第二十二話
「一人二役の精霊王さま」第二十二話です。
本作は毎週火曜日の更新を目標にしています。
三日三晩がすぎた夕刻。
ダグラスが儀式を終えたという知らせを受け、有沙は王都の上空でエドガーと会った。
「もうすぐ例の雇われ傭兵たちが、指輪を受け取りに現れるはずです」
「そう」
「いかがなさいますか」
「……とりあえず、連中にそのまま指輪を渡そう。ハーリー男爵夫妻の結婚記念日は明後日だよね」
「はい」
「ウェッバーは今どうしてる?」
「ハーリー家で床に伏しています」
「ふぅん……」
「あれから丸三日、ろくに食事もとれないほど病状は重く、医者からはもってあと数日の命と言われたそうです」
裏切り者の家臣を、自身の忠実な部下と信じて疑わないハーリー男爵は、厳しい家計から大金をかけて、王都の高名な治癒師を呼んで治療を試みたが、何しろ病の原因は精霊王の魔法だ。ただの人間に治せるはずもなかった。
「本当の雇い主である、ランズベリー伯爵は? 自分の部下が病気に罹ったことは、もう彼も知っているんでしょう?」
「はい」
そちらにも闇の精霊獣を送り込んでいたエドガーは、有沙の問いに即座に答えた。
「ランズベリー伯爵は、ウェッバーが死ねば彼の仕事を引き継ぐ人間が必要になるため、後任をハーリー家に送るよう指示しました」
「それだけ?」
「それだけです」
「ふぅん……」
有沙は顔色一つ変えず、「伯爵にとってウェッバーは、いくらでも替えが利く存在ってことね」と呟いた。
「……精霊王様」
エドガーはそこで、思いきって口を開いた。
「このまま、ウェッバーを見殺しになさるのですか」
「え?」
思いがけない闇の精霊の言葉に、有沙は目を瞬いた。
「その……。僕がこのような発言をすることは、不敬に値することと重々承知しております。ですが、あの者にも更生のチャンスを与えるべきではと……」
視線を下に向けたまま、エドガーは必死に訴えた。
「あれから、あのウェッバーなる者について調べたのですが、彼は少年時代、故郷の村で魔物に襲われております。あの顔の痣は瘴気に侵されたためで、そのせいで彼はあのような性格に……」
「エドガー」
一瞬驚いた有沙だったが、彼女はすぐにクスリと笑い、言った。
「うん、そうだね」
今度はエドガーが驚いた。
有沙はいつもの屈託のない笑顔で、「ごめんね、内緒にしてて」と小さく舌を出した。
「じつはもうね、手は打ってるの」
「え?」
「とりあえず、ハーリー男爵家に行こう」
精霊王の言葉に、闇の精霊は事態を飲み込めないままうなずいた。
***
「ウェッバー……。ウェッバー……」
ハーリー男爵の呼びかけに、男はゆっくりと目を開けた。
「ウェッバー……。気分はどうだい……?」
「だん……な……さま……」
老紳士の柔和な瞳を見つめ返し、この三日で体重が一〇キロ以上落ちたウェッバーは、今にも消え入りそうな声で答えた。
「私は、いったい……」
「ああ、まだ起きなくて良い。寝ていなさい」
上体を起こそうと身動ぎしたウェッバーを、男爵は慌てて片手で制した。
「ここは私の部屋ではないようですが……。もしかすると、客間ですか……」
「お前の部屋は、雷で大穴が空いてしまったんだよ。落雷の後、お前は三日三晩、ずっと意識不明のまま苦しんでいたんだよ」
「はい、それは覚えております……。そうですか……あれから三日も経ったのですか……」
まだ頭が茫としているウェッバーは、それでも本来の任務を忘れていないのか、「今は何時ですか」と時間を気にした。
「午後四時を過ぎたところだね」
「私に客人はありませんでしたか」
「いや、誰も訪ねてきてはいないよ。それよりも、ウェッバー。気分はどうだね」
「はい。あの……かなり楽になりました」
まだ顔は青ざめ呼吸も荒かったが、その言葉に嘘はなかった。全身を絶え間なく襲っていた痛みが消え、手足の震えや耳鳴りも治まっている。
「おお……。良かった、薬が効いたのだね……!」
こちらも睡眠不足らしい顔色で、ハーリー男爵は感極まった声で言った。彼は涙ぐみながら、ベッドに横たわる部下の手を取った。
そこに、男爵夫人の案内で治癒師の司祭が現れた。
「まさか、目が覚めたのですか……!」
彼はベッド上の患者を見て、驚嘆の声を上げた。
