96聖羅ルート ゴールライン越しのキス
夏休み明けの始業式は午前中に終わり、勘違いしていたが今日の授業はなかったみたいだ。長い時を過ごしたせいでいろいろと記憶が混ざってしまっていた。……そうだ、始業式から授業が始まるのは俺たちが三年生になってからだった。
唯人たちとは久しぶりと挨拶を交わしたが、心春はどこか元気がなかった。聖羅たちにはいつも通りに明るく元気な女の子を演じているが、俺から見れば間違いなく空元気だ。
予定していた時間よりも早く家に帰ってきた俺たちは何も言わず俺の部屋に集まる。床に座って俺は頭をぼりぼりと掻いた。何を話せばいいか迷っていたのだ。
「心春、……何がしたい? 今なら何でも言うことを聞いてやるぞ」
「……抱っこして頭撫でて?」
分かったと頷いた俺は心春を抱き寄せ、膝に乗せて身体を密着させる。恥じらいなんてない。ゆっくりと心春の頭を撫でる。
心春は俺の首筋に甘えるように犬歯を突き立てる。いつもは寝ぼけているときにしかしない甘噛みを、今は感情に任せてゆっくりと俺の首筋を噛んでいた。
昔に食べていたガムはもうないから、代わりに俺を噛む。でも今の心春は昔と違ってわんわん泣き喚くようなことはなかった。
「心春は成長したんだな」
「今泣いたら時間がもったいないだけ、泣いている暇があったら、一颯くんの匂いと味を覚えておきたいの」
「今日も明日も、俺はいるぞ? 匂いを嗅ぐくらいいつでもいいぞ」
「違うよ、……私のことをちゃんと正面から見てくれたのは今の一颯くんだから、今の一颯くんがいなくなったら、また私のことを見てくれるのは隣からになっちゃう。抱き着くにも、気持ちを伝えるにも、やっぱり一颯くんを正面に見ないとできないから」
俺たちの関係について相談できる人はいない。強いて言えば、両親だろうか? 両親も子どもの頃からの長い付き合いだったって聞いたことがあるけど、……やっぱり親に相談するのは恥ずかしい。
再び心春は俺の首筋に牙を立てる。わんわん泣いていたあの頃とは違って己の意思で気持ちを操作している。
昔の心春は泣き虫で、膝を少し擦り剥けばわんわん喚き、俺に置いて行かれれば泣きじゃくってご近所さんが心春を俺の元へ連れてくる。
大抵は俺が心春を抱きしめてあげると落ち着いてくれるのだが、俺が心春と喧嘩して泣かしてしまうと抱き着くなんてできなかった。だからおばさんが心春の口にガムをしょっちゅう投げ込んでいたわけだが、心春は醜く泣くのを、とあるきっかけを境にやめた。
だから俺は心春を大切にする。滅多にしてこないお願いを俺は聞き入れる。
こうして抱き着いているから心春の顔は見えないが、俺の首筋に流れる熱い水は、心春がここまで我慢した証だ。だからこんなにも沸騰したみたいに熱いんだ。
心春も花恋さんも、泣き方がそっくりだ。決して声には出さず、静かに、俺には気付かれまいと身体の震えも最小限に抑えている。感情が高ぶっているのか胸から伝わってくる心春の心拍はとてつもなく速い。
そういえば、こんな気持ちの落ち着かせ方があったな……。
「心春、俺の目を見ていてくれ」
「え……?」
抱き着いたまま俺は心春と間近で視線を合わせた。ほとんど額がくっ付きそうなくらい近くて、下手したら俺の方が心拍を早くしてしまうかもしれない。
でも心春は驚いた表情を見せながらも徐々に落ち着いてきたみたいで、バクバクと伝わってきた心拍はトクンと小さな囁きへと落ち着いていた。
「心春、……笑おう!」
最後に俺が苦手な笑顔で二カっとは破顔してみると、それを間近で見た心春が、ぷっ! と噴き出した。
「下手くそ、だよ。笑顔って言うのはこうやるの!」
破顔一笑、目元を赤く腫らしながらも、心春の作る笑顔は淀んだ空間に晴れ間を生み出す。太陽が顔を出して祝福してくれるような、神々しさも兼ね揃えた完璧な笑顔。
「一颯くんはもう少しにやけようよ、口の端が下を向いている笑顔なんて聞いたことがないよ」
