56陽菜ルート 花恋と二人きりの一夜
俺は周りの目を気にしながら部屋に入る。
ここまで誰にも見られなくてよかった。もし見られていたらいらぬ誤解を招いていたかもしれない。
「さ、お好きな所に座ってちょうだい」
「おじゃまします……」
俺は花恋さんに招かれて女子寮に来ていた。場所を変えようと言ったのは俺で、具体的にいい場所が思い浮かばず花恋さんに任せてしまったのが間違っていた。職権乱用もいいとこで、寮に入る際に学生証を通せば俺が女子寮にいるのはバレてしまう危険があるからと学生証を通していない。寮長である花恋さんが副寮長である城戸先輩を抱き込み、どういうことか俺は花恋さんの部屋に連れてこられた。
どうやって機械を通さず女子寮に入れたかは聞いてはいけない気がして、でも聖羅がちょくちょく男子寮に立ち入っているから普通なんだと思い込むようにした。部屋に辿り着くまで、城戸先輩は俺のことをちらちら見ながら花恋さんに何度も耳打ちをしていたのは嫌な予感がしてならない。
一足部屋に踏み入れれば、前来た時とは少し違った部屋の匂いに感じる。前はふわふわとした綿あめのような甘い匂いのイメージを持ったのだが、今日はすっきりとした高原のような爽やかさを感じられた。そのことについて聞いてみれば、一週間ごとに好みで匂いを変えるのだとか。
「コーヒーを淹れるからゆっくりしてなさい。あと、ご両親には泊りの連絡を入れておきなさいな」
このあと唯人の部屋で泊まらせてもらおうと思っていたしちょうどいい。母さんに電話すれば、明日の朝早くに帰ってきて、学校にはちゃんと行くよう釘を刺された。
明日と明後日は登校時間が若干遅い。授業があるわけではなく演劇部の発表の為の日だ。東京エリアで夏季休暇開始日は定められているため、各学校で余った時間を好きに使っている。
裏方としての役割はしっかり覚えているため、リハーサルでも問題なく仕事をこなせた。後は本番に裏方として流れを崩さないようにするだけ。
「花恋さんってコーヒー飲むんですね。それもブラックだなんて大人ですね」
「わたくしが子どもに見えると? 飲むなら砂糖とミルクをたっぷり入れると?」
「あ、いや、そういう訳じゃないんですけど。紅茶の方が飲んでいそうなイメージだったので」
それにしてもこのコーヒー苦くないか? コーヒーは嫌いじゃないから別に構わないが、わざと苦くなるように淹れられたとしか考えられないほどに苦みと酸味が酷い。もう夜だけど、これではカフェインが効きすぎて目が覚めてしまいそうだ。
「……は! まさか!」
「今夜は寝かさないわよ?」
いつの間にか俺の隣に座っていた花恋さんが頭を俺の左肩に乗せてくる。腕を組んで離さないとばかりに体重もかけてきた。
それでも振りほどこうと思えば簡単に振りほどけるくらいに軽いのが花恋さんだ。でもここから逃げ出す選択がどうしてか嫌で、……どうして嫌なんだろうと考え込んだ。
――俺は花恋さんを一人の女性として見てしまっているのだ。
考えがそれに辿り着いた瞬間、自分はクズ野郎だと思った。コーヒーを熱いまま無理やり全部飲み干し、あまりの苦さに一瞬吐き気を催した。
一度告白の寸前までたどり着いたことがある心春のことが好きなのは確実だ。これは揺るぎない事実であり、俺が今頑張れている証でもある。
昔から俺と心春は二人でいれば埋められない心の隙間なんてないと思っていた。実際そうだ、俺はこれで満足していたんだ。でも俺と心春でも見えなかった隙間には花恋さんがいる。
俺だけじゃない、心春の事だって陰から支えてくれている存在が花恋さんなんだ。そのことに気付いて、俺の気持ちはいつの間にか変化を遂げようとしている。はたして、俺はすべてのシナリオを完遂させるまで気持ちを貫くことは出来るのか……?
