7リスタート地点
黒板を駆ける白いチョークがカッカッと乾いた音を教室に響かせる。
真正面に見えた黒板の端に書かれた日付は六月二十五日。何が起こったのか分からず隣の席の唯人に尋ねようと首を勢いよく横に向けると……。
「いない? そもそも席が、ない、だと……?」
「霜月君、どうかしたかね?」
現国のおじいちゃんこと田中先生が俺の独り言を聞き取って声をかけてきた。
「ああ……いえ、なんか隣の席に誰かいるような気がしまして」
「ほっほっほ、幽霊でも化けて出たかね? 寝るのはよいが寝ぼけるのはいかんよ、ワシみたいに老いぼれになりようたら人生苦労ばかりよ」
「へ? あ、あははは……気を付けます」
授業は終盤、先生が次回までの課題を黒板に書ききったところでチャイムが鳴った。だけど、そんなことも気にする余裕もなく、自分のノートと黒板の文字を見比べる。
「やべ、何も書いてねぇ」
そういう訳で、何か聞きたげな聖羅からノートを借りて見比べてみると違和感の塊が襲ってきた。
今日の授業に関わらず前の部分もノートを捲って確認する。……間違いない。
ノートを手に持ったまま教室を飛び出してクラスを確認すると、そこには「2−1」と表示されていた。
「霜月、どうした、ホームルームだぞ。そうだ、暇ならこの机をお前の隣にセットしておいてくれ」
「加賀美先生、明日って転校生が来たりします?」
「どっから情報が漏れた? あんまり職員室の情報を嗅ぎまわるなよ」
どうせすぐに出す情報だから、と目を瞑ってくれたが……やっぱり、……やっぱり間違いない。
唯人が転校してくる前日に時間が戻ってる……なんで? なんでなんでなんで!? 俺はこの高校を卒業したはずだ。大学への進学も決まっていて、四人でまた遊ぼうって約束して、俺は夕方の中庭で心春に――。
「――痛った!?」
突然の頭痛に視界が歪み、その場に蹲る。片頭痛とかどこかにぶつけたとかじゃない、脳内をいじくりまわされているような、爆発寸前の爆弾を強引に抑え込もうとしているような感覚。
唯人の席を手すり替わりに立ち上がろうとするが足に力が入らず転げてしまう。
イモムシのようにリノリウムの床を這う。痛くて痛くて、額を床に強く打ち付けて正気を保って、椅子の足を強く握って歯を食いしばった。だけど俺の脳は信じられない現実を拒否しようと熱を発しているみたいだった。
――やっと痛みが収まった時、教室の後ろの扉が開いて聖羅が顔を覗かせた。
「一颯、先生が遅いから呼んでこい……て、どうしたの!? どこかぶつけた? ……額が割れて真っ赤じゃん、ちょっ、先生! 一颯が重症です!」
聖羅が口にしている言葉を何一つ聞いていなかった。そんなことよりも俺はあまりの気持ち悪さにその場から飛び出した。
「一颯! どこいくの!」
「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い――!」
世界の見え方が変わった。
いままで当たり前だと思っていたことが当たり前じゃなくて、俺の見ている景色が全て偽物にしか見えなくなった。
そして何より……
「俺はなんで作りものなんだ!? 俺は何者なんだよ!?」
平衡感覚なんてあったものじゃない。全身を壁に打ち付けながら廊下を駆け、目が回ってフラフラとした千鳥足のままトイレに駆け込んで個室の便器に気持ち悪さのすべてをぶちまけた。
昼に食べたものをすべて吐き出して、残ったわずかな胃液すらも口の端からだらだらと垂れ出して、ガンガン痛む頭を抱えて自分の吐瀉物を見つめる。
「これすらも、偽物なのか?」
消化しきれていない昼食の残骸を目の前にして俺の脳は理解しようとすることを拒否している。これで今見えている景色が元通りになってくれるのならよかったのだが、どうやら現実は俺を苦しめたいようでもう一度吐き気を催した。
……もう吐ける胃液もない。鼻からも逆流して顔中ぐちゃぐちゃの状態の俺はトイレットペーパーに手を伸ばす。
「なんでないんだよ……」
伸ばした手が虚しくもトイレットペーパーの芯をからからと回し、腕を力なく床に落とした。
どうしようもなくなって、力も入らなくて、だいぶ頭痛も和らいできたからこのまま横になろうかと思った時、半開きだった個室の扉がバンッと勢いよく開かれた。
「一颯くん! 大丈夫!?」
「……心春、ここ、男子トイレだぞ」
「そんなのどうでもいいよ! 教室に聖羅ちゃんが駆け込んできて、一颯くんの様子がおかしいままトイレに駆け込んだって聞いて嫌な予感がしたの。聖羅ちゃんが保健室の鍵を開けてくれているから、すぐに保健室に連れて行ってあげるからね」
「ああ……」
心春もこの個室にトイレットペーパーがないことに気づいて隣の個室からロールのまま持ってくる。
吐瀉による喉奥のひりひりした痛みに紛れて忘れていたが、俺の顔面は額を打ったことにより血まみれらしい、どこが傷口なのかも分かりづらい状態なのだそうだ。
