62陽菜ルート 愛の爆発
花恋さんを玄関の外まで見送り、覚悟を決めた俺は心春の部屋の扉の前に立つ。一度深呼吸をして扉をノックし、声をかけた。
「心春、時間だよ。俺は部屋で待っているから」
簡潔にそれだけを伝え、部屋に戻る。先ほどの花恋さんの言葉が脳を渦巻くように流れ、逆に焦りを洗い流してくれる。そして俺を冷静沈着なクールな男にさせてくれた。……これくらいのくだらない冗談が思いつくなら大丈夫だ。
机に向って床に座り、ぬるくなったジュースを一気に飲み干す。やけに甘ったるい砂糖水に近い味に顔を顰める。
――ノックはなかった。音もなく、まるで訓練を受けたかのように気配も消していたから気付くのが遅れた。隣に座った時に聞こえた衣擦れの音に、俺の体はビクンと跳ねて驚いた。
「こ、心春、音を殺して近づくなんてびっくりするだろ」
「一颯くん……、一颯くん……」
心春の瞳は潤んでいて何かを求めるように俺のことを見つめていた。俺の声が届いていないのか俺の名前を呼ぶばかりで会話が成り立たない。それに心春のこの表情はつい先ほど花恋さんで見たものと同じ。
花恋さんの言葉を思い出して慌てて心春の肩を掴み、一定の距離を保つ。でも俺はすぐに手を離した。
枷の外された心春は案の定、俺に飛びついてくる。
「一颯くん!」
いつもの心春なら俺の首筋に顔を埋めるだろう、しかし、今日ばかりはそうもいかず、心春は一直線に俺の唇に自身の唇を重ねてきた。今の心春は暴走している。花恋さんにそう聞かされていなければ、今頃、歯と歯をぶつけて互いに悶絶していたかもしれない。
飛びついてきた心春の勢いを殺すように俺は後ろに倒れて下敷きになる。俺は三度花恋さんにキスを許している。だから、せめてその三回に見合うだけの満足できるキスを心春にはしてほしかった。
「ん……ん!」
どこかたどたどしく思える心春からのキスは、それでも俺の気持ちを誘惑するのに十分な魅力を持っていた。このまま溶け合いたくなるほどに気持ちがいい。
「う、……ん、ふ」
呼吸も忘れて押し付けてくるものだから苦しそうな声を漏らす。まるでキスとはどういうものなのか知らない初な少女。俺も詳しく知っているわけではないが、まずは落ち着かせないことには互いに酸欠を起こしそうだった。
俺は心春を落ち着かせるためのあやし方を昔から知っている。背中の腰あたりを一定のリズムでポンポンとゆっくり叩き、勢いが落ち着き始めたところで後頭部を髪を梳くようにして撫でてあげると、……心春は唇を離して先ほど以上に潤んだ瞳を俺に見せてくれた。
二人の間に引く唾液の糸が、今までのキスが幻ではなく本当に唇を重ねていたのだという証拠として繋がれていた。
「い、いま、わた、私、一颯くんと、き、きききキスして――」
「なんだよ今更、それが目的だったんだろ? 今日の俺は二人のお姫様の言いなりみたいだし、いいぞ、もう一度キスするか?」
「う、うぅ……うわあん!」
急に泣き出した心春が、今度は定位置である首筋に顔を埋めてきた。
「よしよし、俺が悪かったな、――いってッ! 首噛むな」
いつもの甘噛みどころか、犬歯で思い切り首に噛み付いてきた。食い込んでいて下手したら血が出ているかもしれない。
でも心春は離れてくれなくて、じんじんと麻痺するような痛みを堪えつつ心春が落ち着くのを待つ。勢いに任せて噛み付いていた心春は徐々に力を失うように甘噛みになる。これくらいなら心地よいからいいと思っていたが、しばらくすると耳元で寝息が聞こえるようになった。
「心春? あれ、寝ちゃった……」