「花恋さん……」
「なにかしら? 一颯」
このループを別の言い方で表現すれば、俺はまだ高校生活四年目、一年留年したと思えば気は楽だ。でも、……変わらないのだ。話す内容も動きも、俺が介入しなければ何も変わらない。いつか……飽きがくる。
薄々勘付いていた。必ずうまくいく保証なんてどこにもない。いつか疲弊するであろう心に安らぎを与えてくれるのは事情を話している心春と花恋さんだけ。
そう考えているとどうも気持ちがおかしな方向へ向かって行きそうで、思考を一度放棄する。
「花恋さん、ゲームしませんか? 明日は早くに帰ってこいと親に命令されたので時間は決めさせてもらいますけど」
「そう、義母様の命令であればしかたないわ、でも代わりに条件を付けるわ」
「条件ですか……。無理難題はご勘弁を」
俺が若干猫背で花恋さんは凛として背筋を伸ばしているからか、座っていれば俺と花恋さんは身長があまり変わらないように思える。だからこそ花恋さんは俺よりも一つ年上の尊敬できる先輩なんだなと実感した。尊敬出来て、なにより俺のことを好きと言ってくれた花恋さんにならなんでも言うことを聞いてあげたい。
「今晩はわたくしと一緒のベッドで寝てくださいな」
前言撤回。なんでもは無理です。
「それはダメじゃないですか? 嫁入り前の女性と寝床を共にするって……」
「わたくしは一颯に嫁入りするのよ。何か問題がおあり?」
完全に割り切った返答にひるむ。こちらとしてはこんなにも可愛い女の子と一緒に寝られてラッキーなのだが、紳士として断らないといけない。
「でも、俺、着替えとかないですし、汗臭いですよ」
「下着は舞衣子が買いに行っているわ。シャワーは狭いけどそこの備え付けのものを使いなさい。寝間着は部活備品の男子用ジャージで構わないわね?」
「そうだ、城戸先輩もグルだった!」
「一颯が逃げられないよう今は舞衣子主催で廊下にて催し物を開いているわ。もうひとりの主催は貴方のクラスの神楽坂聖羅よ」
「聖羅……、ここまで俺の邪魔をするのか」
真面目に逃げ場がなくて愕然とした。なんだか廊下が騒がしいと思ったらそういうことか、しばらくしてやってきた城戸先輩がニマニマとした憎たらしい笑顔で俺の肩をバシバシ叩いた。痛くて仕方ないが、俺は膝と両手を床に着いて頭をカクンと垂れた。
「霜月兄、今日は妹にしてもらえないことを花恋にしてもらうんだね。今日の花恋なら何しても許されるよ」
「何もしませんよ、何かあったら終わりです。俺の証言なんて心春以外に信用してくれませんし」
「そうでもないと思うけど、ここはたしかにと言っておくかな。まあ、頑張りな、最後は霜月兄が選ぶんだから」
「はい、それは覚悟しています。それと俺の性癖を勝手にばらさないでください。そもそも教えたことすらないんですから」
「あっはっはっは! ……バレた? でも妹の髪の匂いに反応するのはほどほどにね」
城戸先輩は俺の困った様子を軽快に笑い飛ばしながら部屋を後にした。
逃げ場はなく、だからといって花恋さんを突き放すようなことはしたくない。だからもう割り切ることにした。
今日のことは近いうち心春にもバレることだろう。唯人には口裏を合わせてもらおうかと思ったが、あいつは今頃月宮さんあたりと直接会っているか電話でもしているだろうからやめた。
コーヒーのカフェインが効き始めて眠気なんて全くない。どうにでもなれとばかりにシャワーを浴びて、後からシャワーを浴びた花恋さんを持ち上げて俺の膝に乗せ、あたふたしている花恋さんに奇襲を仕掛けるようにゲームに興じた。ちなみに城戸先輩は俺の夕食の弁当も買ってきてくれて、しかし弁当の具材のほとんどが精がつくものなのはいただけない。
こちらから積極的になれば距離感を誤って花恋さんから離れてくれるのではと浅い考えを持っていたが、むしろ逆効果だったようで、突然のことに慌てつつもたいそう喜ばれた。意外にもゲームには二人で熱中したおかげでこれといった問題が起きることなく定めた時間に迫る。
「そろそろ寝ないと起きられないので、先に寝ますね」
「わたくしももう寝るわ。一颯は心春と共にいつも就寝するのかしら?」
「いつもではないですが、なんだかんだ寂しがりですから、たまに俺のことを抱き枕代わりにして寝ますよ」