何度も丁寧に顔を拭かれ、吐瀉と血で汚らしく真っ赤に染まったトイレットぺーパーを便器に流せば気持ちも落ち着いてきた。
心春の肩を借りて保健室へ向かう。周りの生徒にも心配されながらゆっくりと階段を下り、一階昇降口横にある保健室の扉を押し開けると、ツンとくる薬の匂いが鼻についた。
「どうしてこういうときに限って保健の先生っていないんだろうね」
「しょうがない、今日は出張だったろ」
心春が保健委員でよかった。先生がいない時のマニュアルを覚えているようで俺をベッドに寝かせてくれる。
消毒液、絆創膏、包帯、他には俺の知らない医療品を持ってきてはじっとしている俺に施術してくれた。
「母さんには連絡したけど、母さんて運転免許持ってないからお迎え来るにも自転車だっていうから、私が責任もって一颯くんと帰ることにしたよ」
「ああ、助かる」
「加賀美先生が家まで送ってくれると提案してくれたけど、一颯くん、車酔いが酷いもんね、家に着く頃には今以上に悪化しちゃう」
電車やバスは大丈夫なのに、自家用車だけは揺れを身近に感じるというか、どうしてもすぐに酔ってしまって気持ち悪くなってしまう。
酔い止めも効かない俺の体質は筋金入りで、昔、酷い目にあってからは車に乗ることを拒否している。
心春に頼んでベッド横のカーテンを開けてもらうと、窓から見える空はまだ青くて、太陽がまだ沈む気配はない。ずいぶん日が長くなったものだ。ついさっきまでこの時間にはもう日は沈もうとしていたのに。
「一颯くん、外ばかり見つめてどうしたの? もしかして、どこか行くべき用事とかあった?」
「……ッ」
心春の声にハッとする。どうしてだ? どうして俺はこれから向かうべき場所を知っているんだ?
「一颯くん?」
「あ、ああ、用事ね、実はどうしても行かないといけない場所があるんだ」
俺の不安定な体調を鑑みて、心春は俺の用事に付き合いたいと申し出た。こんな調子じゃなければ丁重に断って一人で向かっていたところだが、今の俺はいつ倒れてもおかしくない。どうしても行かないといけないから、俺は心春の親切心を無下にはせずありがたく受け取る。
心春の命令で、俺は保健室のベッドで一時間ほど横になった。正直眠気はなかったのだが、身体を横にしているだけでそれなりに体調は回復し、元に戻ろうとしていた。
カーテン越しに聞こえてきたのだが、加賀美先生と聖羅がお見舞いに来てくれたようだ。
俺が発狂する瞬間を目の当たりにした聖羅は相当心配してくれたようで、心春から俺の状態を細かく聞き出していた。
加賀美先生は長居ができないようで、渡しておいてくれとスポーツドリンクのペットボトルを二本、心春に預けていた。
二人が帰った後、驚くことに現国の田中先生が見舞いに来てくれた。
「霜月君……、どちらも霜月君だったね、一颯君は安静にしているかね?」
「はい、今はそこのベッドで寝ています」
「ワシの授業の時から様子がおかしかったからのう、ワシが何か気に障る発言をしてしまったのかと気になってしまってな。いや、神楽坂君から話を聞いて驚いたよ」
本当は顔を出して先生のせいではないと謝りたいのだが、俺が田中先生の授業をいつも寝て過ごしている申し訳なさから、俺はここから動けずにいた。
「これ、疲れている時には甘いものが一番よの、一颯君に起きたら渡しておくれ」
「水羊羹ですか、渋いですね……、あれ? 田中先生からだからそうでもないのかな」
「ほっほっほ、老いぼれ爺からのプレゼントなぞ、昔から古臭いものと相場が決まっておる。嫌いだったら親御さんにあげるといい」
「いえ、いただきます! ありがとうございました」
扉の閉まる音……、田中先生は帰ったのか。
心春がカーテンをゆっくり開ける。蛍光灯の明かりが地味に目に染みた。……もう一時間経ったのか、結局一睡もできなかったな。
「もう少し寝てる? 歩けるかな?」
「歩けるよ、ずっと寝ていてもこれ以上はよくなりそうにないし、帰ろうか」
試しにベッドから降りて保健室の中を歩いてみると、平衡感覚は戻ったようでふらつきはない。これなら一人でも歩いて帰れそうな調子だ。
まあもちろん心春に怒られるからそんなことはしないけども、結局突然の頭痛や吐き気は何だったのか分からない。分からないけども……。
「ねえ、用事ってどこにいくの? 今日じゃないとだめなの?」
「ああ、どうしても今日じゃないとダメらしい。用事は二つあって、商店街を通って高台に行きたいんだ」
高台に行けば、答えが分かる確信があった。
「なんで商店街を通るの? 高台までなら駅前を通った方が近いよ」
こちらは先ほど確認しなければならなくてできた用事。こちらは後回しでもいいのだが、できれば早いうちに確認したい。
「商店街では“ランナーさん”に話を聞きたいことがあるんだ」
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