小説「恐るべき詐欺師たち」
小説「恐るべき詐欺師たち」(全文)
一
美人のシャマンが街を歩くと何度も声をかけられるが、スカウトの場合は鼻にも引っかけない。シャマンに言わせると、天上界には心も体もすべてがそっくりな反物質の自分がいて、二人は霊的交信を行っているのだそうだ。天上のシャマンは神の分身で、下界の未来を憂慮されてこの世にさらなる分身を遣わした。それが現人神たるシャマンで、彼女は天上界の反物質の命令を現世で実行する任務を負わされている。それをすべてやり遂げたときには天に帰り、反物質のシャマンと融合して宇宙から消滅し巨大なブラックホールになるという、どこやらで聞くような話だ。
つまりチエの目の前にいる憬れの女性は、神の分身のそのまた分身であり、人類を救済するためにやってきたメシアということになる。ユダヤ教ではまだ降臨していない。しかしキリスト教ではキリスト、有象無象のカルト教団では教祖たちがそれぞれ名乗りを上げているけれど、ベラドンナでもたらしたような大きく開いたミステリアスな瞳に見つめられると、誰もがその奥に広がる神の世界を垣間見た気になり、シャマンこそが天上界と現世を結ぶ真の現人神であることを信じるようになる。
この宗教団体には正式名がない。唯一神に名前は必要としないし、信者を募集するわけではないから団体名も要らない。あえて強引に「シャマンの会」とでも言っておこう。しかし自由な雰囲気のサロンとは違って緩やかな集団でもなく、真剣そのものだ。シャマンの会への出入りを許可するのはシャマン自身で、完全なスカウト制。シャマンは街を歩いていて、ピンときた若者に視線を注ぎ、瞳の奥からピンポイントで念力を放射する。すると魔術にかかったように若者の方から声をかけてくるのだ。シャマンのお眼鏡にかなうと、デート中の片割れだってお相手と分裂してシャマンと合流してしまう。しかも、男も女も引っかかるので瞬間催眠術ないしは瞬間洗脳だと言いたいところだが、シャマンはイカサマなしの神業だと言う。神眼で入会者を選別するのだから、一度入会したらほとんど脱会しないし脱会するのもまたひどく難しい。脱会者には天罰が下るというのがこの手の宗教の常識で、こうなるとカルトと言われても反論はできないだろうが、秘密結社と呼んだほうが少しは語呂がいいだろう。
もちろん業界の常識として、会員はそれぞれがシャマンの意志と目的を共有し、シャマンの手先となって活動しなければならないのだ。そんなことなら軍隊も企業もほかの組織も同じだろうが、その目的の大きさは比べものにならない。わざわざ救世主が天から降りてくるくらいの大事といえば、人類を救う目的のために決まっている。ということは、その手段はハルマゲドンどころか最後の審判くらい過激なものになる可能性もあるだろう。しかし、結果良ければすべて良しというのがシャマンをはじめとする信者たちの統一見解である。世直しには荒療治が必要で愚衆政治にはそれができないから、自分たちが代わりにやろうというのがシャマンの会のミッションになっている。
組織の全体像はシャマンだけが知っていて、会員は自分の仲間内しか知らないというのが極めて安全な組織形態。どこかの国のテロ集団を模倣したらしい。シャマンは会員を数チームに縦割りし、チーム間の交流を禁じているので、誰もほかのチームのことは知らない。万一一つのチームがヘマしても、ほかのチームには連鎖反応が及ばない。それで各チームは体を張って思いきり大胆なことができるというわけだ。
チエの所属するチームは十人ほど。全員が職にあぶれた二十代で祖父母がいない。シャマンは会員の中から同じ境遇のメンバーをわざわざ選んでチームをつくったらしい。
メンバーはそれぞれシャマンから反社会的な課題を与えられ、企画から実行、成功まで持っていかなければならない。活動費用は原則として個人負担だが、不足の場合はシャマンが一人ひとりに貸与する。各チームにはそれぞれ課題が与えられていて、チエの所属するチームは「高齢者問題」になっている。ほかには「人口問題」とか「食糧問題」だとか「温暖化問題」だとかいろんな課題が別のチームに課せられているらしいが、ほかのチームのことはチエにもまったく分からなかった。チエのチームは、高齢者問題について徹底的にディベートして方針を決める。方針が決まれば、自ずとそれに沿ってプランニングし実行する。何を実行するのかといえば、立てた目標に向かって行動を起こすのである。そして結果をチェックして、さらに合理的かつ非合法的なアクションを起こす。非合法的なアクションとは犯罪行為のことだ。高齢者問題の解決は政府の仕事だろうから、まずは政府を動かさなければならないと思ったら大間違いだ。シャマンはあの世もこの世も支配する神の分身なのだから、政府なんか吹けば飛ぶような存在というわけだ。
団体の本部ビルには、さまざまなカラーの会議室がある。今日は赤の広間。赤い壁色はチームの決断を促し、目的達成の情熱をかき立てるにはうってつけのカラーだとしてシャマンが選んだ。壁には「人類の未来について考え行動しよう」と書かれた白い横断幕が貼り付けられている。さながら円卓の騎士のような気分で純白の丸テーブルに十人が着席し、シャマンを待つ。このテーブルは視力検査のCの形をしていて、内側の中心には降臨の座と呼ばれる高さ一メートル、直径一メートルの円形台座が設えられている。
シャマンは十分ほど遅れてやってきた。ほかのチームの会議が長引いたためだ。舞台の衣装デザイナーがデザインしたようなベリーダンス風ヘソ出し衣装。紫の薄絹で頭と口を隠している。エジプトの酒場にでも居そうな場違いな恰好でも、頭がいかれているんじゃないとは誰も思わないのは、ラファエロやアングルなどの絵から飛び出てきたような美しさで、品の悪さがどこにもないからだ。妖艶な女は何を身に付けようが、周囲の環境を強引に従わせて人を納得させてしまう。シャマンに言わせると、人はみな神の奴隷で神の命令には従わなければならない。人の姿でこの世に降臨したメシアは半裸姿で自らを卑しめ、神の奴隷としての意志を明らかにしているのだという。神の発する血なまぐさい命令すら、美しいシャマンのフィルターを透過すると命がけでやり遂げなければならない至高の命令に思えてしまうのだ。
シャマンは円卓の欠けた部分から入って降臨の座に胡座で座り、シャマン流熱血教室を開講した。シャマンはいままで会員たちを自由に討論させながら次第に神のご意志の方向に誘導してきて、今回が円卓討論会の最終回になっていたために、内容はかなり過激なところまで行き着いていた。
「さて、私たちは国を滅ぼす少子高齢化問題について徹底的に議論を行ってきましたが、前回の会議において高齢者福祉は予算の無駄使いであるという神の一声が聞こえました。この不況の中で、数少ない若者が大勢の高齢者を支える社会構造はじきに破綻を迎えるとのことです。しかし、政治に解決の手立てはなく、ただ手をこまねいて先送りにするばかり。このままだと、高齢の有権者はますます多くなり、シルバーの権利を優先するシルバー民主政治に陥ります。国の負債はさらに増大し、二○五○年には一人の赤ん坊が一億円以上の負債を背負って生まれてくる計算になると言われています。破綻を迎えた国が取る手段といえば前回に吉原さんがおっしゃったこと……」
「そこですね。再び侵略戦争を起こすか、国内に貯まっている個人資産を放出させるかです」と吉原が発言した。
「しかしそれは一時しのぎにしかならず、何よりも扶養人口を減らすことだと神はおっしゃいました」とシャマンは答える。
「神は『自然に帰れ』と言われる。自然とは動物的、原始的な世界です。動物は自らがエサを獲得できなければ死んでしまいます。動かざるものは食うべからずの世界です」とユキ。
「しかし動物にだって、年老いた仲間にエサを分けるものもおりますと私は神に反論しました。そのとき、姥捨て山法案という過激なご発言をされたのは?」とシャマンは言って、ニヤニヤしながら周りを見回した。
「僕です」と由男が手を挙げた。「過激とおっしゃいますが、定年制度だって一種の姥捨て山だと思いますね。年取って働きが悪くなった者はいらないという思想はまさに姥捨て山です。けれど社会通念だから誰も違和感を持たない。要するに、会社や社会にとって必要かという話が個人の意志よりも上にあるのだと思います。シャマンはいつだったかドストエフスキーの『罪と罰』のお話をされました。自己実現を図るために、金を溜め込むばかりで価値のない老女を殺した男の話です。シャマンはおっしゃいました。この男はすべての人間に当てはまると。もしこの男が自己の利益ではなく、人類を救えるのだと信じていれば、その行為は許されていただろうと……。同感です。部下の首を切る上司も、外国に侵略する兵隊も、ユダヤ人を迫害するナチスも、会社のためだ、お国のためだ、民族のためだと理想を唱えて理不尽な行いをするのです。彼らの罪は殺人ではない。殺人が罪だというのはあくまで倫理的なルールだ。だから、ナチスが世界を制覇したなら民族浄化は罪にならなかったはずです。そして我々の神もおっしゃるのです。人の救済は人の犠牲をともなうと。価値のない社員はリストラされます。会社を救うにはそれ以外方法がないからだ。ならば人類のために価値のない人間がリストラされるのも悪ではない。人類を救うにはそれ以外方法がないからです。地球は過剰な人口を養うことができないんですからね。外国への侵略も戦争も悪なら自己責任で国民自らがリストラされるべきだ、というわけで姥捨て山法案を提案しました」と言って、由男はヘヘヘと下卑た顔付きでわらった。
「私が子供の頃、人口増加で飢えに苦しむ近未来を描いたソイレント・グリーンという映画がありました。公営の安楽死施設があって、お年寄りが処分され、そしてその肉は加工されて市民の食糧になるというお話です。いよいよ切羽詰まれば、人間だったらやりかねない。アウシュビッツがあるんですから。ナチスはゲルマン民族の存在価値を高めるためにユダヤ人を選別した。金持ちはその存在価値を高めるために貧乏人を選別する。ならば若者は存在価値を高めるために何を選別いたしましょう」とユキ。
「あの映画は二○二二年の話ですが、いまのところ世の中はまだそんな状況にはなっておりませんわ。現時点では、それは行き過ぎた考えだと神もおっしゃいます。これと関係しますが、前回は優生思想の神的解釈についてお話ししましたが、太郎さんはどのようにお考えですか?」とシャマンは太郎に振った。
「優生思想は神のご意志です。ダーウィンを持ち出すまでもなく、環境に対して劣勢なものは淘汰されていくというのが自然界の掟ですからね。地球上のあらゆるものが戦っている。それは人間だって同じこと。由男の話じゃないけど、会社では優秀な人間は出世し、無能な人間はクビを切られる。国だってそうだ。優秀有能な人間に育てとやかましい。国際競争に負ければ国が滅びちまうんですから。けれど僕たちはみんな、名も知れない大学を卒業して就職もままならず、書類選考で落とされちまう。怠け癖と頭の悪さは親の遺伝で、こんな悪い血は子々孫々にいたるまで禍をもたらすだろう。ならば劣悪な我々は国民の義務として、自ら断種をするべきだ。精子バンクには東大生の精子がゴロゴロしているんだからな。おいらは種馬にもなれず肉に加工されちまえばいいんだ!」と太郎は顔を赤くして叫んだので、わらいがわき起こる。
「脱線しないでください。でも、太郎さんのような若者が希望をなくし自暴自棄になるのも、社会がひどく病んでいる証拠ね。確かに優生思想は社会の隅々にまで浸透しています。競争社会の地中にしっかり根を張っております」と言って、シャマンは優しい眼差しで太郎を見つめた。「でも、駕籠に乗る人がいればその駕籠を担ぐ人も、またその駕籠をつくる人もいるんです。いろんな役割の人がそれなりに努力して社会は成り立っています。ところが、駕籠に乗る人がもったいないからと言って自分で歩くようになったらどうでしょう。駕籠を担ぐ人もつくる人も必要なくなってしまいます。いまの時代はそんな状況。みんなが将来に不安を覚えてお財布の紐を開かないから、経済がスムーズに回転しなくなり、就職浪人も増えているのです。では、この行き詰まりを解決する方法は?」
ユキが手を挙げた。
「一時的かも知れませんが、お金持ちの貯金をどんどん放出させることです」
「そうでしたね。こうした状況では、個人資産は社会に還元してしかるべきだと神もおっしゃいました。莫大な蓄財が巷に出回れば、経済は息を吹き返します。例えば、預金に税をかける法案は?」
「通らないです。高齢者いじめになりますから社会的にも許されないでしょう。そうしたお金持ちの多くが高齢者なんです。若い人たちに働く場が与えられず、働く能力のなくなった高齢者だけが蓄財で優雅に暮らす。こんな社会は死につつある社会です。しかも、そうした社会に向かわせたのはほかならぬ高齢者たちです」とユキ。
「それは言い過ぎですわ。高齢者にもお金持ちと貧乏人がおります。私は、貧富の差を是正するべきだと思います。一定の額以上の収入がある高齢者には年金の支給を止めるべきだと政府に意見しましたが、聞き入れてくれませんでした。そこで神は、地下工作を始めることを私に命じました」とシャマンは言って、瞳をキラリと輝かせた。
「それは破壊活動ですか?」と恒夫。
「いいえ、まずは資金づくりであると神が指示されました。私は掌上で銅貨を金貨に変えることができます。でも、キリストと同じように、単なるパフォーマンスに過ぎず大量にはできません。目的を達成するには莫大な資金が必要なのです。私は物乞いではありませんし、多くの信者を集めてお金を巻上げるいかさま師でもございません。有能な方たちを厳選し、少数精鋭で知恵を絞って、努力してブレークスルーする集団なのです」
「それは合法的な行為ですか?」とユキがたずねた。
「神の視座から見ればね。神は善悪の彼岸にありますから、神の世界での合法は現世での非合法。この世にだって、いまは犯罪でも将来犯罪ではない行為はありますね。革命はもちろん非合法。でも、私たちの神が合法であるとおっしゃれば合法です。人が私たちを犯罪集団と呼んでも、私たちは義賊だと思えばいいのです。貴方たち、これからの社会状況がどんなものかを想像できる人がいたら、手を挙げてください」
「最終戦争です!」と全員が応えた。
「神は予言されました。世界中で暴動が頻発し、その後最終戦争は確実に起こるだろうと。そうなれば、善悪の価値観なんか粉々に砕け散ってしまいますわ。神は人類の行く末を憂慮し、この最悪の状況を遅らせるために、まずは国内の格差を解消する水面下での活動を起こせと命令されました。その具体的な作戦については神と交信を行い、指令を受けます」とシャマンが言うと、会議室の照明がダウンし、シャマンだけが幽玄な青色の光で浮き上がった。
神が降臨するときのシャマンの姿はこの世のものとも思えないほどに美しい。それは恐らく、神と合体することで、創造主たる神の恩寵が体中に満ち溢れるからに違いない。神の精神には、人類が誕生して以来のありとあらゆる情報が詰まっていて、これらの莫大なデータを基にスパコン以上の正確さで人類の終末を予見し、これを少しでも延命させるために計算された難解な方策を示してくれる。導きの道はひどく入り組んだ迷路で凍てついており、神の高さからでなければ俯瞰的に把握するのは困難である。会員たちはこの神の道を信じ、その指示に忠実に従って、雲の中に隠れた頂上を目指して進む以外に人類を救う手立てはないのである。個々の指示がいかに突飛なものと思われても、それは完璧なジグゾーパズルの一片で、たとえバカバカしく無意味と思われても一つとしてムダなものはないのだ。
突然、シャマンの体が激しく震えはじめる。天井からシャマンと同じ恰好をした青色の影が降りてきてシャマンに合体していく。しばらくの間、シャマンは座から落ちるのではないかというくらい跳ねていたが、足のほうからだんだんに震えは収まっていって、頭の震えが消えたところで降臨は完了した。シャマンは完全なトランス状態に陥って、鋭い目付きで会員たちを見回した。会員たちは、互いに手を繋ぎ合って体を左右に揺らしながら、次第に夢の中に入っていく。この状態では会話は音声を通してなされていても夢の中で事が進んでいるような気分になって、誰もが神の存在を身近に感じることができるのだ。神は偉大だが、下々の者の身近で語りかける親しさを備え、その言葉は脳髄を麻痺させるくらいに澄んだ音色をしていた。
“お前たちは原罪を犯した動物の子孫なのだ。知恵の実を食べた動物はいずれ断罪される運命にあり、その時は近づいている。神の領域に入り込み、目に余る悪行をやりはじめたからだ。悪は永遠に広がり続け、私がこしらえた創造の設計図を解読するところまできた。私がこしらえた星のカラクリを破壊に利用するまでになった。いずれ停止のスイッチが押されるであろう。神を怖れぬ者は、神によって滅ぼされるのだ”
“私たちはどうすればいいのでしょう。人類を救いたいのです”
“戻すのだよ。目には目を、グロテスクにはグロテスクを。グロテスクに進化した文明をグロテスクに破壊するのだ。どこまでも広がる欲望を打ちのめし、初期化するのだ。原始の状態に戻すのだ。人類を間引くのだ、剪定するのだ”
“私たちはどうすればいいのでしょう”
“モグラのごとく些細なことから始めなさい。大河の堤防に小さな穴を空けなさい。水はそこから浸透して、いずれ大きな氾濫が起こるであろう。お前たちの小さな脳髄が考えられる範囲でのささやかな善行でよい。しかしその善行は神に対してのもので、下界では悪行と呼ばれる。私の意志を具現するにはほど遠いが、まずは手始めとして、与えられた課題の視点から、より良い未来を目指した作戦を考えるのだ”
神はメンバーに課題を与えて天に帰った。すると自然に部屋の照明が明るくなって爽やかな目覚めの音楽が聞こえ、シャマンはゆるやかにトランス状態から解放されると、メンバーたちも次々に覚醒していく。シャマンは降臨の座から降りて部屋の片隅に置かれた机の上の書類を指差した。
「あそこには、お年寄りの高額所得者名簿があります。それらも参考にしながら次の降臨会議では、お一人でもグループでもかまいませんから神のご意志に叶う企画を発表してください。しかし、グループは最大三人とします。もちろん良い企画であれば、ここにおられる全員が一丸となる場合もあります。いかに確実に資金づくりを成功させるか。ただし、神が関与する企画は除外いたします。私たちは秘密組織としての自覚を常に持たなければなりません。決して外部に口外してはなりません。そして、貴方がたの企画は具体的で成功できるものでなくてはなりません。期待しております」とシャマンは話を終えた。
二
次の会議までは一カ月。十人のメンバーのほとんどが三人ずつのグループをつくり、一人チエだけが取り残されてしまった。ほかの連中は三人寄れば文殊の知恵というわけだが、チエだけは一人ですべてを計画しなければならなくなったのだ。ところがチエは、企画したり計画を立てるのが苦手で、むしろ人の計画に従って率先的に行動する尖兵タイプだった。そんなチエが企画力を疑われて敬遠されるのは当然で、今までの会議でも積極的に発言してこなかったことがほかの仲間たちに悪い評価を与えてしまったようだ。
