要があるため、領主代行人にハーリー男爵を推薦すると。すでに男爵にもその旨伝えてあり、雑用を済ませ次第、男爵には家族とともにチェスナス地区へ移ってもらうとのお話だったが……」
「雑用……。それが何を指すか、侯爵様はご存知ですか」
「今の職場を辞めて住居を移らねばならないから、それに伴う雑務のことでは?」
「それもありますが……。あの、ランズベリー伯爵家については……」
「ランズベリー伯爵? いや、何も聞いていない。伯爵がどうかしたのか」
「いえ、あの……。精霊様からお聞きになられていないのならば、私からお話しすることでは……」
「そこまで話して秘密にするのは無理があるだろう。今回の件に伯爵がどう関わっているのだ」
トマスは粘ろうとしたが、その時、いきなり室内に強い風が吹いて、机上の書類がパラパラと捲られた。
窓も扉も閉じられた、風の抜け道などどこにもない密室で起きた強風に、二人の貴族はとっさに身を起こして口を噤んだ。
「い、今のは……」
「……いらぬ詮索をするな、という精霊様からの忠告だろう」
「そんな……。もしや私の軽はずみな発言が、精霊様の不興を買ってしまったのでしょうか……」
青ざめる男爵に対し、セルヴィッジ侯爵は落ち着いていた。
「この程度のことでうろたえることはない。精霊様と繋がりを持ったのならば、貴殿の身近にも精霊の使いが常駐していることだろう。また守護を施した装身具なども受け取ったのではないか?」
「え? ええ……。私はこの懐中時計を、妻には指輪をいただきました……」
そう言ってバイロンは、懐から古びた時計を取り出した。
動いてはいるがかなりの年代物で、彼が祖父から譲り受けた骨とう品だ。美術品としての価値はない。
しかし今それには、闇の精霊がかけた強固な防御系魔法がかけられている。魔物を遠ざけるのはもちろん、呪いや病気、他人からの悪意すら弾く鉄壁の守護魔法である。
「私はあの剣だ。妻には腕輪を頂戴した。屋敷にも精霊の加護が施されているせいか、家人もみな元気そのものだ。セルヴィッジ侯爵家は今、この王宮内よりも安全が保障されている。おかげで私は家族の心配をすることなく、職務に励むことができる。本当に有難いことだ」
トマスはしみじみした口調で言った。
「これほど大きな恩恵を受け取っているのだ、たまの叱責くらい謙虚な心で受け止めねばならぬ」
「……たしかに、そうですね。まさか自分にこのような奇跡が起こるとは、想像もしていませんでした」
男爵も侯爵の弁に同意した。
もしあのまま精霊の助けがなければ、自分の妻は本当に呪われて病に罹り、家宝の書物も伯爵家に奪われていたことだろう。
それがリディア様とエドガー様のおかげで、妻には精霊の加護がついた指輪を贈ることができ、賢者の書も安全で、伯爵の間者だったウェッバーを忠実な家臣に変えることができた。
そして極めつけが、これだ。あの名門セルヴィッジ侯爵家の領主代行という、名誉な職を得る機会を得た。これ以上の幸運があるだろうか。
そこでバイロンはようやく、自分が侯爵の申し出に対し返事をしていないことを思い出した。
「あの、侯爵様……」
汗を拭ったハンカチを固く握りしめ、バイロンは真剣な表情で言った。
「先ほどの領主代行の任ですが……。私のような者で良ければ、謹んでお受けしたいと思います」
「ん? おお、そうか」
トマスは表情を緩め、部下にはけっして見せないにこやかな表情で言った。
「受けてくださるか。有難い。ではさっそく、こちらの委任状にサインをいただけるだろうか」
トマスが用意していた委任状には侯爵家の紋章が刻まれており、当主のみが使える家門印も押印されていた。この委任状が、公的にも認められる正式な契約書である証拠だ。
委任者の署名欄にはすでにトマス自身のサインも入っており、あとはバイロンが受任者の欄に署名するだけだった。
ペンを手にしたバイロンはそこで、委任事項の内容を見て我が目を疑った。