「信じられない……。奇跡だ……」
司祭は患者の傍らに跪くと、その手を取って光魔法の【発現】をかけた。この魔法は、一見異常がないのに痛みや不調を訴える患者に対し、怪我や病の原因がどこにあるかを見つけるための補助魔法だ。これは瘴気や毒の発見にも使える魔法で、有沙や精霊たちは無意識に使っている能力でもあった。
「すごい。内臓を中心にして、全身に広がっていた病魔が、すべて消えている……。我々があれほど治療しても治らなかったのに……」
「司祭様。ではウェッバーは、彼はもう大丈夫でしょうか」
男爵の問いに、彼と同じ世代と思われるベテラン司祭は、「ええ」とためらいがちに答えた。
「本当に不思議ですが……、彼の体を蝕んでいた病魔は消え去りました。まだ体が弱っていますから無理は禁物ですが、しっかり療養すれば大丈夫です」
「それは良かった。本当にありがとうございます。おい、お前。ここまで往診に来てくださった司祭様に、治療費をお渡ししてくれ。それと、ウェッバーに温かいスープか粥を」
「はい」
貞淑な男爵夫人は笑顔でうなずき、「司祭様、どうぞこちらへ。お茶をご用意しますわ」と彼を別室に案内した。
貧乏な男爵家では使用人が少なく、執事のウェッバーと女中に下男が一人ずつ。コックや庭師すらいない。ゆえに来客のもてなしは、常に夫人自ら行う。
二人が消えて部屋にはまた、男爵と病人の執事だけになった。
「旦那様……」
意識がしっかりしてきたウェッバーは、青ざめながら主に問うた。
「あの、さきほど薬と仰いましたが……。まさか私の治療のために、教会の司祭を呼んだのですか?」
オスティアには薬師や治癒師など、怪我や病を治す職が複数存在したが、精霊教会の司祭は、それらヒーラーの最高位に位置する。お抱えのヒーラーを雇っている貴族もいるが、大抵の貴族は病気に罹ると教会の司祭を頼る。
しかし治癒師は希少な光魔法の使い手で、彼らの魔力にも限界があり、一日に診られる患者の数は限られ、自然と治療費は高額となった。ゆえに貧しい平民は、病に罹っても自力で治すか、せいぜい町の薬師を頼るしか手がない。当然平民のウェッバーも、これまでの病気や怪我は薬と自宅療養に頼ってきた。
何しろ高位のヒーラーを雇えば、一度の依頼で半年分の給金が飛ぶのだ。そんな贅沢は許されない。
戸惑い顔の家臣に、男爵は「そうだよ」と笑顔で答えた。
「何しろ大変な苦しみようだったからね。事は一刻を争うと思い、聖教会の司祭をお願いしたんだ」
「そんな……」
思いがけない男爵の言葉に、ウェッバーは青ざめた。
「だが教会の司祭も魔塔の魔導士も、誰もがお前の病を治すことはできないと匙を投げたのだ」
「えっ……」
「でもね、私はどうしてもお前を治してやりたかった。そうしたら今朝、見知らぬ老婆が我が家を訪れ、我が家の家宝と、どんな病にも効く万能薬を交換してやる、と言ったんだ。私は藁をも掴む思いで、その薬をお前に飲ませた。そうしたら本当に、お前の呼吸が落ち着いて、こうして話ができるほどに回復した。薬が本当に効いたんだよ。あの老婆はきっと、女神が遣わした精霊の使者に違いない」
「…………。……え?」
さらに信じ難い話を聞いて、ウェッバーはポカンとした。
「だ、旦那様……。まさか、その薬と、男爵家の家宝を、交換されたの、ですか……?」
「ああ、そうだよ。だが、家宝と言ってもただの本だ。人一人の命に比べたら、手放しても惜しくはないよ」
「ほ、本とは……、まさか……」
さっきまでとは違う理由で青ざめるウェッバーに、ハーリー男爵は笑顔で答えた。
「ああ、モーリスの賢者の書だよ」
「なっ……!」
あまりの衝撃に体の不調も忘れ、ウェッバーはガバと身を起こした。
「そんなっ! そんな貴重な物を! あなたはっ、私なんかのためにっ……!」
演技することも忘れて、ウェッバーは叫んだ。
「何という……、あなたは、何と愚かなことをなさったのです! 私の命はいくらでも替えが利くものですが、あの本は世界に数冊しかない、非常に貴重な書物なのですよ!」
「だが、世界に一つしかない物ではない。原本は王国の宝物庫に保管されているし、私が持っていたのはただの写本だ」
「それでもっ! それ一冊で城一つ建つほどに、貴重な品ではないですか!」