高齢者の名簿を覗いても、名前と住所の羅列だけでなんのヒントも見出せなかった。それにチエの周りには金持ちの高齢者なんか一人もいない。北海道の寒村に両親がいて、その村の住人のほとんどが年寄りだがお金とは縁遠い暮らしぶりだ。チエは就職のために東京に出てきたが、わずかなパートの仕事で食うものも切り詰めながらボーイフレンドもおらず、仕事をするかシャマンの会に出るかの単調な日々。もっぱら関心事は超人やら超能力で、シャマンのような超能力をいかに会得できるかと考えるだけでも暇な時間は消化できてしまう。テレビは見ないしパソコンはやらないし週刊誌も読まないしで、世の中の動きにはまったく関心がなく、同世代の若者の世界がどうなっているかも分からないのだから、高齢者の世界なんぞは想像することすらできなかった。
けれど人間せっぱ詰まるとなにかしらの取っ掛かりは見つかるものだ。「そうだトシコだ!」と声を上げた。あいつはどうなったのだろうと一年前を思い出した。バイト先で知り合ったトシコとは仲良くなり、いろいろと悩みを打ち明けるまでになったが、トシコは突然バイト先から姿を消して連絡が取れなくなった。トシコは都内で母親と二人で暮らしていたが、母親に聞くと、大喧嘩をして娘は出ていったということだった。性格が合わないらしく、以前から二人の仲はひどく悪かった。トシコのことを思い出したのは悩み事をいろいろと聞かされたからだ。
トシコは母子家庭で育った。母親が勤め先の妻子ある経営者と不倫関係に陥って子を宿し、シングルマザー覚悟で生んだ子供だった。ところがトシコに言わせると欲しくて生んだわけではない。相手の一人息子が難病を患っていて、成人するまで生きることは難しいと聞かされ、欲をふくらませて勝手に生んだのだとトシコは言い切った。母親は相手に認知を迫ったが叶わず、示談金をもらって引き下がったのだというが、その額についてはトシコにも話さなかった。「そうだトシコの父親は社長さんだ」ともう一度叫んで、机の引き出しから一年前の手帳を出した。手帳の住所録にはトシコの家の住所と電話番号が記されている。さっそく電話をしようと思ったがためらった。電話では詳しい話は聞けないだろう。いきなり押しかけたほうが多くの情報が得られるに違いないと考え直し、直接訪問することにした。
トシコの家は東京の郊外にあった。緑の多い住宅街で、百坪近い土地に新しくはないが大きな門構えの和風建築が建っている。トシコが生まれたころに示談金で土地を買い、家も建てたのだそうだ。トシコが失跡する半年前には、母親が愛人と一緒に住み始めたというから、今でもその男と母親が一緒に住んでいる可能性は大きかった。チエはインターフォンを押すと、女の声が対応したのでひとまずは胸をなで下ろした。
「ハイ、どなたですか?」
「トシコさんの友達ですが、トシコさんいらっしゃいますか?」
「トシコは半年前に死にましたが……」
「エッ、本当ですか?」
チエは驚いて素っ頓狂な声を出した。
「お骨はまだこちらにございますので、よかったらお線香を上げてやってください」
出迎えた母親は六十くらいのはずだが、ひどくやつれていて七十近くに見えた。その顔はトシコに似ていて、トシコが歳を取ったらこんな顔つきになるだろうと想像することができた。子供の頃からいつも不満を感じながら成長してきたような捻くれた表情。その後も境遇は変わらず矯正されずにそのまま老いてしまったような顔付きだ。しかし死んでしまったのだから、もうそんな風に朽ちていくことはないのだ。母親はチエを座敷の居間に通し、そこには大きな仏壇があって骨壷が置かれている。チエは仏壇の前の座布団に座り、線香を上げて合掌した。
「いずれお墓を造らなければなりませんわね」と言って母親は寂しそうに笑いながら、目を潤ませた。
「でも、いったいなんで死んだんですか?」
「御宿海岸の定置網に引っかかったそうです、骨だけになって……。一緒にハンドバッグが見つかってうちの子だと分かったの。警察は自殺だと言って、なんの捜査もしてくれなかった……」
「それでご主人は?」
「ご主人?」と母親は怪訝そうにチエを見つめた。
「いえその、トシコと最後に会ったとき、おば様の彼のことを聞いたものですから」
「ああ、あの男。私のお金をくすねてどこかへ行ってしまいましたわ。その一週間後にトシコがこんな姿で戻ってきました。トシコはあいつを嫌っていたから、安心して出てきたんだわ」
「かわいそうに……。ようやく休むことができたのね」
「どうでしょう。あの子は思春期になってから私を嫌うようになった。性格的に合わなくて、仲良くはなれなかったようね」
「トシコはお父様のことをよく話されていました」
チエは少しばかりためらいがちに、思い切って母親の忘却の水溜りに石を投げ込むと、水紋が風紋に変わって線香の煙を幽かに乱したものだから、ハッとして母親はチエを見つめた。
「お父様?」
「なんでもお父様は大企業の社長様だとか……」
「そんなことまで話して……。大企業っていうのはどうかしらね」
「私にはなんでも話してくれましたわ。親友だったんです。一度でもいいから父親に会いたいとも言っていました」
「それは止めていましたよ。この家だって養育費だって、父親のおかげなんだから。きっぱり縁を切るということでね」
「実は、一度会っていらっしゃいます」と、昨日組み立てた作戦どおりのウソをついた。
「本当?」と母親は目を丸くして驚く。
「でも、ほんの三十分お話ししただけということです。父親になにも要求しなかったし、父親はなにも約束しなかったそうです」
「当たり前だわ」と言って、母親はホッとため息をついた。
「でも、トシコからたのまれたことがあるんです。トシコと連絡が取れなくなって一カ月くらい経ったある日、突然電話がきまして、もし私が死んだりしたら父親にそのことを伝えてくれという内容でした。一方的に話して、どこにいるのかも言わないですぐに切れてしまいました。電話番号を調べたら鴨川の公衆電話でしたから、ひょっとしたらその足で御宿に行ったのかも知れません」とここはアドリブでウソをひねり出した。
「きっとそうだわ。警察の検死でも、そんなくらいに死んでいるらしい」
「ならば電話はトシコの遺言ということになりますよね。でも、彼女は肝心なことを言い忘れた。彼女のお父さんが誰であるか私は知らないんです。親友の私にも隠していましたから」
「分かりましたわ。昔のことしか知りませんが、会社は大きくなっているし、きっとあの豪邸もあるかもしれません。ただ、お約束してね。娘が死んだことを伝えるだけで、ほかのことはなにもおっしゃらないでね。あの人に迷惑がかかるといけませんから……」と言って、母親はメモ用紙を取りに立った。
いまだにトシコの父親を愛しているのだろうか、とチエは思った。母親のいじけた顔は、愛を告白できずにいつまでも悩み続ける気弱な男の顔つきにも似ている。チエは母親から父親に関するメモをもらった。トシコが死んだことはまったく知らなかったから、その後の話はすべて即製のつくり話だ。よくも上手いウソがペラペラ出てくるものだと自分でも感心し、計画どおりに父親の情報をせしめることができたと胸をなで下ろした。自分の隠れた才能を発見してほくそえみ、ひょっとするとシャマンの念力の後押しがあったかも知れないと思った。
背後にはいつもシャマンの存在を感じ、たとえ失敗しても取り返しがつかなくなることはない。最悪の結果は死であるとシャマンは言う。しかしそれはトシコのような蒙昧の死を意味し、チエには当てはまらない。人類を救うという高邁な目標に捧げる死は、たとえ達成できなくても意義ある人生を歩んだ結果の死とも言える。兵隊は達成を見ずして命を落とすのが普通で、続く仲間に勝利を託するのである。チエは去る前にもう一度お骨に向かって手を合わせ、ほろほろと涙した。トシコは性格的にも気の合う親友だった。ふと、骨壷の横にヘアブラシや歯ブラシなどが置かれていることに気付いた。
「トシコが使っていたものですか?」とチエは母親にたずねた。
「ええ、部屋には洋服もありますけど、なにか形見に持っていきます?」
「これをいただけますか」と言ってチエはヘアブラシと歯ブラシを取り上げた。ブラシにはトシコの赤い毛がたくさん付いていて、歯ブラシには口の粘膜組織が付いている。必要になることもあるだろうと思った。
「そんなものでよければ、どうぞ」と言って、母親は苦笑した。
メモに書かれてあった会社名を調べると、準大手の製菓会社で数年前に外資に乗っ取られていた。そのときにトシコの父は社長職を辞し、相談役にすらなっていない。完全に追い出されたというわけだ。チエは、徳田の会社が乗っ取られたときの状況をさらに詳しく調べた。徳田以下、旧経営陣はすべて放り出された。このとき徳田は所持していた大量株をすべて売って、会社との関わりを断っている。莫大な売却益は大手銀行や海外の金融機関に貯蓄されているに違いない。
田園調布の豪邸の門にはいまだに徳田という表札が掲げられていた。家屋敷だけでも相当の資産があるに違いなかった。家族構成を知る必要があったが、チエにはそのやり方が分からない。役所に行って聞いてみるにしても、個人情報が厳しく管理される昨今だから、そう易々とは手に入れられないと思ったし、そういう策略をめぐらすことが苦手ということで、どうしても安易な行動を取ってしまう。
彼女なりに捻り出したアイデアは、屋敷近くの歩道を往来する人の数を調べる計数員に扮して、一日中門を見張ること。屋敷には裏門もあるから最低二日はかかるだろう。仲間がいれば手分けをして一日で済むのだが、チエは一人ですべてをやらなければならなかった。しかしこんな仕事は以前アルバイトでやったことがあるので要領は分かっていたし、カウンターを貸し出すレンタル店も見つけることができた。こうと決めたらチエの行動は早かった。明くる日にはマスクとサングラスで顔を隠し、正門の見える歩道上に折りたたみ椅子を広げて日がな一日座り込んだ。
夏の炎天下で二日間も調査をした結果は意外なものだった。まず、大きな正門を出入りする人間は一人もいなかったこと。裏門の調査では、朝の七時に五十代のお手伝い風の女がやってきて屋敷に入り、九時に犬の散歩に出てきて二十分後には戻ってくる。午後三時に再び女が買い物に出かけ、一時間後に戻ってきた。午後五時に老人が柴犬と一緒に出てきて四十分後には戻ってきた。背が高く、ひどく痩せた白髪の老人で額から頭頂まで禿げ上がり、足取りもさほどしっかりとはしていない。犬を連れた四十分の散歩はかなりきつそうだった。その後、夜六時には食料品配達の軽トラックが来て女が応対し、七時過ぎに女は帰っていった。
念のため、もう一日裏門の見える場所に座って観察すると、軽トラック以外はまったく同じパターンである。トシコの父親は夕方犬の散歩をする。通いのお手伝いがいる。それ以外は人の出入りがないうらぶれた屋敷だ。チエがいちばん気にしていたのは妻と病弱な息子の存在だが、少なくとも三日間の調査ではその気配を感ずることはなかった。すると想像というものは自分の都合のいいほうに展開するものだから、きっと妻も息子もとっくに死んでしまったに違いないと思い込み、苦手のシナリオもすらすらと思い描くことができるようになった。
三
企画発表会には大きな会議室があてがわれた。五十センチほど高いステージとその壁にはホワイトボード、必要なら銀幕も降りてくる。参加者が十一人なのに折りたたみ椅子が百席ほど並べられ、いちばん後ろには降臨の座が設えられている。背後の小部屋には映写機器が置かれているから、必要なら映像を使って発表することも可能だ。トリオが三組発表し、チエはトリになっている。
最初は由男の組が演壇に上がり、部屋を暗くするとパソコンを操作しながらホワイトボードにパワーポイントを映した。「世界叙勲者友好学会の設立」というのがテーマである。「それではこれから、我々の企画を発表します」と由男が言って、次のページでは「叙勲者には金持ちが多いが不満も多い」というタイトルが映し出された。「園遊会に招待されない」「社会がその功績を称えない」「若者、子供たちに叙勲の意義が伝わっていない」「時代とともに勲章の価値が落ちている」と箇条書きで列挙されている。由男は棒でホワイトボードを激しく叩きながら声を張り上げ、プレゼン開始。
「我々は金持ちの叙勲者百人にアンケートを出し、このような結果を得ました。要するに、勲章をもらっても地位が上がるわけでもなく社会的にちやほやされるわけでもなく、家の神棚で埃をかぶっているだけ。勲一等以上の者だって皇室園遊会に招待されるとは限らない。みんなが目にするのは葬式のときだけだ。叙勲者になって五年も十年も経てば、家族ぐらいしか知ってる者はいなくなる。国の発展にうんとこ貢献してきたのにです。それはなぜか?」
次のページには「爵位廃止の功罪」というタイトルが踊る。
「敗戦によって明治憲法が廃止されて新憲法となり、華族制度が全廃されたことで爵位の授与も叙位もなくなって、『勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない』となったからです。特権も優遇もありません。単なるメダルと賞状だけ。これじゃお菓子のオマケと一緒じゃないか!」
由男がページを変えると「しかし海外は違う」と書いてある。
「しかし、海外には爵位を与えるところもあるし、特権を得られるところもある。ならばここで、叙勲制度のグローバルスタンダード化を世界規模で構築しようというのが『世界叙勲者友好学会』創設のコンセプトです。つまり、勲章のISO化を進める圧力団体だ。日本での目的は、憲法改正に伴うもろもろの特権の復活。最低でも報奨金は勝ち取ろう」
「しかし、その活動はまったくの詐欺であった」と会場から声が上がり、爆笑。由男はわらいをこらえ、「なにをおっしゃいます。学会の設立意図は極めてまじめです。しかし、運営団体は私ども、正直ここは確かにグレーです。でも、あくまでスタンスは合法。たまには危険領域に侵入し、しこたま儲けてすぐに合法ゾーンに戻る違法操業です。どこからか仕入れた皇室グッズを法外な値段で売りつけたって、喜んで買うやつがいれば合法でしょ」と言って、次のページを出す。そこには「世界中の叙勲者が集い、互いの功績を称え合う」と書かれている。
「さて、ここからが違法領域に一歩踏み出します。十月九日を『世界叙勲日』と制定し、毎年世界中の叙勲者が一堂に会するのです。第一回目はタヒチ島を検討中です。叙勲者の多くは現役引退した七十歳以上のお年寄りです。ならば豪華クルーズ船をチャーターして、この部分でも儲けましょう。日数は二週間。高い会費なのに安いホテルを買い切りましょう」
「しかし、世界中から叙勲者をどうやって集めるのかい?」と質問が飛ぶ。
「残念ながら、最初は日本人だけです。きっと五回くらいやったら外国人も増えてくるでしょう。しかし、それを悟られないために、外国人は俳優たちに演じてもらいます。なあにバレはしません。念のため外人たちにも映画のロケだとでも言っておきましょう」と言って、由男は画面を変える。「レジョン・ド・ポレポレ勲章の授与(仮名)」と書かれている。
「同時にですね、世界標準の勲章を制定します。この勲章はそれぞれの国に貢献した、すなわち世界の発展に貢献した叙勲者に与えられます。毎回その場で五十名の方に勲章を授与します。これは開催地によって名称が異なってきます。例えばタヒチではレジョン・ド・ポレポレ勲章ですが、開催地がフランスの場合はレジョン・ド・ヌーブ勲章となります」
「レジョン・ド・ヌール勲章でしょう」との声がかかる。
「そんな、恐れ多いことを。しかし、この勲章はもっとすごくなる。一国の勲章ではない世界的な勲章です。いずれはノーベル賞なみの権威を獲得すべき勲章なんです」
「イグ・ノーベル勲章だ」と声が上がり、会場は爆笑に包まれた。
「それにポレポレはスワヒリ語ですよ。ノアノアにしたら」と別の声。
「これは仮称ですって。ここには王様の名前が入るんです。パラパラでもいい!」と由男はいささか腹を立てる。
「どっちにしろ毎回名前を変えるのは良くないなあ」と別の声。
「いえだから、ちょっとした事情がありましてね。毎年開催場所を変えるのも意味があってのことなんです。勲章を授与する人は、日本では天皇陛下や総理大臣などなど。偉い人が授与しなけりゃ恰好がつかないんです。しかし、こんなイカサマくさい勲章を偉い人が授与しますか? しないでしょう。で、我々は没落王族に目を付けたわけです。世界中にはかつて王族で、今はただの人という連中がうようよしています。しかし彼らは歴史に残る王様のれっきとした子孫だ。時が時ならルイ十四世みたいな生活ができた貴公子が、破れ城の維持に汲々としていらっしゃるが、その高貴な血筋はいささかも穢れていないブランド品なわけです。ならば世界的な勲章の授け役という名誉と少しばかりの謝礼を彼らに与えれば、勲章の威厳もアップするし受賞者も納得するでしょう。で、世界各地から協力的な王様の子孫を五人選び、その五人の国を開催地として回っていく。毎年回っていくから五年に一回は同じところに戻る。勲章の名も当地の王に敬意を払って五通りあるわけです。つまりレジョン・ド・ポレポレ勲章は五年に一度のもので、タヒチの王様の子孫がポレポレさんならそうゆう名前を付けようということなんです」
「それで、タヒチの王様の了解は取ったの?」と女の声が上がる。
「いえだから、これはあくまで企画段階ですって。トンガでもニューカレドニアでもどこでもいいんだ。王様の子孫を探すのは企画が通ってからなんです。みなさんだって、どんな企画か知らないけれど、そこまで詰めた企画じゃないと思いますよ」と由男が切り返すと、さすがに会場はシーンとなった。
由男は次の画面を出すと「叙勲者同士のいがみ合い」と書かれている。
「さてみなさん。勲章には勲八等から勲一等、大勲位、文化勲章などなど二十八階級あるのをご存知でしょうか。また、褒章は六種類あります。叙勲者同士が集ると、あんたは八等、おいらは三等、あんたは序の口、おいらは大関じゃ、などと叙勲者仲間の中でもヒエラルキーができ上がってしまいます。みなさんプライドの強い人たちばかりですから、上位の者に対するひがみはものすごいものがあります。しかし、こうした人たちをまとめて団体旅行しなければならないのですから、このレジョン・ド・ポレポレ勲章には会員内の軋轢を解消する役割も担わされます。すなわち、受賞者五十人のうち少なくとも三十人以上は下位の者に授与しましょう。その上、毎年脱会もせずに参加し続けた方には必ず授与されるように取り計らいます。本当は一度に三百人くらい授与したいんですが、勲章の価値を維持するには五十人くらいが限度だと思います。この勲章は、レジョン・ド・ヌール勲章のようにあらゆる分野の叙勲者に授与されます。ナポレオンによって制定されたレジョン・ド・ヌール勲章は、年齢、階級、宗教を問わず、芸人だろうが役人だろうが功労のあった者には誰にでも与えられたのです。メダルの中央にはナポレオンの横顔が彫られていた。だからレジョン・ド・ポレポレ勲章にも、授与する王様の横顔を掘りましょう。こんな勲章をもらって日本に凱旋したら大変です。あの爺さんがタヒチの国から勲章もらったとよ、んにゃあスタツの国はスっちょるがタスツの国とは初耳じゃ、などと大騒ぎになるのは確実です。まあ分かりやすく言えば、金を払って外国の名も知れない大学の博士号を取るようなもんで、知らない者には大したものに見えちまうんですな」と言って、由男はプレゼンを終えた。