委任の項目は主に、代行人の権利と利益について記していた。
まず委任者は受任者に、土地と領民を監督管理する領主権限を一括委任する上、領民税を徴収しない代わりにチェスナス地区での交易や地区内での商業活動において派生した売上の三割を徴収する権利を与えること、逆に地区内で起きた災害や事故等の損害はすべて委任者であるセルヴィッジ侯爵家が負担すること、先述の徴収金とは別途、受任者には毎月決まった額の報酬金が支払われること、などが記されていた。
また給与代わりの報酬金は、現在バイロンが王宮から支給されている給与の、およそ二十倍の額だった。
「こ、侯爵様……」
ペンを手にしたまま、男爵は震える声で言った。
「この、領主代行人に支払われる報酬ですが……月額ではなく年額の間違いではないでしょうか……。もしくは桁が一つ違っているとか……」
「ん?」
トマスは指摘された箇所を見て、「……受任者には毎月、金貨百枚が報酬として支払われる。報酬金は毎月一日に、王立銀行の指定口座に入金される。……いや、どこも間違ってはいないが?」と言った。
「報酬が高すぎませんかっ!?」
人生でめったに大声を出すことのないバイロンだが、このところ驚くことが多く、今日も大声で叫ぶ羽目になった。
「私の領主としての力量もご存知ないのに、初めからそんな高額の報酬を提示しては、きっと後悔なさいますよ!?」
男爵の訴えを聞いて、トマスは「ハハハッ」と小さく笑った。『氷の貴公子』が突然見せた希少な笑顔に、バイロンは驚いて動きを止めた。
「……失礼」
トマスは笑いを引っ込めたが、その目は柔らかな弧を描いたままだった。
「いや、あらかじめ精霊様より、貴殿の人となりを伺ってはいたのだが、私が想像した以上に男爵は真面目なお人柄のようだ。これなら私も安心して、あなたに領地の運営を任せることができる。……ハーリー男爵」
“貴殿”から“あなた”と二人称を変化させ、トマスは親しみのこもった口調で言った。
「侯爵家と男爵家という貴族の階級のみで見れば、私の方があなたより格が上となるのだろう。だがしかし、精霊様に仕える信徒という立場で見れば、我々は同胞、朋輩だと言える。どうか私とは今後、対等の友人として接して欲しい。私のことはファーストネームで、トマスと呼んでくれ。私もバイロンと呼ばせてもらう」
「そんなっ……。侯爵様。それはあまりに、恐れ多いお申し出です……」
「いや」
トマスは改めて契約書をバイロンの前に置き、ペンを持ったまま固まった彼の左手を掴んだ。
「この世界の大きな理の前では、我々人間の力などあまりに弱く小さい。娘が生まれて精霊様の御力を目の当たりにし、私はそのことを痛感している。貴族階級制度などと言う、ちっぽけな社会のルールにこだわっていては、この世界に生を受けた命としての使命を見失うおそれがある。私は王国民で貴族である前に、一人の人間であり愛する家族を持つ一人の男だ。その事実を忘れてはいけないと思っている。あなたもそうではないのか、バイロン」
「…………」
いきなり力強く諭されたバイロンは、目の前の真紅の瞳を茫然と見つめ返した。
これまでの人生、貴族としてハーリー家の嫡男として相応しい人格と所作を求められたことはあっても、一個の命として自分らしく生きろと諭されたことはない。
ブルルッと武者震いに似た戦慄が全身を駆け抜け、バイロンの顔つきが変わった。
気弱で真面目一辺倒な貧乏貴族の顔つきから、深慮遠謀な知性を湛えた、正道を歩む立派な領主代行人の顔へと変化したのだ。
「……ありがとうございます。あなたの期待に応えるべく、チェスナス地区の運営に尽力いたします。トマス」
解放された左手で、バイロンは委任状にサインした。
「うむ。よろしく頼む、バイロン」
新たな友情を芽生えさせて、二人の立派な貴族はその場で固い握手を交わした。
第二十八話につづく
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