自分でも気がつかないうちに、ウェッバーは泣いていた。泣きながら、彼は訴えた。
「私は知っておりますよ! あなたは、あの本は先祖代々大事に受け継がれてきたハーリー家の宝だから、たとえどれほどの大金を積まれても手放す気はないと、そう仰ったでしょう! ランズベリー伯爵から、金貨五百枚で買い取らせてくれと頼まれた時も、頑なにその申し出を拒まれたでしょう!」
―― いい年をした大人の男が人前で泣くなど、末代までの恥だ。
そんな強気な台詞を口にしていた彼は、両目から滂沱の涙を流して言った。
「金貨五百枚と言えば、ハーリー家の予算十年分に値するのですよ! 税や使用人の給金を払うのにも困窮し、旦那様も奥様も我々と同じ食事をとり、いっさいの贅沢をせずに暮らしていらっしゃる。それでも売らなかった本ですよ! そんな大切な物を、貴重な本を、なぜ私なんかのために……ためにぃいいい……」
最後は嗚咽混じりで言葉にならなかった。ウェッバーはその場でうずくまり、オイオイと声を上げて泣きだした。
「なんか、なんかと、そんなに自分を卑下するものではないよ、ウェッバー」
号泣する使用人の丸い背を、男爵は骨ばった手でゆっくりとさすってやった。
「この一年、うちの安い給金で、お前は本当によく働いてくれた。ランズベリー伯爵からの話を持ってきてくれたのも、うちの窮状を見かねてのことだったのだろう? だがあの貴重な本を、我が家の家宝を、ただ金と交換するのは、私の良心が許さなかったのだよ。貧乏貴族と見下されても、毎日質素な食事しかとれなくても、私の矜持は傷つかない。だが、大切な家族の命とただの本を天秤にかけて本の方を選んだなら、私はこの先ずっと、胸を張って生きることができない」
淡々と、静かに穏やかに、男爵は言った。
「だからね、ウェッバー。本と薬を交換したことは、私が私のためにしたことなんだ。お前は何も気に病むことなく、今は体を回復させることに専念しなさい」
「だ、旦那様……。こんな私を、家族と言ってくださるのですか……。こんな醜い、薄汚れた人間を、……私なぞを……」
涙と鼻水でグシャグシャになった顔で、ウェッバーは言った。
「私がどんなつもりで、この家に奉公に来たかもご存知ないのに……。私は……私は、本当は、……」
そこまで言いかけ、ウェッバーは「ぐぅっ!」と口を押さえた。
彼の首の周りで黒い霧が蛇のようにとぐろを巻き、その喉を締め上げるのを、同じ部屋にいた有沙とエドガーは無言で見つめた。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
大きな咳をして、ウェッバーはいきなり喉から血を吐いた。
「ウェッバー!」
驚く男爵に、ウェッバーは唇から血を流しながらも、懸命に訴えかけた。
「だ、旦那様……。どうか、お許しください……。私は、ランズベリー伯しゃ……で……あな、た……う……ぎ……、た……。ゆび……、奥様に……で……くだ……」
ウェッバーは、どうにかして男爵に真実を告げようとしたが、喉にかけられた誓約の術により、それ以上の言葉を口にすることは叶わなかった。
「……精霊王様」
「うん」
有沙がそこで手を翳すと、ウェッバーはいきなり意識を失い、その場に崩れるように倒れた。
「ウェッバー!」
男爵の叫び声を聞いて、夫人と司祭が慌てて戻ってきた。
司祭は気を失った患者の額に手を置くと、「……大丈夫です」と低い声で告げた。
「起きてすぐに興奮したせいでしょう。気を失っただけです」
その言葉を聞いて、男爵夫妻はホッと息をついた。
「あの、ひどく血を吐きましたが、それは……」
「乾燥した喉をいきなり使って、中の皮膚が切れたのだと思います。これは私の治癒魔法ですぐに治せます」
「ああ、そうですか……。良かった……」
あくまで善良な男爵は、安堵に肩を落とし、隣に立つ夫人と微笑みあった。
「エドガー」
その様子を茫然と見守っていた闇の精霊に、有沙が声をかける。
「ウェッバーはしばらく目を覚まさないよ。今度はダグラスの所に行こう」
「あ、はい……」
気づかわしげな視線を病人に向けつつ、エドガーはその命に従った。
***
うらぶれた安宿の地下室。仕事を終えたばかりの哀れな術師は、硬いベッドの上に横たわっていた。