二番手は太郎のグループ。太郎は薬剤師の免許を持っているから、「敬老温泉療法研究会の設立」というなにやら医学的なテーマである。学会だとか研究会だとか、木賃宿の大玄関みたいな修飾語のオンパレードだ。太郎もパワーポイントを使いながら発表を開始した。
「さて、高齢者の寿命をいかに伸ばすかが敬老温泉療法研究会の設立目的です。もちろん長寿研究のスペシャリストを顧問に招いた権威ある研究会という触れ込みです。姥捨山法案を主張された過激な由男君としては大いに不満でしょうが、この研究会の究極の目的は高齢者からいかに金をくすねるかなのですから、ご安心ください」と太郎が言うと、会場からわらい声が聞こえる。
「人の寿命はほとんど遺伝子で決まっているが、働き過ぎなどのストレスがあれば活性酸素が心臓や脳をはじめとする内臓にダメージを与え、どんどん寿命も縮まっていきます。しかし、人を老化させる最大の原因は、細胞内でエネルギーを生産するミトコンドリアの減少にあります。で、このミトコンドリアは歳とともにどんどん減少していきますが、過食がそれに拍車をかけます。それを食い止めるには、断食をしてミトコンドリアにストレスを与えます。すると、ミトコンドリアは焦って仲間を増やそうとがんばります」
「それと研究会はどんな関係があるんですか?」と声が上がる。
「ほとんどございません。しかし、一連の詐欺行為にはこういった最新の学問もコマセとなります。当研究会は日本中の温泉を研究して、ご老人の細胞の活性化に寄与する温泉を厳選し、五日間の短期療養を行います。また、多種多彩な健康グッズの販売も行います。その仕組みはこのようになっています」と言って、映像を変えた。
「まず、お年寄りのいるご家庭にこのようなDMを送りつけます。本当は一人暮らしのお年寄りがベストですが、参加者が少ない場合は、そこは柔軟に対応します。ターゲットは六十五歳以上。ごらん下さい、こう書かれています。その要旨を述べますと……」と言って太郎は画面に棒を当てる。
「当研究所では、新しく開発した高齢者温泉療法の治療試験を現在進行しております。これは特殊な温泉治療によって高齢者の細胞を若返らせ、寿命を引き伸ばすものです。その治験にぜひご協力ください、てなぐあいです」
画面が変わると、参加特典が箇条書きされている。
○ 治験は有名温泉地で実施。(観光バスによる送迎)
○五日間の参加で、参加費は二万円ポッキリ。(朝昼晩食事つき一日四千円)
○当研究所の最新療法で肉体年齢が十歳以上若返る。(安全で楽しい温泉療法です)
○一日三回入浴するだけで、後は自由行動。(ホテル周辺の散策ができます)
「参加料が高すぎません?」と会場から声が上がる。
「治験という言葉がイメージ悪いな。楽しい旅行が格安の値段でできる。ただし少しばかり協力してください、くらいにしたほうがいいよ」と別の意見。
「そこらへんはPRの部分でこれから検討いたします。いまは騙しのコンセプトをお聞かせする段階ですので……。それでは時間もないので治験の内容を説明します。宿屋に到着したら、まず最初に血液を採ります。治験はイカサマですが、いかにも治験してるようなポーズ。しかし、血液はちゃんと調べます。覚醒剤とアルコールの耐性を調べるんです。ポイントはお風呂から出たあと、緑色の液体を飲んでいただくこと。これはミトコンドリアを活性化させる薬という振れ込みですが、ドブ川に繁茂する植物プランクトンの培養液です。治験者は一日三回風呂に入り、出てすぐにこのドブ臭い薬を飲みます」と言って、ビーカーに入ったサンプルを会場に回した。嗅いだ人間たちは一様にしかめ面をしたが、シャマンだけは平然として口に含んだのには全員あ然。シャマンは決して変な顔を人に見せず、「効くーッ」とのたまった。
「就寝前には血圧を測り少量の血液を採取します。三日間これを繰り返し、四日目の夕食前には最後の風呂に入って薬を飲みます。しかしこのとき同時にお注射します。覚醒剤ですが栄養剤とでも言っときましょう。あらかじめ一人ひとりの覚醒剤の耐性を調べましたから、各々程よい分量に調整してあります。これが済んだら夕食です。このときには酒も解禁となります。アルコールの強さも調べてありますから、ほろ酔い加減に調整できます。で、宴会が始まるわけです。ここで、一人ひとりの成績を発表します。ミトコンドリアの増加量や若返り度数などを発表します。皆さん目を見張るほどの若返りを実現。もちろんイカサマです。しかし、連中は覚醒剤を打ってるから興奮状態。この活力はかつての若々しさを取り戻したからだと錯覚するわけです。これは一時的な錯覚ですが、それで十分。そしてアルコールは気を大きくする働きがあります。次に商品担当の吉原さんにバトンタッチします」と言って太郎は下がり、先輩格の吉原が棒を握った。
「ここで私が家電の営業で培った口説きのテクニックを披露する番です。メインはこの緑のイカサマドリンクを売りつけます。最低一年間の定期購入です。みなさん年金生活者だから、一年続けて六十万、月々五万が限度でしょう。しかし偽薬効果というのがあるので、二、三年続ける可能性は大いにあります。若返りにいちばんの薬は気持ちの持ちようなんですから。で、その場で契約を取りましょう。ついでにさまざまな健康グッズを売りつけます。たとえば無圧布団とか入歯洗浄器とか温風暖房機とか、そういったたぐいを何でも並べます。もちろん、高価な指輪だって磁石が入っていれば健康グッズです。私の口車プラス覚醒剤、アルコールの相乗効果でどんどん売りさばきます。もちろんクーリングオフなどちゃんと法律に則って行いますので、勲章詐欺よりはよっぽど真っ当な商売です」と吉原が言うと、勲章三人組からブーイングがわき起こり、険悪な雰囲気のなかでプレゼンは終了した。
三番目に登場したのがユキ、トメ、メリの女性トリオ。タイトルは「三人の主人を一度に持つと」という風変わりなものだ。グループリーダーのユキが発表する。
「前の二つのグループは基本的には詐欺だと思いますが、肉弾三人娘の計画は殺人です」とユキが言い切ったところで、会場にどよめきが起こった。
「私たちは東京在住の大金持ちで独身の男性、高齢者を数人リストアップしました。同時に、この人たちは同じような性格を持っています。大の女好きで何度も離婚を重ね、ジジイになって周りから愛想を尽かされてとうとう独り身になってしまった。でもスズメ百まで踊りを忘れずという古の諺どおり、相変わらず歓楽街へ出かけてはお金を使っています。けれど、もうそろそろ年貢の納め時。ちゃんと奥さんをもらって手厚い介護をされながら、幸せいっぱいで往生するお歳だと心の中では考えていらっしゃいます。でも、長い長い女性遍歴を経ておりますから、女性を見る目は確かなものがあると思いきや、女はみんなこうしたものとの諦念もあり、結局好みのタイプの女にどうしても流れる。そこで、過去の女性を徹底的に調べた結果、意外なことにこの種の男はみなドン・ファンタイプだと判明しました」
「そのドン・ファンタイプとは?」と会場から質問。
「女だったら選り好みをしないタイプです。美人だろうが不美人だろうが、背が高かろうが低かろうが、性格がきつかろうが優しかろうが、高貴な女だろうが下賎な女だろうが、子供だろうが婆さんだろうが、夏は痩せた女、冬は太った女、とにかく女だったら何でもいい。メスゴリラにだって発情する爺さんたちなのです」
「じゃあ、三人とも合格だ」と声が飛んで会場は爆笑。
「でも、トメもメリも嫌だと言います。そういう爺さんはタイプじゃないし、二人とも女としての魅力に自信がない。きっと失敗するだろう。だから裏方に徹したいと言うのです。もちろん、女としての魅力は大事です。美人に越したことはありません。男はみんな美人に弱いんです。一目ぼれされたほうが事はスムーズに進みます」
「その美しい女とは?」と会場から質問が上がる。
「私です」とユキが言うと爆笑の渦。ユキはチェッと舌を打ちながらも気を取り直し、「私は準看護師の資格を持っていますので、さらに都合がいいんです。けれど、若い女が金目当てで老人と結婚する話はありふれています。ターゲットが一人じゃ役不足ですわ。だから私は同時に三人の老人と結婚いたします。重婚罪で縛り首」と続けた。
「せっかく三人いるのにもったいない。だって三人の男と結婚して連中が死んだとき、相続のときに重婚がバレるでしょう」と声が上がる。
「もちろん私もトメもメリも結婚するんです。でも、三人の男は全員、私と結婚したと思っているんです。つまり私はトメでもメリでもあるんです。トリックですわ。書類上は完璧です。爺さんたちの家に三人とも出入りして、混乱させます。トメの亭主の家では私がトメで、トメはユキです。メリの亭主の家では私がメリでメリはユキです。私の亭主の家ではユキがユキです。私は平安時代の貴族のように亭主の家を巡回します。職業はCAでフライトがあるとお泊りという設定。空けてる家にはCA仲間のトメとユキが手分けして留まり、お世話します。これならご亭主も文句は言わないでしょう。でも、スケベジジイですから親友に手をつけるかもしれません。トメとユキには我慢してもらいましょう。なぜなら、そのほうが都合いいからです。歓楽街に通ってほかの女に手をつけるよりはよっぽどマシですし、男は罪悪感を持つと優しくなるからです。亭主が死んでくれるまでは、なるべく亭主に逆らわないようにします」
「で、殺人の話は?」と会場から質問が飛ぶ。この計画のミソは、結婚したらなるべく早くに片を付けて遺産を相続することにあるのだから。
「それはシャマンにお願いします。シャマンは魔女の研究もなさっていますから、古来の毒薬に精通していらっしゃいます。一つ一つは無毒でも、合わせれば猛毒になるような調合も知ってらっしゃいますわ。家庭の常備薬でも、混ぜれば猛毒になり得ます。要するに警察にもバレず、心筋梗塞や脳溢血を誘発するような毒が欲しいんです。これで、私たちの基本計画の発表を終わらせていただきます。この計画がオッケーになれば、さっそく具体的な計画に進ませていただきます」と言って、ユキは発表を終えた。
いよいよチエの番が来た。チエはパソコン操作が苦手でパワーポイントもできないので、ボードにテーマを書いて、あとは言葉で説明する以外にないだろうと決めていた。ボードに大きく「なりすまし殺人」と書いた。
「私はあぶれちゃってチームはつくれませんでした。だから、背の届くようなところで計画をつくりました。でも、最終的にはユキチームと同じように、シャマンの毒の力におすがりします。ユキは結婚を狙っていますが、私は認知を狙っています。ご老人の子供になりすますんです。その子供は死んでいますがご老人は知りません。二十年前に愛人に生ませた子供で、そのときお金を払って愛人と縁を切っています。でも、子供は成人したのを機に、父親に会いに行くのです」と言って、おどおどしながら計画の概要を説明した。不思議なことに誰も突っ込もうとしない。企画が完璧なはずはないのだが、除け者にした後ろめたさがあって、大人しくしているのだとチエは勘ぐった。
四組のプレゼンが終わると、シャマンの総評があった。
「みなさんいろいろと知恵を絞って、いろんな案をひねり出していただきました。ご苦労様です。中にはできるのかな、とか儲かるかしらというのもございましたが、大事なのは行動だと神もおっしゃっております。いかに突飛な計画でも、試行錯誤を進めるうちに自ずと道は拓けます。特に女性チームは殺人という領域にまで踏み込んだ計画になっています。麻薬も毒も、材料は何でも提供いたしましょう。しかし、神にお伺いをたてなければいけません。人の死は人が決めるものではなく、神が決めるものだからです。死刑は国が決めますが、これは許されないことなのです。神が人を造り、人は神の所有物だからです。人を造ったのが神なら、人を壊すのも神。私たちの殺人は、神の意志による殺人です。したがって、私たちが罪となるのは神が死んだとき。しかし、神が死ぬことはありません」と言って、シャマンは微笑んだ。
続けてシャマンは神の降臨の準備を告げたので、全員が手を繋いで精神を統一させる。
「これからお伺いを立てますが、その前に一言申し上げます。世の中が不景気になると、取りやすいところからお金を取ろうという詐欺が横行します。多くの詐欺師、盗っ人が高齢者に目を付けています。実の子供までもが親の資産を狙っています。法律に触れなくても道徳的には許されない行為です。けれど、神のご遺志を実行する私たちは異なります。『造反有理』という言葉が大昔にありました。体制への反逆には理由があるという毛沢東の言葉です。一見、社会に反する行為は許されない行為ですが、社会がガラガラポンすれば許されます。私たちには理想の社会をつくるという理由があります。ならば、『殺人有理』という言葉もありえるのです。神はゼウスのように荒々しいのです。神は目的のために血を流すことを厭いません。神の血は冷え切っています。ごらんなさい、神は降臨いたしました」と言って、シャマンはホワイトボードを指差した。会場からオーッという驚愕の声が上がる。チエが書いた「なりすまし殺人」の文字が一瞬にして消え、新しい文字が浮かび上がる。「突き進め!」と書かれていた。
四
すべての企画が批判されることなく通ったということは、思う存分やってみて結果を出しなさいということだ。資金面では、どうしても足りなくなった場合はシャマンが協力してくれる。人員が不足した場合は、十人の中で横断的に協力し合うことになった。
チエはさっそく行動に出た。犬の散歩に出てきたところを待ち構えて名乗り出るのである。大胆な行為で失敗の確率も高かったが、一回でダメなら何回もしつこく迫れば道は拓けるに違いないと信じることにした。策略をめぐらすのが苦手な性格上、体でぶつかっていく以外に方法を見出せなかった。まるで張り込み刑事のように、一時間前から徳田が出てくるのを待った。
徳田はいつものように柴犬を連れて出てきた。四十分の散歩だから、後を付けていって十分くらいしたら声を掛けようと思った。しかし、老人の散歩はひどくゆっくりで十分間追い越さないであとを付けるのも簡単ではない。間が持たなくなって五分くらいで声をかけてしまった。
「あの、徳田寅之助さんでしょうか?」
徳田は立ち止まってゆっくりと首を横に向け、薄青い膜のかかった瞳をチエに向けた。
「どなたですかな?」
「トシコです。幸田トシコです。お父さんの娘です」と言ったチエの声は、緊張のあまり震えていた。
「僕には娘はいないよ。覚えがないもの……」
「覚えがないはずはありませんわ。幸田美津子の娘です。美津子はお父さんの愛人でした」
「愛人かね……」と言って徳田はニヤリとわらった。「覚えがないなあ、愛人もいろいろいたからね。しかし、みんな解決済みだ」
「そういう話じゃありません。私はお父さんの子供です。子供がお父さんを慕うのは自然の感情です」
「で、僕はどうすればいい。君を子供だと思って可愛がればいいのかね」
「いいえ。お父さんが私をどう思ってもいいんです。私はお父さんに尽くしたいだけですから」
「しかし、娘である証拠はあるのかね?」
「もし必要なら、DNA鑑定を受けてもかまいませんわ。二人の髪の毛を調べればすぐに分かりますから」
徳田はしばらくチエを見詰め、「僕の頭には苔のような毛しかないさ」と言って笑いながら、「まあいい。君がどうしたいのか知らないけれど、さしあたって僕はこうして元気に生きている。八十過ぎの爺さんだが、君の助けを借りなくてもあと五年は大丈夫さ。しかし、家に来たいというのなら来なさいな。息子も女房も死んじまって幽霊屋敷同然だもの。空き部屋はガラガラ転がってる」と続けた。
「ありがとうお父さん。明日から転がり込みます」
チエはしばらく散歩に付き合ってから徳田と別れ、すぐにアパートに戻って身支度を始めた。こんなにスムーズに事が運ぶとは思わなかった。徳田の足腰は弱まっているが、頭のほうはまだしっかりしているようだった。頭がクリアな状態のときに受け入れられたのだから、チエとしてもやましいことはなかった。一緒に暮らして気に入られれば、頭のクリアなうちに認知まで持っていける。ニセモノであろうと、認知さえさせてしまえばこっちのものだとチエはほくそえんだ。
明くる日の十時に、チエは大きな旅行カバンを引きずりながら徳田家の門に立った。大きな門の一部に切られた小さな扉から、先日見かけたお手伝いが出てきてにこやかに「いらっしゃいまし。シノと申します」と言った。扉をくぐると、芝生の広大な敷地が現れ、その中央に角砂糖のような白亜の建物が建っている。窓はまったくなく、近づくにつれて外壁は角砂糖をそのまま拡大したように凸凹していることが分かり、これは巨大な角砂糖のオブジェを家にしたものだと想像できた。ショートケーキハウスならぬシュガーハウスである。おまけに、おそらくは建物を囲んでいるのだろう、黒光りした金属製の巨大蟻が多数角砂糖にたかっていて、中には建物の途中まで這い上がる蟻、屋上から不気味な頭をこちらに向けて眺めているやつまでいるのだ。針葉樹を配した塀に囲まれて見えないものだから、広大な敷地の真ん中にまさかこんな奇妙な建物が建っているとはチエも思わなかった。
「けったいな建物でしょう。これでもカーネ・ボッタークリとかいう外国の建築家に大金払ってデザインしてもらったそうですよ。だんな様は昔、製菓会社の社長さんをしていらっしゃって、お菓子は砂糖がなければできないとかなんとか、砂糖に感謝を込めてこんな家にしたって話です。外側はぜんぜん窓がないの。家の中には真ん中にちゃんと吹き抜けの中庭があって、それに面して部屋の窓はちゃんとありますわ。それに屋上にも庭があるし、天窓だってたくさんあるし、お日様の光りを取り入れるファイバースコープみたいなのもあるから、部屋が暗いことはないわね」とシノは説明しながら建物に向かってどんどん進んでいった。門と玄関を結ぶ白い歩道もまるで砂糖のようで、最後は壁にぶつかって扉がない。スタッコだと思った白壁はセラミックで、砂糖らしい透明感を演出している。シノはとうとう壁の前に来ると、そこにたかっていた体長五十センチほどの小蟻の頭をグイッと押した。すると砂糖が割れて中に開き、広い玄関ホールが現われると同時に、思わずチエは「アッ!」と叫んでしまったのだ。大きなガラス越しに中庭が見え、そこに四人の女がたむろしていたからだ。
