57陽菜ルート 可憐な少女
ゆっくりと意識が覚醒していく最中、何かが俺の腹に覆いかぶさっていることに気付いた。
カーテンの隙間から漏れる朝日が眩しい。ゆっくりと瞼を持ち上げて覆いかぶさっているものの正体を光に慣れた目で確認すると、花恋さんが俺の首に両手を回して抱き着いてきていた。あまりの軽さに俺は羽毛布団か何かだと勘違いしていたみたいだ。
幼さを残した可愛らしくあどけない寝顔が目の前にあって、それを愛でる為ならばいつまでもこうしていられる自信がある。しかし俺はさっさと家に帰らなければならないから軽く花恋さんの背中を揺する。
「花恋さん、おはようございます。起きてください」
そう声をかけると薄っすらと瞼を押し上げた花恋さんと目が合う。まだ半分眠っているようだ。
「うゆ……? ……えへへ、おはよう、いぶき。……ちゅっ」
「――――ん!?」
顔を近づけてきた花恋さんに唇へキスされた。軽く触れただけとはいえ、その事実は俺を動揺させるのに十分だ。目が完全に覚めて視線があちこちに飛んでいく。
「えへへー……、いぶき、すき。……ん、ちゅ」
「――――んん!?」
まさかの二度目。首に腕を回されているから顔を逸らしたところでたかがしれている。
とろんとして潤んだ瞳に見つめられて顔を近づけてきたら、こちらが顔を逸らそうなんて考える男子高校生がいるだろうか?
まず思考が働かないだろう。狼狽してされるがままだ、キスの経験もない童貞からしたらなおさら何もできないだろう。間違いない。
半分寝ていた花恋さんはそのあと覚醒するのではなく、瞼を閉じて俺の顔の横に落ちた。
「か、花恋さーん、起きてもらわないと困るのですが」
どうしよう、キスのことは内緒にしておくべきか、本人が気付いていないなら黙っておくべきだろうな。
後頭部をポンポンと叩いて覚醒を促してみると、首に回している腕の力が強くなった。そして、察してしまった。
「ちょ、苦しいです! ……いつから、起きてました?」
「い、今ので、何度目かしら……?」
「……二度目です。……えと、その、……ごちそうさまです」
「〜〜〜〜っ、ん!」
「――んんん!?」
なぜに三度目!? なんかやけくそとばかりに強く唇を押し付けてきて、それも長時間。おかげで先ほどは楽しむ余裕もなかったキスの幸福感を味わうこととなった。
舌先だけ触れ合ったキスの感想としては脳に快楽の電流を走らせたみたいに気持ちいい。
目の前には顔を耳まで真っ赤に染めた美少女、ぷっくりとしたピンク色の甘い唇に包まれて脳が溶けるような、今まで体験したことのない感覚。今までの人生でこれが一番の幸福かもしれない。そして俺は洗脳されたように花恋さんの腰を抱いていた。
「ぷはっ、……一颯、名残惜しいけど時間よ」
「あ……」
俺たちのわずかに混ざり合った唾液が互いの唇に細い糸のように橋を作っていた。花恋さんは妖艶にほほ笑んでいて、ヘビのように丸呑みされてしまうのではないかと錯覚させられる。
「浮気する気になったかしら?」
「……花恋さんは、魔性の女ですね。攻められたら抗えませんでした」
俺に跨っている花恋さんの寝間着ははだけていて、肩紐が外れて胸元が露わになっている。ワンピースタイプの寝間着なのだが、丈が若干短いせいで裾が危うい位置までせりあがっている。
「見たいのかしら?」
視線でバレバレだったようで、軽く裾を持ち上げたその場所に視線が釘付けになった。
「戻れなさそうな気がするのでやめてください」
「無理矢理見せてあげようかしら?」
「痴女じゃないんですからやめてください! 男子高校生の性欲を舐めないでくださいよ」
腹の上からどいてくれる際に、とっくに気付かれている生理現象には触れないでくれた。あれは寝ている間のストレス発散に関係するとか何とかだから決してそういうことを期待していたとかじゃない。ホントだ。何かで読んだ気がする。
時計を見れば朝の五時、この時間なら起きている人はほとんどいない。それに昨晩は女子たちははしゃいでいたようだからぐっすりだろう。登校時間も遅いから安心しきっているはず。
カーテンの隙間から外を窺ってみると、陽はまだ出てきたばかりのようで、眩しいとはいえまだ勢いは幼い。街灯もまばらにだが点いている所は点いたまま。
「マジかよ、唯人ってこんな朝早くから走ってんのかよ」
学校指定の青いジャージを身に纏い、一定のリズムで走る唯人を目撃した。しかも隣には月宮さんもいる。
心春から聞いていたが、まさか本当に月宮さんって唯人のペースについて行けるのか、やっぱり相性いいな。
「一颯、今なら誰もいないわ、急ぎましょう」
「はい、今行きます」
花恋さんはつい先ほどまでキスをしていたとは思わせない涼しい顔をしていたから別人だと疑ってしまいそう。でも耳はまだ赤いから意識はしているんだろうな。
見送りに着いてきてくれるようで、寮の玄関まで周りを警戒しながら歩いていたが、ハプニング等起こることなく俺は女子寮の外に出ることが出来た。しかし、ここでは周回する唯人たちに見つかるから寮の敷地外まで移動する。
「昨晩は泊めてくれてありがとうございました。一生忘れられない思い出が出来てしまいましたよ」
「それはよかったわ。いつでも泊りに来てちょうだいな、どんな時でも歓迎するわ」
「一応皮肉なんですけどね。できれば泊まりになることはないようにしたいんですけど、……それと、やっぱり俺にはこの世界がどうなるか分かりません。もう……会えないかもしれません」
「大丈夫よ、覚悟はできているわ。それに一晩だけでもあなたと恋人のように過ごせたのだから満足よ」
自身の唇に艶めかしく触れる花恋さんにドキリとした。可能ならその唇にもう一度触れたいと思ってしまうのは罪だろうか。
花恋さんは上目遣いで一歩こちらに距離を詰めてきて背伸びをする。顔が近付いてきてお互いに見つめ合っていた。
「ねえ、一颯、お願いがあるの」
「なんでしょうか?」
「わたくしのことを背徳的に思えるほど熱いハグをしてくださらない? 心春がいない時だからこそできる、ぞくぞくするような、……ね?」
すでに腕は俺の背中に回されていて、花恋さんの薄い胸が俺の鍛えてもいない胸にくっついている。
本能のままに俺は手を回せばそれでいい。やるかやらないかの二つに一つ。
もし俺が主人公であるならば、どちらを選択する――?