呪いのかかかった指輪は簡素な机の上に置かれていた。三日前まで無害な宝飾品だったそれは、今は禍々しいオーラと臭気を放つ呪物へと姿を変えていた。高位の魔術師でなければ見破れないほど、高度な隠蔽の術がかかったそれを見て、エドガーは「もったいない」と呟いた。
「このダグラスという男、自身を平凡な人間と言っていましたが、それは誤りですね。これほど巧妙な術をかけられるのであれば、魔塔でも上位の魔導士だったことでしょう」
「古代魔術の研究をしてたって言ってたから、自分で魔法をかける機会は少なかったんじゃないかな」
有沙はベッドの傍らに立ち、ゼィゼィと荒い息を吐く魔導士の顔を見下ろした。
呪術は術師にとって諸刃の剣だ。まず呪いの対象者の毛髪や爪など体の一部を手に入れ、自身の血で緻密な魔法陣を描き、呪物とともに魔法陣の中に置く。それから月や星のない夜を狙って、途切れることなく呪文を唱え続ける。術が成功すれば魔法陣と呪具は消失する。
ダグラスは三日三晩、呪いの儀式を続けた。不眠不休で魔力を消費し続け、その肉体も精神も疲弊しきっている。
有沙は無言で手をかざし、自身の魔力を彼に分けてやった。
あっと言う間に体力も魔力も満タン状態で回復したダグラスは、違和感に目を覚まし、上体を起こした。
そこで彼は、部屋にいるのが自分一人でないことに気づいた。
初めて見るその白い小鳥は、小さな毛玉のような体に真っ黒いつぶらな瞳を持ち、びっくりするほど愛らしい見た目をしていた。
その鳥が、彼に言った。
「目が覚めた?」
「とっ、鳥が喋った!」
ベッドの上でお尻が浮くほど驚いた魔導士に、シマエナガ姿の有沙は「あ、怖がらないで~」と優しい声で話しかけた。
「言っておくけど、これは仮の姿だから~。ただ鳥に変身しているだけだから~」
「鳥に変身……? ではあなたは、魔導士か?」
「鳥に変身できる魔導士がいるの?」
「いや、私は聞いたことがない」
「だよね~。さすがに人族に、ここまでの変身は無理だよね~。髪や目の色を変えたりとか、別人の顔になったりは可能だろうけど~~~」
「……確かに。では、君は人族ではないのか? まさか、魔族……」
「魔族がこんな、可愛い鳥に変身すると思う?」
「……いや、思わない」
「だよね~~~」
(何だかずいぶんと、面白い会話をしていらっしゃる……)
自身はダグラスに見えないよう姿を消して、エドガーは精霊王と魔導士の会話を黙って聞いていた。
「人族でも魔族でもないのなら……。もしや君は、精霊なのか……?」
「うん、せいかーい。でも何の精霊かは聞かないでね。秘密だから」
「あ、ああ……」
器用にホバリングしながら目の前でお喋りする鳥を、ダグラスは柔らかな眼差しで見つめた。
「本当に、精霊なのか……。実物を見たのは、初めてだ……」
そう呟き、小鳥に向かって手を伸ばしかけた彼は、しかし自身の長く鋭い爪に気づき、ハッと手を引っ込めた。
今、彼の爪や犬歯は長く伸び、耳は尖って額には角まで生えていた。澄んだ青空のように綺麗だった瞳は不吉な赤に染まり、瘴気はその肉体を確実に蝕み続けていた。
(……エドガーが言ってたな。ダグラスほど瘴気に侵された体で、人としての理性を保ち続けていることは驚異的だって。ここまで魔物化が進んでしまったら、普通の人間ならとっくに理性を失っているはずだって……)
「ねえ、ダグラス。もし私が、あなたにかけられた呪いを解いて、家族の元へ帰してあげるって言ったら、どうする?」
「えっ……」
思いがけない質問に、ダグラスは言葉を失った。
「そんなことが可能なのか?」
「うん、まぁね。たとえばここに、あなたにそっくりの死体を作って置いておけば、あなたを誘拐した連中は、あなたは死んでしまったと信じるでしょ」
そう言って有沙は実際に、黒板を作った要領で魔導士そっくりの人形を作ってみせた。
いきなり目の前の床に、自分と同じ見た目のリアルな人形が出現し、ダグラスは「なっ……!」と声を上げ、絶句した。
「こ、これは……」
彼はベッドから下りると、自分と瓜二つの、しかしぴくとも動かないそれの手首を手に取った。……脈はない。だが質感といい重みといい、どう見ても本物の人間のそれだ。
「出来はどう~?」
「……悪い夢を見ているようだ。この死体は、まるきり私自身じゃないか」