「あの方たちは?」とチエは不安いっぱいの目付きでシノにたずねた。
「だんな様のお子様たちですわ。ウソかホントか私には分かりませんけど、だんな様がそうおっしゃっています。みなさん、あなたのこと首を長くしてお持ちです」と言って中庭へ通じるガラスの扉を開いた。
そのとき、女たちの一人と目が合って、チエは固まってしまった。頭の血が滝のように下に落ちた。正真正銘のトシコがそこにいる。トシコのほうもチエだと認め、目を丸くして驚いている。トシコは扉のところに駆け寄ってきて、なめ回すようにチエを見ながら、怒りと軽蔑の混ざった眼差しをチエに投げかけた。
「チエあなた、なんでこんなところに来たのよ!」
「ハア? 私トシコと言いますが……」と、とっさにチエは白々しいウソを言ってトシコに対抗した。
「まあ、図々しい女だわ。あんた、私の親友でしょ。なんで私の振りをするのよ」
「振りなんてしていませんわ。あなたと会うのは初めてだし、私の名前はトシコです」
すると突然トシコがチエに飛びかかってむなぐらをグイグイ押し始めた。
「帰ってよ! あんたの来る場所じゃないでしょ。帰んなさいよ!」
シノはもみ合う二人を呆然と見ていたが、ほかの女たちはまったく動こうともせずにニヤニヤと傍観している。
「二人ともやめなさい」と弱々しい老人の声が聞こえると、とっさにトシコは弾かれた独楽のようにチエから離れた。
「この女は私の名前をかたる詐欺師です」とトシコは徳田に訴えた。
「あんたの名は?」と徳田はチエにたずねる。
「幸田トシコです」
「それで、君の名は?」と同じ質問をトシコにも聞いた。
「お父さん幸田トシコですよ。本当の娘ですよ」と言いながらトシコは涙目で徳田に訴える。
「まあ、世の中には同姓同名は五万といるだろう。記憶にはないが、どうやら同じ苗字の女と付き合って二人とも子供ができちまったらしい。しかも、母親がその子供に偶然同じ名前を付けちまったんだな」
「お父さん、そんな話はぜったいないわよ。この女は元私の親友で、山内チエっていうのが本名なんです。お父さんから財産を掠め取ろうとのこのこやって来たんだわ。あなた、運転できたはずね。免許証見せなさいよ。私と同じ免許証なんか出せるはずないものね」とトシコはチエに迫る。
「私、運転できません」
「なら健康保険証!」
「健康なので、やめましたわ」
「まあどうでしょう、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。あんたが詐欺師だとは知らなかった」
「まあまあ、いいじゃないか。兄弟姉妹がたくさんできるってことは幸せなことだよ。特に僕は幸せ者だ。息子は二十年前に死に、去年は女房が死んでだいぶ落ち込んだが、子供たちが大勢名乗り出てくれて、この家も賑わいを取り戻した。会社を乗っ取られてから部下たちも来なくなったし、かつてのゴルフ仲間もよぼよぼの爺さんになっちまった。ところがごらんよ。一度に五人も孫のような若い娘たちができちまった。みんな僕の子供だよ。どいつも美人だし、父さんにそっくりだもの。父さんは幸せ者だ」
「だから、ちゃんとDNA検査をしてくださいよ。そうすれば、こいつのニセモノがすぐに分かる」とトシコ。
「いいですよ。受けて立ちます」とチエも食い下がる。
「まあまあ、そんな検査なんかクソ食らえさ。僕が娘だと決めれば娘なんだ。それでいいじゃないか。だって僕には五十人くらい子供がいるかも知れないよ。昔の金持ちにはそんなやつらが多かったのさ。しかし、いかんせん記憶がない。十年以上前のことはみんな夢の中さ。君たちはそんな夢から飛び出してきたお姫様たちだ。まだ若けりゃ恋人にしたいくらいだよ。特に君たちは同姓同名の姉妹だろ。この家で波風は立てないでおくれよ。トラブルは堪忍してくれ。社員どもに吊るし上げを食ったのを思い出す。罵声を浴びせられたんだ。部下に罵られたんだ。せめて死ぬときくらい幸せに逝かせておくれ。さあ、仲直りしなさい」と言って徳田は二人の手を取り、強引に握手をさせると「今日は娘が増えたお祝いに、午後は中庭でバーベキューパーティーだ。みんなで手分けして材料を買ってきておくれ」と言って、ズボンのポケットから十万円を出してシノに渡した。
シノと犬、トシコを含めて三人一匹が買い出しに外出し、あとの三人で会場をセッティングすることになった。チエはほかの二人の冷たい視線に晒されながら、なにをすればいいのかも分からずに芝の上に突っ立っていた。正方形の中庭は五十坪くらいあって、シュガーハウスはさらにこの庭を取り囲む縦横同寸真四角の建物だから、けっこう大きなビルである。家族的な企業だったようで、社員研修などもこの家で行われていたらしい。内壁を見上げると、各階に白い手すりの通路が巡らされ、それが五段あるので五階建てであることが分かった。手すりの三カ所に巨大蟻がしがみ付いているのを見て、「芸が細かいわね」とチエは思わずつぶやいて微笑み、ここにたむろする女たちは砂糖にたかる蟻のようなものかしらと連想して顔を赤くさせた。
「あなた、付いてきて」と三十くらいの女がチエに声をかけた。女は家の中の大きな物置場に連れていって、テーブルを指差す。
「これを中庭に持っていって」
「一人でですか?」
「あれに乗せていけばできるわよ」と車輪つきの台車を指差した。ホームセンターで見かける材木運搬用の細長い台車だ。
「その前にひとこと言っておきたいことがあるわ」と言って、女はチエを睨み付けたので、チエは思わず身構える。
「あんた、本当の子供かどうかはいいけれど、認知してもらおうと思ったら大変だわよ。あたしたち全員、いまだに認知受けていないんだからね。親父さんは、認知したらみんなこの家から逃げ出すと思っているんだ。みんな若いからさ、男をつくってどこかに行っちまうだろ。死んだときにのこのこ出てきて相続権を主張するのが落ちだ。だから最後の最後まで引き伸ばしたいんだ。でも時間はないのさ。だって親父さん、あれで少しアルツハイマーだからね。認知症がひどくなったら認知どころじゃないもの」
「でも認知をためらっているうちは、しっかりなさってる」
「そこなんだ。そこの見極めが大事さ。ボケは必ず進行する。だから、いいなりになるくらいボケてハンコも押せるのはせいぜい一、二カ月くらいの間だと思う。そこがチャンスなの。あなた、頭が良さそうだから仲間になりましょうよ。あたしたち二人だけ認知を受けるんだ。ほかの連中を差し置いてさ」
「ええ、いいですよ。お名前は?」
「ハツエ。娘たちの中では今のところいちばん年上。でも、このままだと娘はまだ増えるような気がするわ。裏切りはナシよ」
チエはハツエと固く握手をした。先ほどトシコとしたときとは違って、力が入っていた。少なくとも仲間らしき者ができたことは、その仲間が競争相手だとしても心強かったし、裏切られる可能性はあるとしても孤立した状態で共同生活を送るよりはよほどマシだった。しかし、四人の女が住んでいたなんて、事前調査がいかにいい加減なものだったかを物語っていて、チエにはいい教訓になった。楽をしようと思うと、必ずしっぺ返しがあるのだから。
チエのミッションは、徳田の財産を残らず相続しシャマンに捧げることにある。ならば、ハツエと二人で分け合うとしても成功とはいえなかった。徳田の認知を受ければ、自分がすべての財産を相続できるだろうと安易に思ったが、角砂糖にはすでに何匹もの蟻が群がっていた。しかもハツエの言うように、来る者拒まずという徳田の態度を見れば、五人が十人になってもおかしくない状況だ。そうだ、徳田が外出するときは五人のうちの誰かが尾行するべきだと思い、ハツエに提案すると意外な返答が返ってきた。
「それは難しいわね。五人一緒に尾行はできないもの。みんな抜け駆けを恐れているから、親父さんと二人だけの状況をつくらせたくない。だから、親父さんが家にいれば、みんな家から出たがらない。自分が家を空けているときに、ほかの連中が結託して悪巧みをするかも知れないもの。あなたじゃないトシコ、トシコAとでも言おうかしら。あいつは外出した振りをして、親父さんの散歩のときに突然現われて認知を迫ったらしいけど、結局説得できずに一緒に戻ってきた。後で、みんなでAを虐めてやったわ。虐めかたはいろいろあるのよ。あなたも、そのうち洗礼を受けるわ」
中庭で開かれたバーベキューパーティーは、一応チエの歓迎パーティーだったが、徳田以外は白けているものだからまったく盛り上がらない。シャンパンで乾杯し、各々が散り散りに皿を持って焼き上がった料理を盛り分け、シノは自分が取り分けた皿を徳田の前に置いた。ほかの女たちは椅子に座ったり立ったりしながら黙々と料理を食べ、ビールを飲んだ。
「さあさ、もっと盛り上がったらどうだい。君たちは姉妹なんだから。ギターとか歌を歌える者はいないのかね」
するとトシコがギターを持ち出してきて歌い出した。ハスキーボイスでなかなか上手く歌うが、どれもブルースっぽい悲しそうなメロディーで場が盛り上がることはなかった。女たちの食欲はいまいちだが、徳田は大きなヒレ肉をぺろりと平らげるほどの食欲だ。アルツハイマーで満腹中枢がイカレテきたというよりは、心身ともにすこぶる健康で、軽度のアルツハイマーというのもハツエの単なる思い違いかも知れないとチエは思った。あるいは記憶力ははっきりとしていて、気まずい昔のことを忘れた振りをしているのかも知れなかった。
四方を壁に囲まれているのに涼しい風が吹き降ろしてくる。上の階からエアコンの冷気を流しているようだ。しかし真夏の直射日光はジリジリしているから、庭のあちらこちらで濃いグリーンのパラソルが開いている。最初は徳田の周りにわだかまっていた女たちも、徳田が食事に飽きてデッキチェアで昼寝を始めると、庭いっぱいに分散してパラソルの下のデッキチェアに寝転がった。トシコもギターを置いて、テーブルからいちばん遠いパラソルを目指して歩き始めた。シノは、もう誰も食べ物には興味を示さないと見るや、汚れた皿などを片付け始めた。チエが「手伝いましょうか?」とたずねると、「いえいえ、これは私の仕事ですから。それよりも、みなさんにご挨拶にいらしたらどうですか」と言う。それもそうだと、チエは近いところのパラソルに向かった。
「こんにちは。お名前を教えてください」と言って、チエは女の横のディレクターズチェアに腰かけた。
「カリナよ。あなたは紛らわしい名前だったわね」とカリナは、ワイングラスを片手にサングラス越しにチエを見つめた。
「トシコBとでも言ってください」
「A、Bのうち、どちらかがニセモノ。あるいは、両方ともニセモノ。この私はどう思う?」
「さあ、でもお父様に少し似ているところがあるわね」
「あなた、ぜんぜん似ていないわ」
「たまたま似なかっただけですわ」
「DNAを調べれば分かるのにね。みんな検査をしてくれと言うけど、内心は怯えている。母親は確かに徳田さんの愛人だった。でも、ほかの男の種かも知れない。みんな自分の母親の性格は良く知っているからね。あなたのお母様だって、あなたが誰の子か分からないかも知れない」
「私は徳田さんの子供ですわ。母を信用しています」
「まあいいわ。お父様はみんな自分の子供だと言うんですから。でも、財産を均等に分けるっていうのも悔しいわよね。いくら財産があるのか知らないけどさ。紛れ込んでいるニセモノにも取られちまう」
「トシコAにはやりたくないですわ」
「ならこうしましょうよ。トシコAを蹴落としちゃうの。あたしたち二人が結託して、邪魔な連中を放り出しましょうよ。一人で頑張るより、二人で頑張ったほうが上手くいくわ」
「ええ、いいですわ」
「じゃあ、約束よ。私たちの秘密は誰にも言わないでね。二人の間には隠しごともなしよ」
「了解」
「さあ、もう行って。あまり話しをしていると怪しまれるから」
「怪しまれないように、ほかの方とも挨拶します」
チエはカリナと握手をして離れた。次に挨拶したのはユカリだ。ユカリとも同じように秘密協定を結んだ。チエはトシコを除いて三人の姉妹と密約を結んだことになる。これでトシコと結べば、秘密協定の意味はなくなってしまうような気になった。チエがほかの四人と密約したとする。ほかの四人はそれぞれがほかの四人と密約していたとすれば、全員が全員と密約を交わすことになる。それに意味があるとすれば、身の安全を守る保身術くらいなものだろうかとチエは思った。たぶんこんな状況になると、集団というものは誰かをスケープゴートに仕立て上げようとするに違いない。まずは協力し合って一人を追い出しにかかるだろう。子供同士のイジメと同じような構図かも知れない。それから逃れるためには、誰でもいいから仲間をつくることだ。だから、この密約はそんな不安から生まれたものに違いない。自分が得た情報は密約の相手にバラすはずもないだろう。しかし、全員と仲間になってしまったら、スケープゴートはいなくなってしまう。
「そうだ、私にとっていちばん危険な人物はトシコだ」とチエは思った。「まずはトシコを潰さなければいけない。あいつをスケープゴートに仕立て上げればいい。みんなしてトシコをいじめて、ここにいられないようにするんだ」と心に決めた。
五
チエはその夜に、五階にあてがわれた部屋からシャマンに携帯電話を使って状況を説明した。四人も競争相手がいることを伝え、一人ずつ追い出していく計画を話した。
「いずれにしても先手必勝ですわ。あなた一人が認知を受けなければいけません。いかに多くの収益を獲得できるかが、あなたに課せられた課題ですから。手段は問いません。あなたの決意は、殺人をも辞さないということでしたからね」とシャマンはチエを鼓舞した。まずは計画だ。チエは机に向かって苦手な策略を考えはじめた。ノートに鉛筆を走らせる。邪魔者を追い出すための手段はなにか。「殺人」。そんな大それたことは最後の最後に取っておこう。ならば「恐怖」。これなら怖れをなして出ていくかも知れない。しかし徳田の目の黒いうちは、集団リンチはできそうもない。必要なのは目に見えない恐怖、殺されるかも知れないという恐怖だ。そうした恐怖を抱かせるには、小さな嫌がらせを積み重ねることだ。まずはターゲットを一人決める。トシコAに決まっている。チエは三人の女と密約を交わした。それぞれの仲間に個別に計画を打ち明けよう。仲間はチエと二人でトシコに嫌がらせをしていると考えるが、実際には全員がトシコに嫌がらせをすることになる。それを知っているのはチエだけだ。トシコが去ったら、次のターゲットをチエが決め、同じことを繰り返す。
さっそくチエは、夜中に四階のハツエの部屋を訪れた。徳田はチエと同じ五階に寝室があったが、ほかの女は四階に二人、三階と二階に一人ずつ寝泊りしている。社員研修も兼ねて建てた家なので、各階には風呂もトイレも完備し、一人で三部屋くらい使っても、まだまだ空き部屋がたくさんある。エレベータを使わなければ、夜中に移動しても見つかることはまずないだろう。チエはハツエに計画を打ち明けた。
「トシコAは完全なニセモノです。それで、あいつはどうしてもこの家から追い出さなければなりません」
「どっちがニセモノかは知らないけれど、一人でも減れば助かるわ。で、どうすれば追い出せるかよね」
「だから二人で協力して、周りにバレないように嫌がらせをするの。例えば、食事にカミソリの刃を入れたり、飲み物に下剤を入れたり、庭を歩いていたら上から物が落ちてきたり、考えられることはすべてやって、殺されるんじゃないかと思わせればきっと出ていくわ。トシコが出ていったら次のターゲットをまた決める。最終的に遺産相続人は私たち二人に落ち着けばベスト。大事なことは誰がやったかバレないことね。バレたら追い出される。もし見つかったら、お互いのことはバラさないという約束」
「分かったわ。お互い慎重にやるってことね」
次の日の夜中にはカリナと同じ話をして了解を得て、その次の夜中にはユカリと同じ話をした。これで四人がトシコを攻撃する態勢を整えたわけだが、実際はチエ以外の三人が行動するのだ。黒幕のチエはあえて危険を冒すことはしないで傍観するだけでいい。ほかの三人がいろいろ悪さをしていれば、各自自分がやっていない悪ふざけはチエの仕掛けたものだと思うから、チエはなにもしなくてもバレないというわけだ。チエが現行犯で捕まる心配もないし、捕まった片割れがチエとの共犯を自白しても、しらばくれればいいだけの話である。相棒が手詰まりになったら、チエがアイデアを出してもいい。行き詰まったらシャマンにお伺いを立てれば考えてくれるだろう。実行犯との連絡はなるべくケイタイのメールを使うことにして、疑われないようにしようと思った。
ところが話はそんなに単純なものではなかったようだ。チエは新入りの洗礼みたいなものを受けたのである。飲み物に下剤を入れられたようで、ひどい下痢になった。トシコがやったと考えたかったが、実際誰がやったかは分からなかった。シノに薬を買ってきてと頼むと、「みなさん下痢はしょっちゅうですからお薬は買いだめしてありますわ」と言って薬を持ってきた。三人個別にメールをすると「犯人はトシコAだわ」との返信。しかし、日常的に嫌がらせが横行しているのならトシコでない可能性も十分に考えられ、三人を信用するのもほどほどにしようと思った。
朝食も昼食も抜かして部屋で大人しくしていると、薬が効いてきて腹の痛みはなくなり、とたんに胃袋がグーと鳴いて空腹感を覚えた。ちょうどいいデトックスになったとチエは前向きに考えて、これからはすべてに細心の注意を払おうと心に決めた。隙を見せたらなにかをやられる可能性があるし、隙を見たらなにかをやる必要があるかも知れないと思い、自分も実行犯になろうと決心すると、なにかわくわくするような気分になってわらいがこみ上げてきた。自分がやられたということは、仕返しをする大義名分もできたわけだ。
チエは空腹に耐え切れなくなり、三時過ぎに一階の食堂に下りた。四十畳以上もある細長い部屋で、テーブルや椅子が隅に積み上げられている。昔は社員研修のときの食堂として使われていたので厨房もやたらと広く、そこでシノがケーキをつくっていた。「なにか食べるものありませんか」とたずねると、「昼食の残りがありますわ」と言って、カレーライスを出してくれた。たちまち砒素カレー事件を連想し、しばらく手を付けずにジロジロとカレーを見つめ、クンクン臭いを嗅いでいると、「お気に召しません?」とシノがたずねる。
「いいえ、美味しそう」と言ってチエは思い切って食べ始めた。シノがケーキを冷蔵庫に入れて厨房から出て行き、広い食堂はチエ一人になった。背後に人の気配を感じて振り返ると徳田が立っている。
「あらお父様」と、チエは驚いた表情をした。
「どうしたのかね、朝飯も昼飯も抜かして」
「お腹の調子が悪かったんです。でも、もう治りましたわ。治ったらとたんにお腹が空いちゃって……」
徳田はテーブルの向かい側に座って「私にかまわないで食べなさい」と言った。
「昔はこの食堂も新入社員でいっぱいになったことがあるんだ。入りきらないで時間をずらしたこともある。料理人も四人くらいあそこで働いていたんだ」
「賑やかでしたのね」