「そ、そうなのか? 俺の笑顔は下向きなのか、……これでどうだ!」
「ははは! それじゃあ、まるでピエロだよ、ほら、こうやって……」
心春に俺の顔を弄られて、少し苦しいがまあ見られるくらいには笑顔の形ができたらしい。
こんなことをせずとも、自然にできる笑顔が一番楽しそうに見えるから、あまり気にしなくてもいいと心春は教えてくれた。
「一颯くん、実はね、この場には部長も呼んでいたんだ」
「そうなのか? でも来ていないということは……」
「うん、私が一颯くんを独占できるように辞退してくれたんだ。……これが正妻の余裕ってやつなのかな?」
「うん? 俺は結婚したわけじゃないんだけど、それに花恋さんはそこまで嫌味たっぷりな人じゃないよ」
陽菜ルートの心春が言うには少々黒いところを見せてきた的なことを聞いた気もするが、……さすがに気のせいだろう。花恋さんの演技においては誰もが騙されてしまうから、俺の見ている花恋さんが全てではないと思っている。もっと奥底に何かあるのかなと思いつつ、俺には全部見せてくれているのかなと、勝手に嬉しく思っていたりする。
「ねえ、……私が一颯くんとキスがしたいって言ったら、してくれる?」
「……三秒までだったら問題ない」
「ふーん……そっか、部長とは三秒間だったんだ、意外だな」
いろんな角度から俺のことを観察してきて、訝し気な目で何かに警戒している。
「な、何のことか分からないが、俺が許せるのはそれまで。それでいいなら心春の好きにしていいぞ」
「それじゃあ……!」
俺は心春に押し倒されて床に後頭部を打ち付ける。痛いようでそこまでではないカーペットの柔らかさになんとなくの感謝をすると、心春が顔を一気に近づけてきた。
そのまま俺と心春は唇が重なり、目を瞑って感触を味わう。
一、……二、……脳内で勝手に流れるカウントダウンは気にしたくなくとも意識に留まってしまう。
花恋さんとは感触が全然違うな、唇の厚みが少し違うだけで気持ちよさも別のものへと変化するのか……とか、たらしの入り口に立って扉を開けそうになった瞬間、心春はきっかり二秒で唇を離した。
「部長には負けているのに同じ時間じゃ、厚かましい女の子だもん。でも一颯くんの好きな態勢は把握しているから、それだけ濃いのが出来たね?」
意図的にそういう言葉を選んでいるのか、艶めかしく微笑んだ心春は、俺の腹に座ったまま自身の唇にゆっくりと触れた。
「心春はいつからそういうキャラになった?」
「だって、一颯くんと唯人くんの周りにいる女の子ってキャラが被っているんだもん。私だって一年生のサラちゃんと雰囲気が似ているし、陽菜ちゃんと小鳥遊先輩も聞く限りは大人しいことでそっくりだもん。聖羅ちゃんと部長だけじゃない? 唯一の個性を持っているのって」
言われてみればそうかもしれない。ギャルゲーに登場するキャラクターにしては個性が物足りない気はする。
「たしかに、……ツンデレとか、母性を持ったお姉さんキャラとか、唯人に妹はいないし、最近はヤンデレとかもあるとか聞いたけど、代表的な個性は大体がないかもね、聖羅のギャルくらい?」
「あとはサラちゃんのお姫様キャラかな? 部長のお嬢様口調と陽菜ちゃんの無口もそうかもだけど、……それだけだね。私が妹属性? でもなんかちょっと違う気がするんだよね」
まあそれも仕方ないところはあると思う。俺も心春もこの世に生を受けるまではあの神に操作されていたみたいだけど、それ以降は完全に任せたって感じだったから、他のヒロインが特別な個性を持っていなくても普通なんだ。
そう考えると、唯人って外れを引いたのか、大好きだった柔道を捨てるほどの過去を持つ唯人って主人公向きだったんだな。主人公向けならあたりか? よく分からない。
俺たちの高校に転校するよう仕向けたのかもしれないが、もしかして主人公ってこういう不幸な過去を持つ人から選ばれた?