「本物の死体じゃないよ。私が作った人形だよ」
「……そう言われても、本物の死体にしか見えない」
「じゃあ成功だね。とりあえず、これをこのまま部屋に置いておけば、連中はもう、あなたを死んだものと思って追いかけてもこないよね」
「そう、だな……」
「じゃ、場所を変えようか。エドガー」
有沙に名を呼ばれ、エドガーは「はい」と答えた。
「これからは私だけで行動するから。あなたは指輪の見張りをお願い。解呪はしなくていいよ」
「かしこまりました」
エドガーは恭しく頭を下げた。
「誰と話しているんだ?」
「あなたには見えない人と」
有沙はそう答え、転移の魔法を自分とダグラスにかけた。二人は一瞬で、王都から遠く離れた北の森に移動した。
「なんっ……。……ここは、どこだ」
鬱蒼と生い茂る木々に囲まれ、ダグラスはフードを被ることも忘れて辺りを見回した。
「北の森だよ。この森を西に抜けたところに、あなたの生まれ故郷があるんでしょう?」
有沙の言葉に、ダグラスはハッと表情を変えた。
「ではここは……、まさか、バーウィッチの森か……」
「うん」
有沙は即答し、「で、ここからが本番ね」と新たな魔法を彼にかけた。それは解呪の魔法と同じで、だが人に施すのは初めての術でもあった。
見る間にダグラスの肉体から、瘴気がどす黒い煙となって流れ出てくる。それはやがて空中で、小さな光の粒子に変わって消えた。
「あ、あぁ……。あぁあ……」
柔らかな温かい光に包まれて、ダグラスは茫然と自身の両手を見つめていた。
尖った鋭い爪がスルスルと引っ込んでいき、土気色にひび割れていた皮膚が、張りのある健康的な肌色へと変化していく。
「ああ、こんな、まさか……。神よ……」
立っていることができず、ダグラスはその場で膝をついた。膝をついたまま、彼は自分の歯や額に触れた。醜悪な魔物の特徴は消えて、懐かしいかつての自分が蘇った。
「ふーっ……」
シマエナガ姿のまま額の汗を拭い、有沙はパタパタと羽ばたいて、跪くダグラスの目の前に降り立った。
「これでもう、あなたは元の体に戻れたよ。それで、どうする? 今から故郷に帰る? それとも魔塔に帰る?」
「精霊様……」
以前の姿に戻ったダグラスは、端正な顔をクシャリと歪め、その場で祈りのポーズをとったまま深く体を折った。
「なんと、なんと感謝を述べたらよろしいのでしょう……。私はもう、自分の人生は終わってしまったと思っていました。それなのに、まさか……。本当に、本当にありがとうございます……。心より感謝致します。ありがとうございます。ありがとうございます……」
綺麗な涙を幾筋も流して、ダグラスは繰り返し感謝の言葉を口にした。
「うん、お礼はもういいよ。それで私は、あなたがこれからどうしたいかを聞きたいんだけど」
有沙は冷静な口調で訊ねた。
ダグラスは正座したまま身を起こし、手の平サイズの小鳥を真摯な瞳で見つめた。
「精霊様は、どうすべきだと思われますか?」
ダグラスのこの問いには、言外に別の問いが隠されていた。
「犯した罪をあがなうには、私はどうすればよろしいでしょうか」
彼はそう問うているのだ。
有沙から見て、不運な魔導士の身の上には同情しかない。だがそれでも、いくら脅されていたとは言え、他人を害する禁忌の魔法に手を出した時点で、彼自身の罪も増えた。自分が呪いをかけた相手がどうなるか、賢い彼が分からないはずがない。
「私には答えられないよ。あなたが自分で考えて、決めることだと思う」
「……では、私をあなたの僕にしていただけませんか」
「えっ!」
驚く有沙に、ダグラスは決意を秘めた眼差しで告げた。
「私は一度死んだ身です。もう帰る場所はございません。ならば残りの人生全て、私を地獄から救ってくださった、偉大な精霊様に捧げたいと思います」
「えーっ、そう来たかぁ~~~」
予想外のその申し出に、有沙は空を仰いだ。
頭上には月が出ていたが、新月から間がない今、その姿はか細く光も弱かった。その姿はそのまま、目の前の寄る辺ない青年と重なった。
「うーん……」
しばらく無言で考えていた有沙は、「あ、そうだ」と声を上げた。
第二十三話につづく
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