チエはスプーンを止めて徳田を見つめ、微笑んだ。
「そうさ。家族的な会社だったんだ。みんな、研修を楽しみにしていた。私は社員を家族だと思って育てたんだ。しかし、今になってみれば、年賀状ひとつよこしゃしない。確かに私は経営戦略に疎い人間だった。会社を乗っ取られるとは思いもしなかったさ。しかし、いろんなお菓子を発明して世界中の子供たちに喜ばれることをした」
「じゃあ、世界の子供たちはお父様のお菓子を食べて大きくなったのね」
「そうだよ。みんな私の子供のようなものさ」
「でも、私はお父様の血の繋がった本当の子供ですわ」
「そうだ、君は私の本当の子供だ。ほかの四人も本当の子供たちさ。だからみんな私に協力すると誓ってくれたんだ」
「ええ、私もお父様の言いつけには従いますわ」
「ありがとう。それじゃあみんなと協力してくれるんだね」
「はい、でもなにをするんですか?」とチエは不安になってたずねた。
「誰も君に話さなかったのかい? 財団をつくるんだよ。世界の恵まれない子供たちに奨学金を送るんだ。その子たちは、お金がなくてお菓子も食べられなかったような子供たちだ」
チエはあ然とし、口を閉じるのも忘れて徳田を見つめていたが、漠然とはしていたがなにか光明のようなものが向こうからやってきたような気もしたのだ。「それはすばらしいことですわ」と喉を擦るようなカサカサとした声を発し、無理やり頬を痙攣させてわらった。
「ありがとう。君は心から喜んでくれたね。ほかの子も承諾はしてくれたけど、君のような笑顔はなかったな」
「お父様の築き上げた財産ですもの、お父様の使いたいように使えばいいんですわ。それに、世界中の子供たちを喜ばせるのはお菓子とお金かしら」
「そうだよ、お金がなければお菓子も買えないし、勉強もできないんだ。お菓子すら食べられない社会はたくさんあるんだよ。私はトルストイのように、全財産を貧しい人たちのために使いたいんだ。しかし、私は彼よりも幸せ者だ。トルストイは家族の中で娘一人しか味方にできなかったが、私は娘たち五人がみんな賛同してくれた」
「それはどうかしら。口と心が違う人もいるかも知れませんわ。だって、反対すればこの家から追い出されるかもしれないから、口ではなんとでも言えますわ」
「君はどうなんだね?」と徳田は真剣な眼差しをチエに向けた。
「私、嘘はつけない性格です」
「ならば君は、それを証明する必要があるな」
「どうやって?」
すると徳田はTシャツの胸ポケットから四つ折りになった紙とペン、小さな印肉を出したので、チエは慌ててカレーの皿を横にどけた。
「これにサインをしてくれたまえ」と言って、徳田は紙を広げてテーブルに置いた。「私は徳田寅次郎の相続権を放棄します」と書かれてあり、右側に徳田のサインと実印らしき印が押されている。チエは頭がのぼせたようになって背中がビリビリと震えたが、「慌てなければ必ず道は見出せる」というシャマンの言葉を思い出し、落ち着け落ち着けと心で唱えながらゆっくりと字面を読み返した。
「私のサインの左にサインしてくれたまえ」
チエは一言も質問しないまま黙ってサインし、拇印を押した。黙ってサインをするようにとの神の意志が聞こえてきたからだ。徳田はよほど感激したのだろうか、涙を流しながらチエの手を取り、「これで君は私のただ一人の子供だ」と囁いた。
「あらお父様。ほかの娘さんもサインしたんでしょ?」
「いいや。考えさせてくれといったきりのままの子もいれば、認知を受けたらサインしますと言う子もいるが、君のようにすぐにサインする子は一人もいなかったよ」
「私はお父様のたった一人の味方ということね。お父様が次におっしゃりたいことは分かりますわ。トルストイの娘のようにお父様を助けて、できるだけ早くに財団を立ち上げること」
「そうだよ。よく言ってくれた。私は余命いくばくもない老人だ。トルストイのような惨めな死に方はしたくない。命あるうちに成し遂げたいのさ。世界中の子供たちから尊敬されて死んでいきたいんだ。名誉を取り戻したいんだよ。社員から受けた汚辱を晴らしたい。私がどれだけ人々を愛しているか、いまからでも遅くはない。二人で証明してやろうよ」
「分かりました。私がお父様の手足となって徳田財団をつくることに奔走します。でも、約束してください。ほかの四人には内緒にしていること。ぜったい認知しないこと。だって、彼女たちはお父様の財産を狙っているんですもの。認知なんかしたら、財団の基金を持っていかれてしまいますわ」
「分かった。ほかの子たちにはもう一度この紙にサインをしてくれるように頼んでみよう。それで、断ったらこの家から出ていってもらうことにする」
「いやいやサインして、いやいや協力する人たちは足手まといになるだけですわ。私一人で十分です。私は弁護士や会計士にも知り合いがいます。彼女たちは泳がせておけばいいんです。追い出そうとするときっと大事になりますよ。どんなしっぺ返しをされるかも分かりません。彼女たちの知らないうちに財団を立ち上げてしまえば、お父さんのお金も財団のお金になりますから、誰も手を出せなくなるんです。そうなれば、彼女たちも自分たちから去っていくでしょう。お金にたかるダニのような人たちなんですから」とチエが言うと、徳田は「わかった、あとで財産目録を君に見せよう」と言って立ち上がり、そのまま炎天下の中庭に出ていった。お気に入りのパラソルの下で午睡を取るようだ。
徳田はデッキチェアに横になるとすぐに寝込んでしまい、一時間は起きることがない。痩せた老人の青い影がよろよろとしながらデッキチェアに沈んでいくのをチエは見届け、立ち上がった。頭の中はこれからどうするべきかというクエッションマークでいっぱいになり、カオス状態。こんな状態になると、シャマンにおすがりするしかないとすぐに思ってしまうところがチエの弱点だった。
調理場で食器を洗っていると、四人の女がぞろぞろと食堂に入ってきてテーブルに座り、ハツエが手招きをする。「ああ見られたな」と思いながら、チエは皿を洗い終わって布巾で水を拭いてからゆっくりと向かった。
「何にサインしていたの?」とハツエ。
「何って、相続権放棄ですわ。みなさんもなさったんでしょ?」とチエは顔色も変えずに答えた。
「私たちがそんなことするわけないじゃん」
ユカリはバカだなあという顔付きをして、両腕を大袈裟に開いた。
「いったいどうしてそんなことしたの?」とハツエ。
「ニセモノだからよ」とトシコ。
「あなた、お父様にまた私がニセモノだとしつっこく訴えたでしょう」とチエは適当なことをでっち上げてトシコを非難した。
「当たり前でしょ。あんたはニセモノなんだから」とトシコ。どうやら的中したようだ。
「私はお父様に、ニセモノじゃありませんとはっきり言いました。するとお父様は、ニセモノか本物かなんてどうでもいいんですって。財産目当てか財産目当てでないかで判断するとおっしゃったわ。そうして紙を出されたからサインしました。私はお父様と一緒に暮らすだけで幸せですもの。お父様がお亡くなりになられたら、この家から出て行きます」
「まあ、よくもそんな白々しいことを!」と言って、トシコは両手でテーブルを叩いたのでほかの三人が制止して、午睡している徳田の様子をうかがった。
「あなた、本当に財産いらないの?」とハツエは疑いの眼差しでチエを見つめる。
「いいえ、財産は欲しいですわ」
「じゃあ、なんでサインしたの」とハツエ。
「あれはきっと踏絵ですわ。だって、本当に父親思いの子だと思えば認知もしてくれるし、あんな紙すぐに破ってくれるでしょう。あなたたちがまだサインしていないなら、お父様の財産はみんな私のもの。財産目当ての子供に誰も財産なんかやりたくないもの」とチエは言って、ニヤリと笑った。
「ああ、知らなんだ……」とハツエ。
「おバカさんだ」とトシコは言ってゲラゲラと笑ったので、ハツエが人差し指を口に当てて徳田の様子をうかがう。
「あの念書の意味が分からなかったということは、お父さんも学習したってことね。あなた、あの紙は金庫に入れられて破ることはぜったいないわよ」とユカリ。
「どうしてそんなことが言えるの?」とチエはむきになって聞き返した。
「それは言えないわ。みんな、言っちゃだめよ。でも、これだけは言ってやる。相手はアルツハイマーに罹ったオイボレだってこと。私たちはみんなオイボレが御しやすくなるときを待っているの」とトシコ。
「あなた、言葉を慎みなさい」とハツエがトシコを怒鳴りつける。
「まるでハイエナね。瀕死のエサを遠巻きにして待っている。それでも本当の子供だと言えるの?」とチエもトシコに食ってかかった。
「こりゃ驚いた。お前らみんなニセモノだってことは知っているんだ。私一人があの爺さんの本当の子供さ。いざとなれば裁判を起こしてやる。DNA鑑定に持ち込めば、爺さんの財産はみんな私のものだ。私だけが財産を相続する権利があるんだ」と言って、トシコはガラガラと足で椅子を後ろに退けて席を立ち、食堂から出ていった。
「あんた、当てが外れたわね。ここにいる理由もなくなった」とハツエはチエに向かって言った。
「いいえ、ここに居れば食費はタダだもの。お父様が出て行けと言わないかぎり、しっかり居させてもらいますわ」と言ってチエも立ち上がり、自室に戻った。
六
財産を放棄したチエは脱落者と見なされ、それ以降嫌がらせを受けることもなかった。しかしどうやら、ほかの四人の中では熾烈な追い出し合戦が続いているらしく、特にトシコが被害に遭っていた。地下にあるサウナに入っていたらいつのまにか服が無くなっていて、タオルを巻いて自室に戻るところを徳田に見られたり、部屋の中にサソリやムカデが出没してスリッパで叩き殺したりもした。しかしトシコは気性の激しい女で、やられたらやり返すのが心情だから、カリナの裸を盗撮して有害サイトに流し、そのURLを書いたメモをカリナのベッドに置いておくといった悪質な悪戯をしたのもトシコだ。ところがこうした嫌がらせ合戦はだんだん過激になっていくばかりで、万が一ケガをしたら刑事事件に発展する恐れもあった。例えばトシコが外庭を歩いているときに大きな石が上から降ってきて、一メートル横にドスンと落ちた。さすがに危機感を覚えたトシコは女たち全員を地下の会議室に集めて話し合いを持った。
「誰が私を狙っているのか知らないけれど、警察が入ればもうこの家にいることはできなくなって、認知を受けるどころの話じゃなくなるわ。みなさん深夜に動き回るのはおやめなさい。私はお父さんに頼んで部屋の鍵を付けてもらいます。なにをやられても出ていきゃしないから」
「それはこっちの台詞だわ。あんたがやっているのはミエミエだ」とハツエはトシコに反論。こうなると、水掛け論になって収拾が付かなくなる。
「それじゃあ、ここで誰を先に追い出すか多数決で決めましょう」とカリナは発案して「トシコAさんがいいと思う人」と言うと、チエを除いた三人が手を上げてニヤニヤわらう。トシコは逆上してカリナに襲いかかるが、三人でそれに応戦するからトシコに勝ち目はなく、ボコボコ殴られて顔中アザだらけになり、ほうほうの体で三人から逃れると、ポケットからナイフを出して振り回しはじめたので三人はたちまち青くなって硬直した。
「やめなさい! あなた、財産ばかりか一生台無しにするよ」とチエは必死に止める。
「うるせえニセ野郎!」と言いながらも、次第に落ち着きを取り戻し「いいかよ、今度何かしやがったら切り刻んでやるから覚えていやがれ!」と捨て台詞を残して出ていった。残った全員はホッとして胸をなで下ろし、「ヤバイヤバイ」とカリナが照れ臭そうにつぶやいた。
「トシコAさんは手ごわそうね。莫大な財産を狙っているんだもの、みんな死に物狂いだわ。そう易々とは引き下がらないわよね。みなさんも、もう少し冷静になったほうがいいわ」とチエは気軽な気持ちでアドバイスして部屋から出て行くと、「うるせえニセ野郎」と小さな声がして複数のわらい声が漏れた。
明くる日にトシコのボコボコ顔を見た徳田が驚いてたずねると、「階段から落ちたんです」と嘘を言う。徳田が廊下を歩いているときにチエは横の小部屋に誘い込み、事情を説明した。
「じつはみなさん、少しでも相続人を減らそうとしのぎを削っているんです。いろんな嫌がらせが横行しているわ。昨日の晩はトシコさんがほかの三人に袋叩きにあってあんな顔になってしまいました。殺人だって起きかねない状態です。だから、相続放棄しない人たちは、財団の設立にはまったく貢献しない人たちばかりですから、早々に出ていってもらったほうがいいですよ」と告げ口した。
「しかし君は、追い出すのも大変だと言っただろう」
「だから、できるだけ早く財団を設立するんです。設立したらすぐに追い出しましょう。ここは財団の本部になるんだし、彼女たちがここにいる理由もなくなるんですから。だからお父様、私が今日にでも弁護士さんのところに行って、手はずを整えます。全財産のリストや通帳、債券なんかをまとめておいてくださいね。設立の手続きは早いほうが彼女たちのためにもなります。なにしろ、殺し合いをしかねない状態なんですから」
「わかった、さっそく財産をまとめよう。そうだ、銀行の貸し金庫にも行かなければならんな」
「普通に出かけてはいけませんわ。みんなに悟られては大変です。みんな、お父様の行動をビクビクしながら監視しているんですから。まるで徘徊老人扱いですわ。まずは弁護士さんに相談です。たぶん、全財産を財団に移譲するっていう契約さえすれば上手くいきますわ」とチエは言って、徳田を安心させた。
チエは呪縛霊のように徳田にしがみ付いている必要もなくなったので、気楽に外出することができた。ほかの女たちは、自分が留守の間に抜け駆けをされるのではないかと、いつも戦々恐々としているから、なかなか家を空けることができない。チエはシャマンの本部に戻って事情を説明し、至急財団を設立してくれるようシャマンに頼み込んだ。財団の理事長はもちろん徳田で、副理事長はチエである。もしも副理事長が若すぎるということであれば、誰かシャマンの会の人間を立てればいい。どころか理事だって全員シャマンの会のメンバーだ。シャマンは身内の弁護士と公認会計士に財団設立の手続きを進めさせることにした。設立するのはもちろん本物の財団だが、徳田の資産をすべて移行させるのが主目的である。移行した後、不運なことに徳田は心筋梗塞で帰らぬ人となる運命だ。徳田の遺志を継ぐのはもちろんシャマンの会から派遣された理事たちである。理事たちは新しい理事長にシャマンを推挙するだろう。これで徳田財団は実質的にシャマンの会が運営することになるので、その後の活動はシャマンの意志に委ねられる。書類をすべてそろえるには一週間ほどかかるが、あとは徳田のサインと実印だけで徳田の全財産を基金とした徳田財団が設立の運びとなるわけだ。
チエが財産放棄を誓約してから一週間ほど経ったある日の午後、ビジネススーツを着込んだ三人の男と二人の女が徳田家のインターフォンを押した。五人はシノの案内で五階の執務室にエレベータで向かった。とたんに女たちが集り、お茶の用意をしているシノにたずねる。
「さあ、どなたか存じませんわ。蒲田ですとお伝えくださいって言われたから旦那様にそう伝えると、執務室に案内してくれとのことでした。なにかマルサの家宅捜査みたいな感じでしたよ」と言いながら、シノは他人事のように落ち着き払った態度でお茶を入れている。
「私たちも入りましょうか」とトシコはいても立ってもいられないように武者震いしながら言った。
「早くトイレに行きなさいな」とチエはからかう。
「とにかく、お茶はあたしが持っていくわ」と言ってハツエがシノからお盆を奪い、五階に上がっていき、五分ほどして戻ってきた。
「やっぱ税務署のようね。北海道の山林の話をしていたわ。聞いていようと思ったけれど、席をお外し願いますってオッサンに言われちまった。でも、お父さんから呼んだ連中じゃないから、少しは安心だわ」と言うので、みんなホッとため息を付いて解散した。ところが、この連中はシャマンの会の蒲田弁護士をはじめとする仕掛け人たちだった。チエは今日弁護士が来ることをあらかじめ徳田に知らせ、女たちに気取られないために自分は席を外す旨を伝えておいた。今ごろ徳田は蒲田の思うままになって、いろんな書類にサインし、実印を押しているに違いなかった。徳田の資産がどのくらいのものかはおそらく老齢の徳田自身も分かっていないかも知れないが、全財産を財団に移譲する契約書を結んでいるはずだった。
一時間ほどしてから、弁護士グループは帰っていった。女たちは再び群れをなして徳田の執務室に押しかけた。
「税務署がお父さんになんのご用だったんですか」とハツエがたずねる。
「なあに、北海道の私の土地を中国人に勝手に転売した悪徳業者がいるらしい。しかし二束三文の原野だからな、どうということもないさ。いずれ警察に捕まるだろうて」と上手いウソを言う。女たちが去った後にチエだけが残ると、徳田はソファーから立ち上がって、チエを抱擁した。
「ありがとう。とうとう財団が発足したぞ。あとは、君と私、そして蒲田君も私の基金を元に運営を手伝ってくれることになった。蒲田君の知り合いが、理事にもなってくれるんだ」と言って、一枚の紙をチエに手渡した。徳田理事長を先頭に、理事の名前がずらずらと書かれている。その中にチエの名前も入っていた。
「まあお父様、私はまだ二十歳ですわ。理事なんかになれるかしら」
「いいのさ。誰も君の歳なんか分からんよ。名前が必要なんだ。理事は多いほど箔が付く。さあ、エネルギーが湧き出してきたぞ。そうだ君、二人で世界の極貧国をリストアップしよう。その中でももっとも救済を必要とされる国を二、三選び出して蒲田君に提出しよう。蒲田君の知り合いの公認会計士が財団の基金を管理することになった。子供たちにどのくらいの支援ができるか、それを計算するのは公認会計士の仕事だ。蒲田君は一生懸命やると約束してくれた。君は蒲田君と連絡を密にして、早いところ実績を上げるようにするんだ。こんな家にじっとしているわけにはいかんぞ。NPO団体やジェトロに行って情報を仕入れておくれ。そうだ、門には看板が必要だな。この家の空き部屋を事務所にする。娘たちには部屋を移動してもらうかもしれないな。一、二階はぜんぶ事務所にしよう。あの中庭にもいろんな国の人たちが集うようになるんだよ。昔のように、この家も賑やかになるなあ」と、徳田はひどく興奮して部屋中をおぼつかない足取りで歩き回った。思わず涙を流したチエを見て徳田はよろよろと歩み寄り、干からびた両手でチエの右手を包み込むようにして「ありがとう」と言った。徳田の目からも涙が流れている。この屋敷すら徳田のものではなくなったのを知らないで、これから徳田が使えるお金はわずかな年金や年金保険くらいなもので、さらにいつまで生きていられるのかも分からなくなったとういうのに、嬉々としてチエに感謝する。思わずもらい泣きしたチエの涙には成功の涙と後悔の涙が入り混じっていた。チエは徳田の喜ぶ姿を見ていて憂鬱な気分になってしまたので、思わずシャマンに電話をした。シャマンはチエの心を透視し、すぐに来るようにと促した。