言ってから失敗したなと思いつつ結局は口を噤んだ。こんなことを言ってしまえば……。
「では、わたくしのことも抱きしめて下さる?」
こうなるわけで、同じベッドに寝ることになって、このままだと明日の朝まで寝付けないんじゃないかと不安になるのだが、逆に寝付ける方法は何なのかと考えたら俺は花恋さんの申し出を受け入れていた。
「いいですよ、ですが、心春と同じように抱きしめるだけでそれ以上のことはできません。……理性が吹き飛んだら大変ですから」
「そうね、本当はおやすみのキスの一つくらい欲しいものだけど、仕方ないわ」
電気を消して俺が先に布団に入る。同じ布団に潜り込んできた花恋さんとは間近で顔を見合わせることとなった。
夏ゆえに薄い毛布一枚は花恋さんのサイズであって、俺が少しでも離れれば背中がはみ出してしまう。
「普段はどちらから抱き着いているのかしら?」
「心春からです。俺は心春が安心して夢を見られるようにじっとしています」
俺は枕代わりにクッションを頭に敷いている。暗闇で満足に互いの顔を見ることもできないのに今はどんな状態なのか手に取るようにはっきりしていた。
背中にきゅっと回された小さな手はきっとモミジのように赤く、そして微熱のように温かい。
花恋さんがこんな間近にいるにも関わらず俺の心拍数はそこまで上昇しない。心春で慣れてしまったか、俺も花恋さんを抱きしめてあげると背中側から花恋さんの心音を手のひらに感じられた。
……はやい、緊張しているのかな? それとも事が上手く運びすぎて現実に気持ちが追い付いていないのかな?
「ねえ、一颯、シナリオはもう後半に入ったのかしら?」
「はい、残り僅かです。明日は心春に仕掛けてもらって、近いうちに二人をくっ付けます。花恋さんに教えてもらったあの件、役に立ちそうです」
「そう、……おそらく、今日が最後ね。一颯がわたくしをこうして抱きしめてくれることはもうないわね」
「……予定では残り五日で陽菜ルートが終わります。でも一日だけ予定が何もない日がありますから、遊びに来てください」
俺たちの間に隙間が生まれないように俺は花恋さんを優しく抱き寄せる。
額同士がぶつかりそうな距離で花恋さんは声を殺して泣いていた。嗚咽を堪えながら幼さを残した小さな体躯を小刻みに震わせて、枕を涙に濡らしていた。
「わたくし、どうなるのかしら……」
それはこの世界に対しての問いだ、俺に答えが出せるはずもない。俺は自動的に次のシナリオに飛ばされる。だけど、花恋さんや心春はこの世界に留まり続ける。
今の俺がいなくなった世界はどうなるのかは神のみぞ知る。ゲームの記憶をなくした俺が出現するのか、この世界が凍結されるのか、なんにせよ、俺はもう今の花恋さんと心春に会うことは叶わなくなる。
それは俺の腕に収まっている花恋だって同じこと。だから涙を流しているのだ。
「このまま世界が続いてくれたらどんなに嬉しいか。……楽しかった毎日が一瞬でリセットされたあの瞬間は絶望しました」
「一颯?」
「花恋さんがいてくれて、ホント気が楽になりました。心春と同等に花恋さんの存在が俺の心を満たしてくれています」
少し態勢を変え、胸元に花恋さんの頭を引き寄せてきゅっと胸に抱いた。これは昔、心春が、または俺が泣いていた時にお互いがいつもしてあげていたことだ。
花恋さんの震えが徐々に収まって、背中を優しく撫でてあげれば呼吸が穏やかになったのを感じる。こうして一緒に寝たがっていたのは心春と同じなんだ、それは寂しさに打ちひしがれていたからなのかもしれない。
「心春も、きっと今のわたくしと同じなのね」
「かもしれません。最後にケアは忘れないようにします」
「そうしてあげなさい。あの子はわたくし以上に涙脆いわ」
やがて、穏やかに寝息が聞こえるようになった花恋さんを仰向けに戻してあげて、俺も目を瞑った。
今晩は悪夢かもしれない。これからのことを考えるとどうしても悪い予感がしてならなかったからだ。でも隣に花恋さんがいると不思議なことにいい夢心地になりそうな気もした。
目の前のことだってどうなるか分からないのだから、俺がこの目で確かめる他ない。心春に浮気だと泣き叫ばれるかもしれないけれど、俺は花恋さんの手をそっと握って意識を夢の中へと落とした。