「でも一颯が出来ないというのなら、しばらくこのままにさせてくれないかしら? 頭をなでてくださる?」
「……わかりました」
決断することはなかった。
俺は結局二つのどちらかを選びきれない中途半端な男だったようだ。心をかき乱されて、己の感情が信用できなくて困惑している。
俺には選択肢を選ばないという選択もある。これがどんなに楽な道か、何度も唯人のことを憐れんだ。この世界に無理やり選択肢を与えられて、それに縛られている唯人が可哀そうだと思っていた。
だが、いまばかりはそんな主人公が羨ましい。優柔不断な俺でも絶対に選択しなくてはならないのだから、逃げるなんて甘い考えを捨てられたはずだ。
一本一本が絹糸のようにさらさらとした花恋さんの髪に触れる。心春にしてあげるように手櫛をして、涙がこぼれるのを堪えている花恋さんの目元に浮かぶ水滴をそっと拭き取る。
「今のうちに聞いておきます。花恋さんが求めるハッピーエンドって何ですか?」
「わたくしは、それほど特別なことは望んでないわ。ただ普通にあなたと恋人同士になって、いつかは家庭を持ちたいわ、……ただ、それだけ」
俺がそれを叶えてあげるのは難しい。心情なんて上手く語れないから、なんて言えばいいか分からない。何か話せば、この麗しい女性を悲しませる結果にしかなり得ないと理解している。
だから、せめて慎重に言葉を選んだ。
「俺は……主人公から降格させられました。もしもあんなことが起こらなくて、心春と幼馴染のままだったら花恋さんへの見方も変わっていたと思います。花恋さんは俺にとってのヒロインでしたから、昨晩あったこともデータの残骸が拾ったイベントなのかもしれません」
「わたくし、一颯のヒロインでしたの?」
「はい、恥ずかしくて心春にも話してませんが、脳内のファイルには俺が主人公だったときのデータも少し残っています。ヒロインは三人、心春と花恋さん、あとは一年生の三好サラでした」
「これはまた、このゲームを作った神は少女趣味でもお持ちなのかしら、それに三好サラはあなたのヒロインでもあったのね」
「どう見てもキャラが濃いですから、何かあるとは思ってました」
俺が主人公としてのデータは全部が未完成な上に一部破損している。心春と花恋さんのデータは一部閲覧できたのだが、三好さんのデータは唯人のヒロインということもあって白紙にされていた。故意に全部書き換えられたのだろう。
「今の俺は主人公じゃないので、心春と花恋さんをどちらも選ぶことはできません」
「それで、選ぶとしたら心春を選ぶのでしょう?」
「……はい」
「それならそれで、わたくしが攻め続けるしかないわね。でも一颯が最後に心春を選んだとしても、わたくしはそれを素直に受け入れるわ、そして、すっぱりと諦めるわ」
口を開こうとして噤む。下唇を噛み締めて花恋さんの言葉を、俺に触れる胸を通して心臓に刻みつける。
「だから、一颯をふり向かせて見せるわ。どうしようもなくわたくしのことを求めたくなるような甘い思い出を、恋を……、あなたに押し付けてあげるわ。そのときは覚悟をしていてちょうだい?」
花恋さんは背伸びして頬に口づけをしてきた。唇同士じゃないのに桃のように柔らかくて虜になる。図らずもキスされた場所は前に心春にキスされた場所のちょうど反対側だった。
頬の肉が一番厚い部分から少し下にずれた顎に近い場所、二人とも不器用で、だからこそどうしようもなく甘酸っぱくて、だけど、俺だけこんな気持ちにされるのは不公平だから、お返しとばかりに花恋さんの前髪をかき上げて綺麗な白い額に口づけした。
「――!? い、一颯、あなた、何を!」
「花恋さんのせいでキスの悦びに目覚めてしまいました。責任としてこれからも俺の手伝いをお願いしますね?」
陽が空へと本格的に昇り始めた。そろそろ早起きする寮生は起き出している頃だ。
よく考えると、俺はずっと花恋さんに抱き着かれたままだったのか、慣れって恐ろしい。
「それでは、また部室で、今日は頑張りましょう」
「ええ、今日のあなたは心春のサポートと裏方仕事、大変だけど、あなたの働きぶりに期待しているわ」
最後に背中をパンと強く叩かれて俺は寮を後にした。後ろをふり向けばそこにはもう花恋さんはいなくて、背中を叩かれた時はすでに演劇部の部長しての凛々しい顔つきだった。
飄々としている俺とは大違いの真剣な表情。役目を果たすために真剣になれる、そんな花恋さんだから、俺は彼女のことが好きなのかもしれない。
……今日もやることが多い。まずは家に帰ってしっかり朝食で力を付けるとしよう。