珍しいことに、シャマンはチエを居酒屋に誘った。普通のOLと変わらない服装をしても中身が良すぎるものだから、シャマンには男も女も一瞥を注ぐ。二人は奥の席に座ってジョッキを頼んだ。
「まずはおめでとう」と言って、シャマンはジョッキを上げてチエと乾杯した。
「あなたはよくやった。グループの中で最初に成し遂げたわ。でも、あなたの心は傷付いた。それもよく分かります。例えば、多くの詐欺師は判断能力の低下した高齢者を騙そうとする。彼らだってきっと、あなたと同じに自己嫌悪に陥ることもあるでしょう。でも、あなたと彼らとはまったく違う。なにが違う?」
「さあ……」とチエは考えが思いつかずに言った。
「彼らは自分のためにやっている。あなたは?」
「世界を救うため?」
「いいえ、それが成せるのは神だけだわ。あなたは神ではない。でも、神とあなたは誓ったはず。契約を取り交わしたの。神を愛し、神のしもべとなって行動するという。そのときからあなたは、神の軍団の兵士になりました。神を愛するということは、神への愛が隣人愛に勝るということなのです。つまり、神への愛のために隣人への愛を切り捨てるケースもアリということ。そして、神のしもべ、兵士というのはしもべなのよ。どんなに苛酷な戦いでも上官の命令には従わなければならないの。上官が敵を殺せと言えば殺さなければならない。捕虜を殺せと言えば縛られた人間の首を刎ねることも辞さない。上官の言うことは正義だと信じなければ、命を張って戦うことなんかできないから脱走兵になるしかない。あなたは脱走兵になります? 神話の時代や大昔には、勝利するために自分の妻を川に投げ込んだ英雄もいたし、自分の息子を生贄にした王もいた。なぜ? 神への愛を優先させたから。彼を英雄や王に仕立て上げた神がそれを望んだから。そして神は、この犠牲はムダではないと約束してくれたから。神が裏切ることはないのよ。老人を騙してお金を巻上げる。それどころか、その老人を死に導く。確かにあなたは極悪人ね。でも、神があなたに極悪人になることを望まれた。それはなぜ?」
「…………」
「この仕事は、立派な兵士になってもらうためのイニシエーションなのです。神は優秀な兵士には難題を与えます。時にはこれから一年間、一言も口を利いてはならぬとおっしゃるかも知れない。時には多くの人を殺せとおっしゃるかも知れない。やるかやらないかの判断は一人ひとりの兵士に委ねられます。脱落するのもいいでしょう。でも、きっと一生後悔するような人生がそこから始まる。あなたは世界を救うことを放棄したのですから。人生というのはほんの数秒の判断で、まったく違う方向に行ってしまうものです。交通事故がその良い例です。後悔しても元へは戻れません。あなたは何を目的にこの会に入ったのですか?」
「神と人間の間の超人、シャマンのような存在になるためです」
「私がこの地位にあるのも、神の忠実なしもべとして神が与える理不尽な課題も受け入れて多くの試練を乗り越えてきたからですわ。だから神は私を信頼なさって、私はこの世からサタンや海の怪物、陸の怪物を一掃する大任を負わされたのです。だからあなたもいまの試練を乗り越えなければなりません。できますか?」
「できます。シャマンが私を後押ししていただけるなら……」
チエは涙で赤くなった目をシャマンに向け、シャマンの高い理想を共有しなければならないと心に言い聞かせた。シャマンの瞳は大きく開き、その奥には茫洋とした暗黒宇宙が広がっていて、そこは神の領域だった。シャマンは優しく微笑んで、「もちろんです。世界は神の御意志で動いているのです。私たちは地上に派遣された神の一師団、そしてあなたは最前線で命を賭ける兵隊。私は師団長として兵站はもちろん、あなたの心の傷を癒すナイチンゲールにもなって全面的に後方支援を行いますわ。また、少しでも悩み事があったら連絡しなさい」と言ってチエの右手を両手で握った。シャマンの愛情が手を伝わって、チエの後頭部をピリピリと痺れさせる。シャマンの掌は少女のようにしっとりとしていて柔らかく、徳田のガサガサ乾ききった感触との違いに驚かされた。きっとあの老人は神様の望む寿命をはるかにオーバーしているに違いない、とチエは思った。
七
次の日から、徳田の家には蒲田と公認会計士の殿山が頻繁に出入りするようになった。門柱には徳田財団という大きな表札が掲げられた。一、二階を財団事務所に改装するため業者も入り、トリッキーな玄関は普通の扉に変わり、二階に部屋があったトシコは三階に移らなければならなかった。しかし何よりも女たちは、突然財団が立ち上がったことに驚愕したのだ。一階の食堂は工事が入ったために使えず、女たちは仕方なしに三階の会議室に集合し、話し合うことになった。
「あんたのメンタマは、いったいどれだけ老眼が進んでいるのよ」とトシコが口を切ってハツエをこきおろした。
「私のせいじゃないわよ。あいつらがウソついたんだから。税務署だなんてよう言うわ」とハツエ。
「それより財産だわ。財産はいったいどうなってんのよ」とユカリが声を荒らげる。
「たぶん財団に移譲したんだと思うわよ」とチエは白々しく答えた。
「じゃあ、いったい私たちの相続は?」とカリナ。
「それはお父様がいくら自分の財産を残しているかによるわね」とチエ。
「行きましょう。あのジジイに聞かなけりゃ話が進まないわ」とトシコが言うと全員が立ち上がり、エレベータで五階の執務室に向かった。トシコは執務室のドアをトントン叩いてから、返事も待たずにドアを開けた。すると、徳田が座る大きなデスクの両脇に小さなデスクが置かれていて、蒲田と殿山が山のように書類を積んで作業をしている最中だった。
「いきなりなんだい」と徳田はきつい調子で女たちを叱った。
「お父さん。私たちに内緒で財団をつくるなんて、いったいどういうことですか!」とハツエが大きな声で徳田にたずねた。
「それは前々から君たちに話していたことだよ」と徳田は答える。
「でも、こんなに事が進んでいるとは思わなかったわ」とカリナ。
「私ももう八十四歳なんでな。焦っておったんだよ。しかし、こちらの優秀な弁護士さんが代わりにチャッチャと事を運んでくださって、あれよあれよという間に財団が設立されたんだ」
蒲田は椅子から立ち上がると女たちに向かって頭を下げた。
「弁護士の蒲田です。よろしくお願い申し上げます」
「あなた、私に税務署だなんてウソ言ってさ。弁護士はウソついていいの?」とハツエは激しい口調で蒲田を罵った。
「申し訳ございませんでした。スムーズに事を運ぶためには仕方がございませんでしたので」
「それで、単刀直入に聞くけど、お父さんの財産はどのくらい財団に移ったの?」とトシコ。
「全財産でございます。この家も土地も含まれます」
エッというかん高い複数の声が不協和音で部屋中に響き渡った。
「あたしたちは子供ですよ!」とハツエは顔を真赤にして叫ぶ。
「それは法律上のものですか?」と蒲田は落ち着いた口調でハツエにたずねると、一瞬沈黙に包まれる。
「確か、法律上は徳田先生に現在お子様は一人もいらっしゃいません。それどころか、財産を継承する権利をお持ちの方はだれもおられないはずです」
「そんなことはないわよ。私の血を調べれば、私がお父さんの実子であることは証明されます」とトシコ。
「それはもっと早くにされるべきでしたね。いまからそんなことを証明されて裁判で訴えたって、徳田先生は全財産を財団に寄付なさったのですから、たとえ勝訴してももらえる財産はありませんよ。しかし、こちらから逆におたずねしますが、いったいいつまでこの家におられるつもりです?」と蒲田の逆襲が始まった。
「それはどうゆうことよ!」とユカリ。
「ここにおられるなら家賃をいただきます、ということです。この家は財団が管理していますので、当然そういうことになりますね。もちろん、そのほかに光熱費、水道使用料もあります。それに、食堂は財団の食堂ですので、勝手に料理されるのも困るんです」と蒲田。
「お父さん。こんなこと言わせていいんですか。この人たちは娘を追い出そうとしているんですよ!」とハツエは叫ぶように大声を上げ、女たちは津波のごとく徳田の机に詰め寄った。
「ごめんよ。私だってこの家の所有者じゃないんだよ。それに、君たちに譲る財産はもうないんだ。それでもこの家にいたいのかい? いい若い者が、外にも出ずに家の中でブラブラしているのも不健康だし……」と徳田が目を伏せておどおどしながら言うと、とうとうトシコが切れた。
「うるせえクソジジイ! 下手に出ればつけ上がりやがって。出てってやるよ。出てきゃいいんだろ。金の切れ目が縁の切れ目だ。アバヨ!」とたんかを切って横のフレーム椅子を蹴飛ばし出ていった。思わず女たちから拍手がわき上がる。
「撤退、撤退、撤退だーい! バカバカしい。青春の貴重な時間をムダに過ごしちまった。ほなサイナラ!」と青春をとうに過ぎたハツエが言うと、女たちはチエを残して退散。チエは「お父様、最高よ」と小声で言って蒲田にウインクし、徳田の手を軽く叩いた。
「私も一応みんなと一緒に出ていきます。しばらくほとぼりが冷めるまでは帰りませんわ。この家に出入りしていることがバレたら、あの人たちになにされるか分かりませんもの。代わりに私の友達を秘書に雇ってもらいます。弁護士さん、お願いしますね」
「分かりました」と蒲田。
「しかし、いったいいつまでこの家を空けるんだい?」と徳田は寂しそうにたずねる。
「ひと月以内に帰ってきますわ。お父様が心配ですもの。それから、お父様のお手伝いをします」
「お嬢様は英語が堪能のようですから、援助対象国の視察をお願いいたします。実際に現地に出向かないと、なかなか子供たちの実態が分かりませんからね」と蒲田が言うと、「それはいい。君、旅費を支給してくれたまえ」と徳田が殿山に指示する。
「分かりました。お嬢様、計画書の提出を願います。理事長の承認を得て経費を計上したします」と殿山。
「いやいや、五百万くらいあげればいいんだ。たしか金庫にあるはずだよ」と徳田が言うと、蒲田が慌てて「いえいえ、財団ですからそれはできません。できたとたんに横領行為ではイカサマな団体だと思われてしまいますからね」と否定した。
こうして、チエもほかの女たちと一緒に徳田家を後にした。五人の女が大きなスーツケースを転がしながら、田園調布の駅までぞろぞろ歩いていく。
「おいチエ。これからあんたはどこに行くの?」とトシコがチエにたずねる。
「アパートに戻るわ。あなたは?」
「お母さんのところ以外にないでしょ」
「お母さんの家の仏壇には、あなたのお骨があったわよ」
「気色悪い。誰の骨かしら」
「警察があなただって言ったそうよ。水死体だって」
「へーえ、やっぱあんたうちに来たんだ。母さんが喋ったんだな。私が死んだと思ってシメシメとここに来た。そこでミーとバッタリ出くわしたってわけね。オイ、ほかの女たち。徳田ジイサンの子供じゃない人、手をお挙げ」
すると、トシコ以外の全員が手を挙げる。
「ヒャーッ! 世の中ペテン師ばかりだわ。驚いた。嗅覚鋭いゴキブリ連中。いや、かびたお札とジジイの枯れた臭いにゃ敏感に反応する枯葉菌か……」
「といって、こうなっちまったら公園で寝るっきゃないね」とハツエ。
「こりゃやっぱり枯葉菌だわ」とカリナ。
「いいよいいよ、みんなうちに来な。婆さん一人で大きな家に住んでんだ。二十年前に徳田からせしめたお金でさ。婆さんがイヤがったらお骨といっしょに追い出しゃいいさ。悪党が四人集りゃ、またなんか悪巧みも生まれるだろ」とトシコが太っ腹なことを言うと家なき娘たちはとたんに元気付き、過去の怨恨を忘れて互いに握手をした。
「嗚呼、悪党ども!」とチエが吐き捨てるように言ったので、女たちはゲラゲラと笑った。とりあえず寝場所が見つかったので、ヤンチャ娘たちは爾来の陽気さを取り戻していた。
八
企画からひと月後の進捗状況報告会では、チエが最初に壇上に上がり、ターゲットの資産を推定百億円と発表すると万雷の拍手がわき起こった。
「プロジェクトもほぼ終盤で、あとは、最後の仕上げのみが残されています」とチエが言うと、「それはどんなことですか?」と質問が上がる。
「仕上げは財団の理事長が替わることです」
「老人が死ぬことですか?」
「それは神のご意志によります。すでに全財産は私たちのものです。私は神の指令に従うだけですから」と言って、チエは発表を終えた。
次はユキ、トメ、メリの肉弾三人娘による「三人の主人を一度に持つと」作戦の進捗状況が発表された。これもけっこう進捗しているようで、ユキはすでに三人の老人と交際していて愛人関係を持った。あとは婚姻届を出して戸籍に入る作業ということになるが、すでに二人とは婚姻届を役場に提出している。しかしこれは重婚ではない。二人のうちの一人は妻のユキの名前がトメだと思っているし、もう一人はメリだと思っている。もうすぐ婚姻届を提出する最後の一人はユキと本当に結婚することになるわけだ。必要とされる二人の証人は、トメが入籍する場合はユキとメリがなり、メリが入籍する場合はユキとトメがなり、ユキが入籍する場合はトメとメリがなる。しかし、三人の老人はすべてユキが妻だと思っているというややっこしい三重婚であるが、さらにややこしくなっているのは、留守がちのユキの代わりにトメやメリがフィアンセの世話をしている最中に、二人とも襲われて関係を持ってしまったことである。
三人の老人はいずれも好色で選り好みもなく、枯れても男だから女とひとつ屋根の下にいればこうなるのは自然の流れかも知れなかったが、男嫌いのトメとメリは苦渋に耐え、おかげでカオスというよりは相手の弱みを握る意味では思うつぼになったと言うべきだろう。婚姻届を出した後の老人たちは、妻に浮気がバレるのを恐がって大人しくなり、御しやすくなったという。しかし三人の資産を合わせても二十億円に届かないことをユキは恥ずかしそうに発表したが誰もブーイングを発しなかったのは、あと二つのプロジェクトが暗礁に乗り上げている可能性を示していた。残りのグループはひどく大人しく、体を小さくして聞いていたからだ。
案の定、プロジェクト「世界叙勲者友好学会」グループは思うように会員が集っていないようで、由男は伏目がちに経過報告した。
「まずホームページを立ち上げ、元参議院議員の先生を初代会長に迎え、DMや電話勧誘をメインに盛んに勧誘活動を行いましたが、現在のところ会員数は四十人に満たないのが実情です。まだ立ち上げてから一カ月も経っておりませんので妥当な数だとは思いますが、来春のタヒチクルーズに向けて五百組分の船室を予約した関係上、いささか焦っております。現地では、適当な王族が見つからなかったため、男女の俳優を王族のカップルに仕立て上げ、レジョン・ド・ポレポレ勲章を授与していただきます。また、いろんな人種の俳優を雇いまして、世界中から叙勲者が集ったというような雰囲気にいたします。しかし、いかんせん参加者が集らないのが課題でして、その原因を分析いたしました」と言って、由男はホワイトボードにパワーポイントを映した。
会員が集らない理由
①病気がちの高齢者が多く、長期間の長旅が心配だ
②会費プラス参加費用が高額だ
③階級が低いので恥ずかしい
「現段階は段取りにおけるプラン、ドゥー、チェック、アクションのチェック段階でして、分析の結果、大きく三つの原因を上げることができました。この原因さえクリアできれば、会員数もどんどん増えていくと思います。それには二つの方法があります。一つは、三つの課題を一つ一つ解決すること。例えば①については宣伝ツールの記載や勧誘において、クルーズ船の医療体制および現地での医療体制がいかに充実しているものかをアピールする。船内の手術室や透析室、緊急用ヘリポートなども紹介します。これは簡単なことでしょう。しかし②については、各人の懐具合ということになりましょうが、要するに大金を払うに見合う企画かということだと思います。つまり、多少高くても参加したいという気にさせなければならないので、少し難しくなりました。③につきましては、幕下から横綱まで同舟ということですから、階級の異なる叙勲者を一堂に会することの難しさは最初から危惧しておりました。というのも、叙勲者どうしが集れば自ずと何等かという話になっちまうわけでして、ここでひがみや嫉みが発生いたします。これを解決するには、自分の階級については一切公言しないという規約をつくる以外にはございません。正直にその理由を話せば、皆さん分かっていることですからご理解いただけるでしょう」
「自慢したがりの方たちがそんなルール守るかしらね。だいいちパーティーのときに勲章を付けたがるでしょう」とチエが声を上げた。由男はチキショウという顔つきでチエを一瞥し「だから、トータルでちゃんと解決しますから」と言って画面を替えた。そこには「金」と一文字大きく書かれている。
「つまり、個別の課題を解決していくのも大事ですが、どんな課題も吹飛ばしてしまうようなニンジンが必要なのです。馬の前にぶら下げるニンジンです。それが『金』。金メダルじゃありません、カネです。人間、死ぬまで金が欲しい。特に年取れば年取るほど欲深になる。それは、金のある老人と金のない老人じゃ、家族の対応すら変わってくることを身を持って感じているからです。老人を見れば金に飢えていると思いましょう。で、この学会の目的を『叙勲年金制度の設立』に一元化します。老齢年金に加え叙勲者には叙勲年金の上乗せがあるという制度です。この立法案を会長の愛弟子の衆議院議員が提出していますという設定で、これを通すのにはあなたたちの力が必要ですとダマくらかします」
「年金問題で国中が怒ってるのに、新しい年金だなんてバカげているわ」とユキ。
「だからまあ理由を聞いてください」と声を荒らげ、由男は顔を真赤にさせる。
「年金問題も経済問題も、国民の活力の低下にあるんです。年金問題を解決するには日本の経済をなんとしても上向きにしなければならない。しかし、いまの若者は働く気力を失っているんだ。将来の希望がなければ意力も出てこない。お国のために頑張ろうなんて、誰も思っていない。しかし、会社にだって報奨制度があるでしょう。何のためにあるのか。社員を鼓舞するためにあるんです。それだったら国だってつくるべきだ。国民を鼓舞する制度とは何か。それが叙勲年金なのです。一生懸命頑張れば会社の社長になって勲章がもらえ、おまけに年金もアップする。かつての高度成長時代を復活するには叙勲年金で国民を鼓舞する以外にないと主張すれば、ようし俺も人肌脱ごうという叙勲者は多いはずです。レジョン・ド・ポレポレ勲章は叙勲年金制度の確立に寄与した会員に与える栄誉なのです」と由男は力説した。
するといままで一度も口を挟まなかったシャマンが心配そうな声で質問した。
「それは分かりましたが、参加する会員が集らなかった場合、来春のクルーズ船のキャンセル料は誰が払うのですか?」
痛いところを突かれた由男はしばらく言葉も出せなかったが、もごもごとしながら「いいえ九九パーセント、キャンセルはないものと確信しています。仮に残る一パーセントが当たった場合は、夜逃げか雲隠れ以外にはありません」とつぶやくように言った。
