53陽菜ルート 〈唯人〉幸福は継続なり
引き続き視点が変わっています。
ランナーさんの事務所は相変わらず返礼品の段ボールが山のように積まれていて、ほとんどが無造作に開けられていた。
賞味期限の近い物から順当に、飽きがこないようローテーションを組むことがランナーさんの楽しみの一つだという。
「陽菜ちゃん、ありがとうね、わたしじゃそれを操作するのは難しいから」
「いいから、早く次のランに行かないとお客さんに宣伝できないよ」
「そうだね、じゃ、行ってくる。唯人君もお手伝い感謝するよ」
「はい、といっても出来ることは限られてますけど」
「それでいいんだよ、出来ることをやる人は偉いんだ」
年を感じさせない元気な走りでランナーさんは商店街の主婦たちの元へと飲み込まれていった。
今日の依頼は多くないから往復一時間といったところか。……オレはどうしてランナーさんの仕事を把握しているのか。将来ランナーさんの後を継ぎたいわけでもないのに、陽菜さんに誘われたらここに来てみたくなってしまうオレがいる。
「唯人、毎回手伝いに来てもらってごめんね? アルバイトとはいえ、一颯君とかと遊ぶ時間を奪ってない?」
「あいつとは部活が無ければいつでも遊べるし、夜に通話もしているから大丈夫だ。部活もしないで部屋でぼうっとしているよりかは、こうして陽菜さんと作業している方がよっぽど有意義で楽しい」
少し早口に言い訳をする。オレが陽菜さんと一緒にいたくて一颯との約束を無しにしているなんて、そんなの口が裂けても言えるはずない。だって恥ずかしいし。
陽菜さんはパソコンの前でカタカタとキーボードを鳴らす。普段はランナーさんの奥さんがやっていることを陽菜さんが代理で引き受けることがあるそうだ。さすがにそれを俺がやるわけにもいかず、俺は主に部屋の掃除を担当している。苦手な掃除といっても段ボールを畳んでリサイクルに出すくらいだからオレでも出来る。
他にも不要な書類をシュレッダーにかけたり、もう使わない宣伝道具を解体して分別する。片付けと一括りにしてもやることは意外と多い。工具を使うこともあればごみ処理について集積所に電話することもあった。
想像以上に力仕事で、ランナーさんが帰ってくる一時間という短い時間では片付けが終わるはずもなかった。
「ただいまー。明日に急な依頼が二件、来週の仕事が三件入ったよ、この時間の割には意外と多かった」
「こっちでスケジュール組むので依頼書をください」
「はい、よろしくね。唯人君はずいぶん仕事が早くなったね、片付けはいつも臨時のアルバイトを募集していたから、唯人君が来てくれて助かるよ」
「力仕事は得意なんで、これからも必要とあらば手伝わせてもらいます」
ランナーさんは冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して少しずつ口に含んでいく。真夏の暑い日で、汗がとめどなく流れるこんな日でも冷たいものを一気に飲まないのはやっぱり体調を気にしているからだろう。
汗を拭き、整理運動を事務所の端で始める。
俺は減った分のペットボトルを冷蔵庫に補充し、それでまた一つ空になった段ボールを畳んでしっかりとビニール紐で結ぶ。
ある程度溜まった段ボールを小脇に抱えて外に出る。段ボールやペットボトル、ビンや食品トレーなどもリサイクルしてくれるスーパーまで駆け足で運び、既定の場所にその段ボールを重ねる。
すっかり顔見知りになったリサイクル担当のシルバーさんと軽い挨拶をして事務所に戻ると、陽菜さんが一段落ついたのか、大きく伸びをしていた。
「う、う〜ん……、あ、おかえりなさい、唯人」
「あ、ただいま」
陽菜さんの今日の服装はノースリーブのシャツだから、腕を上げて伸びをすれば無防備な脇が惜しげもなく晒され、俺はそれを悪びれることなくガン見してしまった。チラ見えしたインナーかもしくは……、なんにせよあの薄いピンク色を今後忘れることはないだろう。
オレが陽菜さんの脇を見ていたことに気づいた様子はないのだが、他の人の前でそんな無防備な格好を晒していないか心配になった。
オレにだけ見せて欲しい無防備な姿、なんて言ったら、なんかストーカーというか、独占欲の塊のようでちょっと自分に嫌気がさした。