「なあ、心春、聖羅か月宮さんの二人に何か不幸な過去があったとか聞いたことないか?」
未だに腹の上に跨る心春に尋ねると、どいてくれるどころか倒れ込んできて耳元で囁くように答えてくれる。
心春はすごく軽いから乗られていても苦にはならない。
「特に聞いたことはないよ。聖羅ちゃんは昔から料理が好きで研究しているし、陽菜ちゃんは陸上部で頑張っていたくらいしか聞いたことがないから、苦労した話は知らないよ」
過去に不幸な目に遭ったのを明かすイベントは、……もしかして唯人だけ? そんなゲームで大丈夫か? これから面白くなるの?
「そういうゲームもあるから大丈夫だよ。主人公の不幸をヒロインと一緒に乗り越える。そんなゲームがあったっていいじゃん。私たちだって似たような境遇だし」
「まあな、俺たちの境遇をあの神が操作していないというのは、なんとも言えない気持ちなんだよな」
「そうだね……、操られていたらと思うと、……どっちが良かったんだろうね」
「わかんね、なんにせよ、今がすべてさ」
しんみりとした空気になってしまった。俺は心春と一つ屋根の下で暮らすことになって何も不満はない。だからそれを伝えようとしたが、それはお互いに“あまりよくないこと”だから、俺は無理やり起き上がった。
心春を腹から下ろしてパソコンの前に座る。ゲーム機を起動してコントローラーを一つ心春に渡した。
「そういえば、俺の言うことを何でも聞いてくれる権利を行使するのを忘れていたよ」
「そ、そんなものがあったね、……一颯くんは何を私にさせるのかな?」
覚悟を決めたような真剣な眼差しで俺のことを見てくるが、別に変なことをさせようとは思わない。ただ――。
「最後まで俺と“普通”に過ごしてくれないか?」
過去に何があろうと関係ない。俺にとってこれが今の日常なんだ。もう特別なことはいらないから、最後に気持ちを整理するためにもゲームというのはこれとない適切な存在だ。
どんなジャンルのゲームかはあまり関係がない。強いて言えば心春と一緒に出来るゲームが好ましい。
二人で遊べるゲーム……、結局、いつものレースゲームで遊ぶこととなった。
「一颯くん、上手いね、ひょっとして練習していたのかな?」
「練習する時間だけはいくらでもあったからね。かれこれ四年分くらいかな? 心春より長くやってるよ」
「でも私が勝ったよ?」
「い、今のはたまたまだ、運が悪かっただけ。次は俺の得意なコースだ、負けるはずがない」
次も最後に心春が俺を追い抜いて一位でゴール。……無言が続いた。
「ふふ……」
心春が笑った。たおやかに笑って、俺の肩に頭を乗せてくる。それでいて、今度は盛大に笑った。
「ははははは! 一颯くん、自信満々に言っておいて最後のあれはないよ!」
「ちょっと油断しただけだ! 別に負けてない! もう一回だ!」
以心伝心っていうのかな……、俺の心を心春は読んでくれる。逆に俺も心春の気持ちを理解している。
俺の脳内ではカウントダウンがわずかな残り時間を正確に減らしていく。
小春だって、最後はちゃんとしたお別れをしたいはずなのに、俺のわがままに付き合って何も聞いてこない。俺に未練が残らないよう元気に笑ってくれて、このまま、俺はこの心春とお別れをすることになる。普通であることを望んだ俺のために、心春は自分の気持ちを犠牲にしてくれた。
――残り一分を切った。
画面にはゴールまでわずかの俺の操作する車体が、心春の車体と最後の直線でしのぎを削っている。
残りの直線となれば、あとは車体の性能と加速力で勝負はついた。
「心春、……いままでありがとう。これからも俺のことを頼んだぞ」
「うん、……任せて! 一颯くんは諦めないで最後まで頑張ってね! 届かないけど、応援しるから!」
「心春の応援は必ず届く、だから俺は頑張れるよ。……じゃあな」
「うん、……ばいばい」
リザルト画面には、ゴールした俺の車体と、ゴール直前で停止した心春の車体。俺がわずかに負けていたはずなのに、ゴールしたのは俺だった。
これから先、俺は心春を連れて行けないのだな。ゴールという境目のように、次のステージへは俺だけが向かう。置いていく心春の分も俺が頑張らなくちゃな。
――残り三秒、……二、……一。
「……え?」
俺の右頬に柔らかくて暖かい感触。それがここにいる心春からの最後のキスだと気づいたと同時に、俺の意識は闇の中へと吸い込まれていった。
次回エピローグです