「安心しましたわ。神は一切あなたたちに委ねているのですから、自己完結が原則です。赤字が出た場合は、当局は一切関知いたしません」とシャマンが言ったので、会場からわらいがわき上がった。
シメは敬老温泉療法研究会グループの発表で、こちらは定員百人がすでに集り、一回目の治療試験が三日後に迫っているという段階で、順調に進んでいる。しかし、会場から由男が「一回やっていくら儲かるの?」という質問をしたので、発表者の太郎はたちまち顔を赤くさせ、額に脂汗がたれる。
「上手くいけば、百人全員が薬の一年契約を結んで六十万×百人で六千万。ほかの健康グッズも売れればプラス五百万で、合わせて六千五百万といったところです」
「しかし、百人全員が契約するはずはない」と必死になって由男が反論する。
「だから、これは長期的なプログラムなんですよ。コツさえ掴めば月に一回は治験を実施する。仮に全員が契約するとすれば、年に七億八千万円の儲けになります。十年続けば七十八億円」
「十年も続くわけないでしょ。獲らぬタヌキのなんとやらさ」と言って由男はわらった。
「沈没寸前のクルーズ旅行よりはマシでしょ」と太郎も壇上から応戦して険悪な状況になったので、シャマンが割って入った。
「みなさん。今回は初めてのことですので、神も収入だとか成功・失敗だとかは問うておりません。神が求めておられるのは神の兵士としての忠誠心と誠意です。誠意さえあれば、懸命に努力します。努力して失敗するならそれは許されます。また、儲けの額なども大した問題ではありません。大事なことは、命を賭けて頑張ることです。突き進むことです。ここで、チエさんはしばらくの間お手すきになりましたので、太郎さんのグループで一時的に働いていただきます。対等の立場で太郎さんのサポートをお願いしますね」というわけで、チエはニセ薬販売グループにレンタルされることになった。
九
当日はチャーターしたバスが二台、丸の内、新宿、三鷹に停車して、参加者を次々に乗せていった。そのまま中央高速に乗って甲府を越え長野方面に向かう。太郎とチエは二台目のバスに乗って、参加者にお茶などを配った。最初は六十五歳以上をターゲットとしていたが、人数が集らないのを心配して六十歳まで引き下げたので、高齢者に混ざって少しは若い感じの熟年もちらほら見かける。バスは長野県に入ると高速を降りて、狭い道を名も知れぬ高原に向かって登り始めた。
「これから行きます秘境の温泉は、別名養老の湯とも呼ばれていまして、当研究所が分析した結果、老化を止める成分が含まれていることが分かりました。これは世界的な発見です。その成分を一万倍に濃縮したのが、今回治療試験を行う画期的な若返り薬です」と太郎がアナウンス。
到着したのは山の上の薄汚れた湯治宿。参加者たちは驚きともため息ともつかぬウワーッという声を発したが、チエも思わず声を上げてしまった。汚らしい玄関には三人の従業員と白衣を着た男のスタッフが三人、看護師スタイルの女が五人横一列に整列して出迎える。別のチームからもかき集めたようだ。深々とお辞儀をして、まるで死者を見送るときのような恰好である。百人が入りきらぬほどのロビーなので、スタッフは次々に治験者から採血し個室に案内していく。この汚らしいロビーなら個室も推して知るべしだが、大部屋での雑魚寝がないだけでもマシかもしれなかった。採取した血液はスタッフの一人がアルコールと覚醒剤の耐性を検査することになっていた。
六十歳くらいの夫婦と女が採血の直前に「帰る」と言い出した。太郎は「契約書にサインされたのですから」と必死に説得するが、それでも帰ると言い張る。「しかし山の上は陸の孤島のようなもので、タクシーを呼んでも一万円はかかりますよ」とおどしても、三人で帰るから一台呼んでくれればいいというので、仕方なしにタクシーを一台呼んだ。三十分後にタクシーがやってくると、一人が新たに加わり、合計二百四十万の損失。太郎は連鎖反応を心配したが、腹を減らした連中は夕食を期待しているものか、それともタクシー代が払えないものか、ドミノ倒しは最初で止まった。
しかし、大部屋に並ばれた仕出し弁当を見て、再び大きなため息が上がる。宿屋の料理を期待したのにコンビニ弁当と大差のない料理を前にして、とうとう騒ぎ出した。
「おいおい、俺たち二万円も前払いしてこんな扱いを受けるとは思ってもみなかったぜ。コンビニ弁当なんか出しやがってさ。しかも禁酒ときてやがる。二万円返してけれ」と一人の高齢者が叫ぶと、「そうだそうだ!」と全員が拍手喝采。
「分かりました分かりました。全額お返しいたしましょう。明日からはお酒も付けます。そのかわりお約束ください。脱落はナシです。治験を受けてください。それが嫌なら、お返しできません」と太郎が言うと、ひとまずは騒ぎも治まった。
治験者たちが夕食を食べているうちに、スタッフが集って相談した。
「だからもっといい宿屋にしようと言ったんですよ。料理だってもう少しマシなのにすればよかった」と、恒夫が太郎を批判した。
「まあ一回目はこんなもんさ。今回は実地訓練のつもりだったんだ。いろんな改善点を出し切って、次回からはパーフェクトにもっていこう。さあ、夕食後はいよいよ治験だ。みんな、手はず通りにきっちりとやってくれ」と言っても要するに騙すだけの話だから、いかにも治験をしているような振りをするだけでよかった。
男性も女性もそれぞれ三グループに分けられて、一時間の入浴後にドブ臭い緑色の液体を飲まされた。浴場は粗末だがお湯は源泉かけ流しで湯量も多く、これだけがせめてもの救いである。最終グループが風呂から出ると、夜の十時を過ぎてしまい、就寝の時間になってしまったので、看護師たちが部屋を回りながら血圧を測って血液を採るのにおおわらわになった。そこで次の日からは入浴後に血圧も血液もどんどん前倒しに進めることにした。各人条件がバラバラになってもおかまいなし。要は、最終日にあらかじめ作っておいた若返りグラフを見せるためのフェイントに過ぎないのだ。
明くる日の朝食はバイキング方式、といってもご飯と食パンが置いてあるだけで、味噌汁、納豆、海苔、お新香、牛乳、マーガリン、ジャムといったものしかなく、おかずらしきものはまったくない。参加者はブウブウ文句を言いながらも、二万円を返してもらうために我慢をしているらしく、スタッフに食ってかかる者は一人もいない。そのあと再び三グループに分かれて入浴し、鼻を摘みながらドロドロの液体を胃袋に流し込む。この主成分が神田川から採取した藻だと言ったらドッタマゲルだろう。自由時間は旅館の周りを散歩としゃれ込んでも、スギやヒノキの森ばかりで展望台もありゃしない。浴衣と下駄で歩きまわっても、枯れても血の通った人間だと蚊やブヨが認識し、寄ってきて刺すものだから手足を掻き掻き慌てて部屋に戻るという、まさに泣きっ面にブヨ。もちろん昼食だって夕食以下の粗末な弁当で、その後はお定まりの入浴、薬と続くうちに、どうやら全員が「これは遊びじゃなく、治療なんだ」と意識転換が進んでいった。
太郎が狙っていたのは治験者たちのこの心境変化。花見遊山だと思えば文句も出るが、治療だと割り切ればある程度の苦痛も我慢ができるというわけだ。こうした心境に治験者たちを追い込んでおいて、最終的にはご褒美として好結果を発表すれば、いままでの不満も消え去って大きな満足感を抱くようになる。そこがセールスの好機で、加えて麻薬と酒でさらに気を大きくさせようという作戦である。
ところで、毎晩夕食にはカップ酒を提供するようにしたので、食費の予算がオーバーした。そこでいよいよ運命の四日目になって、太郎は朝食後に再度スタッフを招集し、今日の昼食を抜いて帳尻を合わせることを提案。
「そんなことしたら大騒ぎになりますよ」と恒夫が反対したが、「ここまで手なずければ大丈夫」と譲らない。頑固でケチな太郎に驚きながら、「自分でちゃんと納得させてくださいよ」と恒夫は両手を挙げて蜘蛛の巣だらけの天井を仰ぎ見た。
「なあチエさん、僕はすでにジジババに嫌われてるから君が説明してくれないか。こういうときは女性のほうが角が立たないし……」と太郎がチエに手を合わせる。
「昼食は出すべきだわ」とチエ。
「ごめん、昨日のうちに宿屋に断っちまった。もう、出せないんだよ」と太郎は手を合わせたままだ。このクソ野郎と思いながらも、しぶしぶとチエは引き受けた。太郎が説明するよりは自分がしたほうがマシには違いないと思えたからだ。
四日目ともなると、治験者たちも“もうウンザリ”という顔付きになって風呂にも飽き、世間話のタネも出尽くし、不味い食事だけが残された楽しみという状態で断食を宣告されるのは苛酷に違いない。初日の生気は失われ、外に出れば蚊に刺され、部屋にいれば退屈というわけで、抑留者のような陰鬱な顔して旅館内を徘徊し、昼食の一時間前になると大広間に集り、そこかしこでお茶を飲み飲み歓談しながら弁当が来るのを首を長くして待っている。そこにチエが一人で現われてマイクの前で話し始めた。
「みなさん、いよいよ今日が治療試験の最終日です」と言うと、一斉に拍手が起こる。
「みなさま本当にありがとうございました。ただいまみなさまからいただきましたデータを集計しておりますが、驚くべき成果が出ております」と言うと、さらに大きな拍手。
「そこで最終日の夕食は豪華な料理でのお別れ会となり、その場でみなさま一人ひとりの若返り度を発表します」と言うと、歓声が沸き起こった。
「それで、十二時からは最後の治験となりますが、これは空腹によるストレスが、この療法で解消されることを証明する治験となります。すなわち、みなさまに昼食を抜いていただいたあとにお風呂に入っていただき、お薬を飲んでいただき、採血いたします」と言うと、一変して場内はざわつき、「昼食ナシだなんて、そんなこと聞いてないよう」と声が上がる。
「お腹ペコペコよ!」
「空腹でお風呂に入るのは体に悪いんじゃない?」
「ご飯くらい食べさせてよ!」と方々から抗議の声が上がる。
「ご安心ください。空腹でお風呂に入っても、出たあとにお薬を飲めば安全ですし、空腹感もなくなります。また、夕食は一時間ほど早くなりますから、ひもじい思いはいたしません。夕食はパーティーですから、美味しい料理もお酒もふんだんにいただけます。少しばかりお腹をすかしていたほうが、きっと得をしますわ」と言ってもざわつきは一向に収まらなかったため、とうとう太郎がスタッフを引き連れて登場し、「さあみなさん、治験最終日は夜の風呂を午後に移動させ、午後は二回入浴していただきます。さっそく、男女一班の方々はお立ちいただき、入浴のご用意をお願いいたします」と言って男女の三分の一を追い立てるように立たせ、よろよろ立ち上がる者をスタッフが介助しながらなんとか反乱軍の分断に成功。この強引な作戦が功を奏し、これ以上騒ぎが大きくなるのは回避することができた。
治験者たちは仕方なしに空腹を我慢して二度も風呂に入り、二度も不味い薬を飲まされ採血された。チエは恒夫とともに大広間での成果発表会の準備を開始。十センチほど高くなった舞台の両袖に、家電や健康器具、夏だというのに暖房器具など、若返り薬とコミで売りつける商品を並べた。営業担当の吉原もタクシーでやってきて、商品の並べ方を指図する。仕出屋のトラックもやってきて、豪勢とは言えないが少しはマシな料理が銘銘膳に並ばれた。大広間の入り口には椅子が置かれ、血液検査で調べたデータを基に、一人ひとりに決められた量の覚醒剤を打つことになっている。また、治験結果を記載した報告書は吉原が今日東京から持ってきたもので、若返りを示す血液データや右肩急上がりの若返りグラフ、三十歳以上も若い肉体年齢などが書かれていて、治験者一人ひとりに手渡されて治験薬の絶大な効果をアピールする。
いよいよ成果発表会の開始である。さんざん血を採られている治験者たちは疑うこともなく次々と覚醒剤を打たれ、会場に入っていく。チエは注射を打つために並んでいる人々の姿を見ながら、シャワーだと騙されてガス室に入っていくユダヤ人のような哀れさを感じ、目頭が熱くなった。
「そうだヒトラーは窮地に陥ったゲルマン民族を救うためにほかの民族を排斥した。私たちも同じだ。まるでアウシュビッツの看守みたいに、汚らしいものでも見るようにこの人たちを蔑んでいる……」
突然チエの頭を、強い罪悪感が打ちのめした。チエはパニックに陥ったように、この場から駆け出したい衝動に駆られたので、震えながら必死になってシャマンの言葉を復誦した。
「しかしすべての人間をつくられた神はすべての民族を愛し、窮地に陥った人類を救うために別の課題を私たちに課したのです。神はおっしゃいました。君たちは動物に過ぎないと。地球という厳しい自然に投げ出された存在であることを自覚しなさい。動物は年老いると自らを滅ぼす。生き長らえることが仲間たちを滅ぼしかねないからだ。本能的に種を保つ能力を持っているのだ。しかし人間は文明を築いて自然の法則を崩し、異常に繁殖しすぎてしまった。人間は唯一、未来を予見する能力を持った動物なのだから、種を保つ行動を取れるはずだ。十年先のことなどはどうでもいい。二○五○年から先の未来を憂いなければいけない。そしてハルマゲドンの到来を少しでも遅らそうと、君たちは立ち上がるのだ。君たちは考えなければいけない、君たちは覚悟しなければいけない、君たちは行動しなければいけない……、嗚呼なぜこんなグロテスクなことをしているんだ!」
「あら、この子泣いているよ」と言って、老女が心配そうな顔をしてチエの顔を覗き込む。
「上司に叱られたのかい?」と後ろの老人。
「みなさんがあんまり若返ったので感激しちゃって」とチエが答えると、二人はにこやかにわらった。
先ほどまで覚醒剤を打っていたスタッフは白衣を脱ぎ、治験者一人ひとりに個人別の若返りデータを渡した後、それぞれ散らばって酌をはじめた。薬が効いてきたものか、全員の気分が高揚し、幸福そうな顔付きで陽気になり、最初から異常な盛り上がりを見せている。昼食を抜いているのに食欲がわかないらしく、やたらと立ち上がって酌をはじめるので、スタッフは途中で酌を打ち切って脇に退いた。吉原が演壇に上がり、喋りはじめる。
「みなさん、ありがとうございました。さっそく、皆さんのお手元にある試験結果をご覧ください。たった数日間の温泉療法で驚くべき効果が上がりました。みなさんの肉体年齢は、平均三十歳近くも若返ったのです。その効果をいま実感されている方は手を挙げていただけますか?」と吉原が言うと、全員が手を挙げ、会場は満場の拍手で包まれた。
「どうです、今でも疲労感、倦怠感を感じる人、手を挙げてください」と言うと、誰も手が上がらず、会場は笑いで包まれる。
「そこのお若いあなた、フルマラソンもできるような顔付きしてますよ」と吉原が八十くらいの女性を指差すと、「じゃあちょっと走ってくるわ」と言っていきなり立ち上がり飛び出していくので、スタッフが慌てて追いかけた。
「いやあ、信じられませんね。みなさんスーパー高齢者に大変身ですな。でも、外は暗くなりますからくれぐれも出ないでくださいね。クマさんに食われちゃ元も子もない。それに、これからみなさんにとってきわめて非常に大事なお話をします。みなさんが、こんなに若返られたのはなんのせいでしょうか」
「緑のお薬」と方々から声が上がった。「ご正解」と言って吉原は大きな薬瓶を持ち上げ「単に温泉に入ったって、若返りなんかしやしません。みなさんは緑のお薬がノーベル賞クラスの画期的な発見であることを、身をもって実証されたわけです。しかしまだ治験段階ですので、特許を取って売り出すまでにはあと五年要します。みなさん、五年間待てますか?」
「待てない!」と大きな声が上がる。
「しかし、抜け道はございます。緑のお薬はあくまで医薬品として開発しましたが、健康食品の名目で内緒でお分けすることは可能です。これだったら、明後日からでも飲むことができます。ご家庭のお風呂に入って、このお薬を飲めば、若返った体を死ぬまで維持できます。もちろん死ぬときは百五十歳です」
会場は拍手と笑いの渦で満たされ、踊り出す者まで続出。
「もちろん無理強いはいたしません。私たちはあくまで医薬品としての承認を受けようとしているからです。先行してお試しになりたい方がいましたら、健康食品という名目でお分けします。欲しい人は手を挙げてください」と吉原が言うと、全員が手を挙げる。
「ありがとうございます。みなさん食事の後にご契約、明後日までに入金いただければ、一週間以内にはお家に届きます。料金は振り込み前払いでお願いいたします。ただし条件として、治験薬ですので口外は厳禁です。また、ほかにもいろいろな健康グッズをご用意しておりますので、ご購入ください。個別にご説明するはずでしたが、みなさんあまりにも宴会を楽しまれているものですから無粋なことはいたしません。ご質問には個別に対応しますのでよろしくお願いいたします」と言うなり、気の早い老人が「申し込み用紙はどこだ?」と食事もそっちのけで申し込みの机にやって来たので、我も我もと列ができ始めた。
しかし、宴会場では吉原以外のスタッフがおらず、仕方なしに吉原が対応せざるを得なくなった。というのも、マラソン老女を追いかけたスタッフが捕まえそこない、手分けして探すハメになったからだ。日没にはまだ一時間ほどあったが、森の中はすでに暗くなっていた。付近には崖などの危険な場所もあるし、麻薬を打っているだけに警察沙汰になったらアウトである。ところが見つからないままにとうとう日が沈み、スタッフだけでは収拾が付かなくなったが、もちろん警察を呼ぶことはできない。太郎は行方不明の女性が一人で参加していることを知ると、スタッフを集めて全員が気がつかない振りをしようということになった。宿屋の従業員も気付いていないから、一人いなくなっても最初から一人少なかったことにすればいいじゃないか。誰かがたずねても先に帰りましたと言えばいい。崖に落ちて死んだって発見されるまでには数日かかるだろうし、運が良ければ発見されないことだってありうる。それに発見されるまでにはみんなからお金も振り込まれているだろう、ということでスタッフ全員が会場に戻って机を広げ、とにかく契約をさせてしまえばこっちのものだと「売り切れないうちに早く早く」と煽った。
ところが、さらに困難な事態が勃発した。二人ほど契約の列に加わらず、大の字に寝たままで起き上がらないどころか、高熱を発し、体が小刻みに震えている。スタッフが医者の振りをして聴診器を当て、「大したことはない。夏風邪だ。部屋に運んで寝かしましょう」と言って、男たちが手分けして二人を担ぎ上げ、部屋に運んだ。看護師たちが付き添って「これは救急車を呼んだほうが良さそうだわ」と言っても、太郎は首を縦に振らない。
「それより、君たち注射の分量を間違えたのと違うか?」
「言いがかりね。最初から経口投与にしとけばこんなことにはならなかったわ」と看護師の一人が反論する。
「仕方ないさ、静脈注射のほうが効き目がいいからな」
「あなた今日、緑のお薬にも覚醒剤を入れてたわよね」とスタッフの一人が太郎に確認した。