心春の中でどんな感情が渦巻いていたのかは計り知れない。明日には心春たちを置いて次のルートへ行ってしまう俺には到底知るよしもない、想像に絶する感情だったのかも。
今は心春にだけ与えられた時間だから、起こしてあげてゆっくりお話かいつも通りゲームを一緒にしたほうが心春のためになるかもしれないと思ったが、心春の寝顔があまりにも穏やかで、むしろ起こしてしまう方が可哀そうに思えるほど整った呼吸をしていた。
ゆっくりと身体を起こして心春を横向きに抱く。いわゆるお姫様抱っこというもので、静かに音を殺しながら心春の部屋に運んだ。
ベッドに横たわらせても起きる気配はない。楽しい夢でも見ているのか時々笑い出して、俺は子どもの頃に一緒に遊んでいた時の心春を思い出した。
毎日、心春か俺の部屋に集まっては遊んではしゃいで、母さんに叱られて、夕飯を一緒に食べて、一緒に風呂に入って、一緒の布団で寝た。三人家族なのに食器や椅子の数は必ず四つあったものだ。それは心春の家でも同じで、家族ぐるみという言葉が温く思えるほどに俺たちは当時から家族だった。
そんな毎日を彷彿とさせる心春の笑顔には、さすがの俺も寂しさが溢れかえってしまう。手の甲に大粒の涙が一つ落ちて弾けた。それは、明日の夕方ごろにはすべての思い出が無に還される前兆のように思えて一心不乱に涙を拭う。一粒一粒が楽しくて、辛くて、嬉しかった思い出。目元から離れるたびにその思い出が失われていく感覚が怖くて余計に涙が溢れた。
「止まってくれよ! どうして、どうして俺のことを覚えていてくれないんだ!」
悲哀と怒りが入り混じった涙が容赦なく心春の布団を濡らす。顔を振り払うと心春の頬に涙が一粒飛んでしまった。
「……心春?」
ベッドに腰かける俺の涙に濡れた手を……心春が掴んでいた。
心春はあいも変わらず穏やかな寝顔を俺に晒し続けている。でもその寝顔が先ほど以上に笑うことはなかった。本当に寝ているのか怪しく思えるほどに握る手は力強く、その力強さは俺から涙を一斉に取り払った。
「いぶきくん、……なかないで?」
「……ッ!」
ただの寝言……、でもそれは俺にとってひどく懐かしく、心を揺さぶられる言葉だった。
何度も何度も俺の頭を撫でながら囁いてくれたこの言葉に、俺は八つ当たりして、でも最後は心春のこの言葉に救われた。俺がここにいられるのは心春がいるから。その事実だけはたとえ世界が変わっても覆りはしない。
あの神が俺を主人公から降板させた“あの事実”が俺の心にある限り、心春が今の俺を忘れても永遠に感謝し続ける。
……俺が頑張れる理由のすべてだった。だから俺はさっさとこんなゲームを完遂させて気持ちをはっきりさせよう。俺の心にいる二人の少女、俺は最後に目の前の選択肢を選ぶための長い旅を始める。
頂上の見えない険しい山だ、何度でも転げ落ちることだろう。今だって山の麓だけど、すでに何度も転げ落ちている。
俺は心春のベッドに、そして布団に潜り込んだ。いつもは心春が俺に抱き着いて眠っているのだが、今回だけは俺から心春を抱きしめた。腕の中に納まって、抱き枕のように寝心地がいい。程よく効いたクーラーの涼しさが余計に心春の体温を感じさせてくれる。
心春が俺に抱き着いてすぐに眠ってしまう感覚が分かる気がした。こんなにも安堵した気持ちになって眠りに就けるなんて、……なるほど、心春が不安な時に抱き着いてくる気持ちがよく分かった。
抱き着かれることはあっても抱き着いて横になることが久しくなくて、少しばかり感覚が違うことに戸惑いはあったものの、意識が薄れていく感覚は今までの睡眠の中で最も心地よかった。