「ああ、効き目を確実にするためにな」と太郎。
「信じられない。〇・五グラム以上になると若者だって死んだりするのに。薬の知識がある薬剤師がさ」と看護師は呆れ顔になった。
「うるさい! 治験に危険は付きものじゃないか。いずれにしても様子を見よう。病院に連れてったらバレちまう」と手をこまねいているうちに二人とも死んでしまった。さすがに太郎も顔を青くして「今夜中に撤退だ。チエちゃんケイタイでタクシー三台呼んでくれ。四人ずつ分乗して駅に行き、東京に帰るんだ」と指示。
「健康グッズは?」。
「じゃあ君、家電の番をして警察にしょっ引かれたまえ」と太郎は声を荒らげた。
「一回目は失敗だ。二回目以降もナシだ。明日になれば俺たちはおたずね者だ。とにかく捕まらないことだ。それから覚醒剤は回収しろ。荷物はそのまま、面が割れるようなものは残すな。ニセ薬は放置しろ。覚せい剤入りは使い切った。宿屋にバレないようにしろ」ということで、スタッフ全員が宴会場に戻ると年寄りどうしがレスリングしたりボクシングしたり抱き合ったり罵りあったりと、大混乱に陥っている。チエは申し込み受付けをしている吉原に「急きょ撤退」と耳打ちし、スタッフ全員タクシーが来るまで養老の乱を見物していたが、タクシーが来ると「それではシルバー格闘技大会をお楽しみください」と締めてから分乗してずらかった。
十
東京へ向かう汽車の中でチエと太郎は同じシートに座り、太郎は悔し涙を流した。
「嗚呼、確実な効果を狙ったからニセ薬に覚醒剤をたらしたんだ。この作戦のキーポイントだったからな。バカだよ、最悪だ。最悪の結果だ!」
「シャマンにどう報告するの?」とチエ。
「電話で報告するさ。君もしばらくはシャマンと会わないほうがいい。面が割れてるからな。いずれ人相書きも出回るさ。ちきしょう、釣り上げた魚の糸が切れやがった」
「それよりも私たち、とうとう人殺しね……。明日のトップニュース」
「殺そうと思ったわけじゃない。年寄りは恐いぜ。確かに間違いだった。嗚呼バカめ! それに俺は変なアイデアを思い付いちまったんだ。年寄りを中毒にしちまえば、中途解約はないだろうってな」と言って、太郎は頭を抱えた。
「バカだわ。そんなのすぐにバレるに決まってる。これからどうするの?」
「ほとぼりが冷めるまで外には出ない。君もそうしたほうがいい。あんなボロ宿屋でも監視カメラくらいはあるだろう。きっと俺たちバッチリ映っているぜ」
「あんな山奥にカメラなんてないわよ。外に出ないなんて私はいやよ。シャマンに相談するわ。あなたも相談しなさいよ。しばらく海外に逃れるって手もある」
「さしあたって、君のアパートに転がり込んでもいいかな?」
「冗談。どんな理由で?」
「本部ビルの目と鼻の先に住んでるし、出入りしていたのがバレたらシャマンにも危害が及ぶ」
「そんな近くに住んでいるのがおかしいわ。あんたもシャマンのストーカー?」
「君はどうなんだ? シャマンに憬れているだろう?」
「シャマンのような偉大な存在になりたいわ」
「みんなシャマンの虜なのさ。シャマンは魔女か妖怪だ。俺たちの心を奪って獣にしちまう」
「まるで泉鏡花の世界ね」と言って、チエはわらった。
「わらいごとじゃない。俺たちなにやってんだ。頭を冷やせよ。人里離れた山奥で年寄りどもを踊らせてさ。狂気の沙汰でないとすればブラックユーモアか? 気が付いてみたら、一緒になって俺たちも踊らされていたんだ」
「誰に?」
「シャマンさ」
「言いがかり。こんなザルプランを思い付いたのはあなたでしょ!」と言って、チエは太郎の頬を思い切りつねった。
その晩太郎はチエのアパートに転がり込み、二人は関係を持った。チエにはまったく気がなかったのに、成り行きでそうなってしまった。太郎は持っていた覚醒剤の結晶を少しばかり、チエのソフトドリンクに入れたのだ。明くる朝になって、狭いベッドの横に好きでもない男が全身汗まみれの裸で寝ているのを見てひどい嫌悪感に襲われ、シャワーを浴びた。クラッシュによる脱力感の中で、妊娠したのではないかという恐怖も襲ってきた。
チエはいびきをかいている太郎にタオルを投げかけ、その上から爪を立てて揺さぶった。太郎は目を覚まし、寝ぼけまなこでチエのつり上がった目を見て、自虐体に苦笑いした。
「あなた、私にスピード飲ましたでしょう」
「さあ、記憶にございません……」
「出ていって。早く出てってよ!」
太郎は黙ったまま起き上がり、性器を隠そうともせずにテレビのスイッチを入れた。ニュースが太郎たちの引き起こした事件を報道しているのを見て、太郎はヒューと口笛を吹いた。マラソン老女は崖下で死んでいた。合計三人が死に、ケンカでも五人がケガをした。全員が覚醒剤を打たれていることが発覚し、インタビューされた老人は「昔ポン中だったから気が付いていたよ」と答えていた。宿屋に防犯カメラは無かったが駅にはあったらしく、太郎を含めて三人の容疑者の姿が映し出された。チエはサングラスとマスクをかけていたので映っていてもまだ安心だ。
「万事休すだ。俺はここから出ないよ」と太郎は言って、裸のままキッチンに水を飲みに行った。
「お願いだから出ていって!」
太郎はチエの言葉を無視し、ソファーに座ってテレビを見ながら、「もう俺は降りるよ。このまま脱会だ。シャマンは正常じゃない。あいつはやっぱ魔女さ」と言った。
「シャマンを悪く言うなんて、許せないわ!」とチエは震え声で太郎を罵る。
「まあ聞けよ。君はこのままだと、また殺人を犯す。捕まったら死刑だ」
「死刑なんて恐くないわよ」
「どうだい、二人で脱会して自首するんだ。君は大した罪にならない。しかし、あと一人殺せば死刑さ」
「あなた、何でシャマンの会に入ったの?」とチエは信じられないといった顔付きでたずねた。すると太郎は薄わらいを浮かべながら「君はシャマンの手管を知らないようだね。本部の地下になにがあるか知ってるかい?」と逆にたずね返した。
「知らないわ。何があるのよ」
「まあいい。君には関係のない場所だ。それより、もう殺人はナシさ。君は洗脳されているんだ。殺される人間をかわいそうだとは思わないのかい?」
「おわらいだわ。あなたはいまのいままで何していたの?」
「俺の計画には人殺しはなかった。あれは単なる事故だ。しかし、君のは計画的殺人だ」
「だから何よ。みんなで長い間討論したじゃないの。『殺人有利』っていう結果が出たのよ」
「ディベートかよ。ハーバード出の頭のいい連中がディベートしたって解答なんか出ないで終わるだけさ。しょせんは猿の考えることだもの。しかもその猿は九億もいて、勝手に妄想し勝手に蠢いているんだ。まとまるわけがない。いいかい、俺たちにもアウシュビッツの看守にも原爆を落としたアメリカにも正当な理由はあるんだ。でも、正当な理由ってのは、場所が変われば不正当な理由になるのさ。けれど真実が一つだけある。人が殺されることだ。ただそれは現象以外のなにものでもない。しかし、人間という猿には理由が必要なのさ。理由がないと不安になる動物だもの。で、勝手な理由を捏造するのも猿どもの特技だ。けどよ、理由なんか単なる自己満足に過ぎないのさ」
「あなたのように考えると世の中は何も進展しない。なら私は行動を優先させるわ。それから理由を考えましょう」
「まあいい、勝手にしろよ。俺は降りた。君は信仰のために人を殺す。いいだろう。ならば自爆テロだな。自己責任だ。君も一緒に死ねよ。少しは社会も許してくれるだろう。君は神の軍団の一兵卒なんだからな。英雄になる早道は突撃して玉砕することさ」と言って、太郎は下卑た微笑を浮かべた。
チエは虚しさと空腹感でガタガタと震え、胃液と一緒に絶えがたい恐怖がこみ上げてくるのを感じ、吐き気を催してトイレに駆け込んだ。嘔吐の痙攣が何度も襲ってきたが、胃液一滴すら出てこなかった。
「嗚呼汚らしい、みんな吸収しちまう鈍感な体。あいつの精液もとっくに血になっちまった」と自分の体に向かって呪いの言葉を発した。身も心も神に捧げた体を所有した気になっている下衆な男から、一秒でも早く逃れたい気持ちになった。
「あなたが出て行かないなら私が出て行くわ」と言ってチエはバスローブから外出着に着替え、さっさと部屋を後にした。
ところがアパートを出たとたんシャマンからメールがあり、なるべく早くに顔を出すようにとの指示だった。チエは渡りに船とばかりにさっそく本部に向かった。シャマンはチエに会うなり、「失敗しましたね。みなさんどこに行かれましたか?」とたずねた。
「分散して逃げました。太郎さんは家が本部に近いということで、私の家に潜んでいます。自首すると言っていましたわ」とチエ。
「それは危険ね。仲間を向かわせて説得させますわ。全員、ほとぼりが冷めるまで国外へ出てもらいます。あなたはとんだとばっちりを受けましたね。私にも責任がございます」
「とんでもございません。でも夜中、太郎さんにレイプされました。知らぬ間に覚醒剤を飲まされたんです。きっと鬱憤晴らしです」と言って、チエはポロポロと涙を落とした。シャマンはチエを抱いて「かわいそうに……」とつぶやき、そのままチエが落ち着くのを待った。チエは畏れ多い気がして、少しばかり離れてシャマンの顔を見ると、シャマンも涙を流している。
「神の試練は、いつもこのように苛酷なものです」と言って、シャマンはチエをソファーに座らせ、自分も横に腰掛けてチエの背中に手を回した。
「目的が達成されるまでに数多くの試練が襲ってきます。そしてそれらを乗り越えて頂点に立つと、また次の目的が遠くに見えてくる。人間、歩みを止めるときは死ぬときです。辛ければお泣きなさい。でも、涙はすぐに枯れてしまう。枯れてしまえばもうそれは過去のこと。過去は忘れて、再び走り出さなくてはいけません。私たちには目的があるのですから……」
「分かりました。あの人も失敗してやけになっていたんです。許しますわ」
「いいえ、卑劣な行為を許してはいけません。私たちの神は、右の頬を打たれれば左の頬も差し出せとは言いませんわ。許すことは運命を受け入れることを意味します。苛酷な運命に対しては戦うべきです。受身のベクトルは負のエネルギー、滅亡のエネルギーです。許さずに横に置き、しばらくは放置しなさい。軽蔑し、侮蔑し、横をすり抜けるのです。あなたの任務は一つです。高い目的に向かってエネルギーを集中させ、爆発すること。もしそれが滅亡を導いても、激しく散ることに意義があるのです」
「分かりました。シャマンの教えに従います」とチエが言うと、シャマンはベネチアレースのハンカチを出してチエの涙を拭い、その濡れたハンカチで自分の涙を拭った。
「さて、神からの指令が下りました」
「といいますと……」とチエは不安そうにたずねる。
「画竜天晴のお仕事です」
チエの顔から血の気が失せ、体を震わせたのに気付いて、シャマンは「これもまた、乗り越えなければいけない試練ですわ」と付け加えた。
「こんなに早くご命令が下るとは思っていませんでした」
「早々の失敗によって、神はほかのプランがドミノ倒しになることを怖れておいでです。あなたのすばらしいプランまで失敗に終わらせてはなりません。神も私も、あなたに期待しているのです。時間がありません。できるだけ早く。少なくとも明日までにケリを付けてください」と言って、ハンドバッグから小さな薬瓶を出し、チエの手に握らせた。
「イズー姫の母がつくったと言われる、アイルランドに伝わる毒薬です。これをスポイトに一滴とり、飲み物に入れるのです。一滴で十分ですわ。心臓を麻痺させ、解剖しても分かりません。ご老人ですから、虚血性心不全という診断になります」
「ありがとうございます」とチエはシャマンに礼を言った。
「あなたのミッションが成功すれば、あなたは神の軍団、地球師団の英雄になれるのです。あとひとふん張りね。仕事が終わったら、しばらくアメリカに行っていただきます。さらに英語を勉強するのです。あなたは幹部候補生なのですから」
「ありがとうございます」
「それでは、勝利のために禊ぎの儀式を行いましょう」と言って、シャマンはチエを地下に設えられた禊ぎの間に連れて行った。太郎が言ったのはこの施設に違いない、とチエは思った。床も壁もカッラーラーの白大理石でできたアトリウム風になっていて、イオニア式の円柱で円形に囲まれ、入り口には「神のみぞ勝利者なり」と銘が刻まれている。円柱の内部は三十平米ほどの浴場で中央に大理石の丸い浴槽が掘られ、なみなみと湯がたたえられている。天井はドーム状のプラネタリウムになっていて、いまは夕焼け空に一点明星が輝き、列柱も湯もシャマンのギリシア風衣装まで金色に染まっていた。
「さあお脱ぎなさい、裸になるのです。清めてさし上げましょう」と言って、シャマンは衣装を留めていた肩のピンを外した。まとわり付いていた白蛇が気絶したかのように、肩から足首にかけてスルスルスルと衣装がはだけて金色の裸体があらわになった。チエはその美しさに思わずアッと声を出し、これは黄金製の女神像だと思った。あまりにも神々しい女体の前で貧弱な裸をさらけ出す恥ずかしさがあったが、「さあ」というシャマンの誘いを拒否する勇気もなく、シャマンは神の使いなのだから比較する存在ですらないことを自覚すると、少年のような中性的な体を見せる勇気も出てきた。湯気の向こうからは、きっと姉と弟が手を取り合っているかのように見えるだろう。二人は湯に沈んだ薄広の石段を降り、胸まで浸かって顔を見合わせると同時に微笑んだ。しかし、シャマンの口から出た言葉は意外なものだった。
「あなたは太郎チームの失敗の一部始終を見ていました。そのとき、あなたの魂はどこにいましたか?」
チエにはシャマンの質問が分からず、「おっしゃる意味が分かりません」と素直に答える以外なかった。
「あなたは当事者だったのに魂は傍観者だったのです。魂は否定したい現実を前にすると、いつも体から抜け出して傍観するのです。人が溺れ死のうとするときにも、魂はアメンボウのように水の上にしゃがみ込んで、自分の体が沈んでいくのを見つめているのです。私の言うことが分かりますか?」とシャマンは言って、湯気の向こうでキラリと瞳を光らせた。
「なんとなく分かります」
「はっきりと分からなければいけませんわ。失敗や悲劇を強引に引いていくのは運命で、その力に抵抗できないことを悟ると当人すら傍観者になるのです。そのあとには死か脱落のみ。けれどあなたは、最初から傍観者然としていました。太郎チームの課題は、事前に失敗事例のシミュレーションをしなかったことです。NASAが打ち上げるミッションでは、それは許されません。あなたは外部の目で、計画を検証しましたか?」
「いいえ、しませんでした……」
「会社で言えば、あなたは外部取締役の役割を担っていたのです。彼らは自分たちの計画に有頂天でした。成功を信じ、失敗の可能性を考えませんでした。それを冷静な視点で検証して不備を指摘するのは外部取締役の役目です。私は単なるお手伝い、傍観者をあなたに期待していたわけではありません。でも、幹部候補生だと思って何も言いませんでした。そこは私の失敗です」
「申し訳ございませんでした。まったく気が付きませんでした……」とチエはつぶやくように言って目頭を熱くさせ、両手で顔を抑えた。
「神は私たちに命がけの仕事を期待しているのですよ。でも、一か八かの賭けではありません。魂のこもった丁寧な仕事です。昨日のことを思い出してください。死者が出ても、病院に連れて行くとかウソを言って山林に埋める手はありました。いきなり逃走というのは、死者が出た場合のシミュレーションを怠ったために対応が分からず、焦りが出た結果です。途中で放棄せず、最後の最後まで諦めなければ小惑星探査機だって地球に戻って来られるのです。三日間バレなければ入金もされていたでしょう。神は失望されていましたよ」
チエは溜まりかけていた涙腺を再び絞り切るまで大泣きした。まるで子供のようにしゃくり上げるチエを、シャマンのふくよかな胸が抱きしめた。
「さあ、これで後悔の涙は忘却の泉に流れ去りました。あなたの禊ぎはこれで終了です。神は二度の失敗を望まれません。私もあなたが成長したことを信じています。さあ、今日中に決行しなさい。吉報をお待ちします。その前に、清められたあなたの体に神が降臨され、勇気を授かります」
シャマンはチエの額に接吻した。柔らかい唇の感触がチエの神経を痺れさせ全身に広がっていった。その唇は滑るように鼻に降りていき、チエの唇と重なった。チエはシャマンに抱きかかえられるようにして、奥の小部屋へと向かった。そこは妙なる香りが満ち、丸い部屋全体が巨大な純白のクッションで満たされていた。チエはシャマンに手を引かれて中心に来ると、シャマンとともに横になって合体し、降臨の瞬間に向けて鋭利で刺激的な感覚を高めていった。
チエは午後になって徳田財団に戻った。まずは一階の事務所に行き、そこに居た蒲田に耳打ちした。
「今日中に決行します」
蒲田は、「グッドラック」と言ってウィンクをし、手を差し伸べた。チエは鎌田と握手をし、次に殿山とも握手を交わした。それからエレベータで五階に向かった。徳田の執務室に入ると徳田は立ち上がり、頭蓋骨にへばり付いている面の皮を皺くちゃにさせて満面の笑みを浮かべた。たった十日間空けただけなのに、一年も会っていなかったような喜びようだ。
「それで、援助する子供たちの国は見つかったかい?」
「お父様、調査にはあと少しかかりますわ。北アフリカに行ったんですけれど、民主化暴動が起こりまして、危険なので一旦帰国しました。でも、アフリカの情勢は分かりましたから、今度は南米の調査に入ります」とチエ。
「そうかい、着々と進んでいるんだな。安心したよ。現地に学校を建てるんだ。それにこっちにも建てて子供たちを留学させ、日本の製菓技術を教えるんだ。寮もつくろう。蒲田君にそこらへんは任せている。君は世界中で最もかわいそうな子供たちを捜すんだ。食う物も無く、病気になっても呪術師しかいない国の子供たちだ。僕はそれほど長くない。けれど子供たちの笑顔を見ないでは死に切れないのさ。君は僕の手足になって捜すんだ。僕たちの援助を最も必要としている子供たちを捜すんだ」
徳田はそう言うと、やせ細った両手でチエの手を握った。すでに泣き過ぎて腫れていたチエの目から大粒の涙が止めどなく流れ出た。“ごめんなさい。神様はお父様とは反対の意見をお持ちなのです”とチエは心の中で叫んだ。“日本もどんどん貧しくなっているのよ。私たちだって生きていけなくなるのよ。みんながみんなハッピーになる世界なんて、もうありえないのよ!”
チエは徳田をソファーに座らせると、「いまお茶を入れますからね」と言って、部屋の一隅にある小さな流し台に向かった。丸盆の上の急須に茶を入れ、電気ポットの湯を注ぎ、毒薬を多めにたらした。茶たくを二つ急須の横に置いて湯飲みを乗せる。ふと、こんな日常的な仕草はいつからやっているんだろうと思ったとたん、幼い時のままごとがセピア色で浮かんできた。
“まるで子供の遊びだわ。悪夢の中で遊ばれているようだ……”
徳田はゴクリとお茶を飲み、「ほろ苦いね」と言った。「人生の味ですね」とチエは笑いながら答え、一気に飲み込んだ。 〔了〕