「そうだ、唯人君、アルバイト代についてなんだけど、陽菜ちゃんに唯人君の分も渡してあるから後で陽菜ちゃんから貰ってね、それとちょっとしたボーナスってわけじゃないけど、唯人君が気になっていたことを教えてあげよう」
「ボーナス? オレが気になっていたことって?」
「わたしがなぜランナーでいられるかだよ。なんで毎日走っていて辛くないか気になっていただろう?」
そういえばそんなことを前に聞いた気がする。何気なく聞いたつもりだったが、オレがかなり気になっていると思ってくれたようだ。実際はそうだから、もしかしたら聞きたいと思っているオーラが出ていたのかもしれない。
「ぜひ、教えて下さい」
オレが段ボールをリサイクルに出している間にシャワーを浴びて着替えたのかランナーさんはラフなジャージ姿になっていた。
真剣なのかそうじゃないのか分かりづらい表情でランナーさんはオレを近くの椅子に座るよう促してくれる。
オレが椅子に座れば、水を一口飲んでから二カっと笑った。
「毎日走っていて辛いこともあるに決まっているだろ」
「そうなんですか?」
実は内心ほっとした。あのランナーさんでさえ辛いと思うことがあるのだから。オレが今、辛いと思っていることは間違っていないのだと肯定してくれた気がした。
「だが、その辛さを受け入れなくてはならない時が必ずやってくる」
「――ッ!」
ちょうど今のオレが逃げ続けているその言葉に身体がビクンと跳ねて強張った。ランナーさんはオレのことは何も知らないはずなのに、全てを見透かされているような、そんな発言だった。
「わたしが大学生の時、マラソンの全国大会で優勝した。大学としても初優勝だったがために誰もがわたしたちを称え、この街はパレードという前代未聞の試みを計らってくれた。誰もがわたしに手を振ってくれる、握手を求めてくれる」
「分かります。オレもパレードまでとはいきませんが、表彰されたときに仲間が、家族がオレのことを褒めてくれるんです」
オレは今まで隠したがっていたことを何の隔たりもなくすらすらと口にして、思わず口元を抑えた。
「そうか、それはさぞ気持ちのいいことだったろう。でもね、わたしはパレードに参加したとき、車いすだった」
「え?」
ランナーさんはオレのことを気にした様子もなく自身の膝をジャージ越しにパーンと強く叩いた。
「無茶しすぎたんだよ。足がぼろぼろになって歩くこともままならない。介護なしには起き上がることも苦労した」
今の元気な姿からは想像も付かなかった。ランナーさんといえばこの街で一番の有名人で、主婦層にとっては活気溢れるアイドルのような存在だ。そんな彼が走ることのできない姿というのがわずかばかりも想像できない。
「わたしの勝手な憶測で話すが、唯人君は辛い現実に向き合えずにいるね?」
「……はい。オレは逃げ出しました」
「最初はわたしも逃げ出そうとした。結果を残したことで、無理に満足しようとしていたのかもしれない。でもね、そのことを話したら頬を引っ叩かれたよ」
「え? だ、誰に話したんですか?」
「奥さんだよ。当時は付き合っていた彼女だったけど、怪我でプロの道は閉ざされたからね、これで終わっていいかなって弱音を口にした瞬間、パシーンッてね、骨ごと持っていく勢いだったよ。あれは幼少期に腕の骨を折った時より響いたね、まさか車いすから落とされるとは思わなかった」
ランナーさんが当時の再現をするように自分の手で頬を叩く、軽くやっているようで力が籠っているから、本当に吹き飛ぶ勢いだったのではなかろうか。怪我人相手に容赦ないな。
「彼女はわたしがもう一度走れるようになるまで杖になってくれた。あの頃のような風と一体となってそのまま空気を切り裂けるようなタイムは二度と出せないけどね、わたしは“一人じゃなかった”」
一人じゃない……、いつか、どこかで聞いた言葉だ。
……そうだ、中学の団体戦で部長がオレたちを鼓舞する時にいつも使っていた言葉だ。誰かが負けても、仲間が必ず取り返してくれる。戦っているのは自分だけじゃない、仲間を信じろ……と。
全員が負けても最後に部長が一矢報いてやるから全力でぶつかってこい、と昨年度、全国優勝した学校に勝利したオレたちを率いた部長は格好よかった。相手校もまさかという目で驚きを隠せずにいたのを覚えている。
……あの時は、……最高に気持ちよかったな。
「信用している人に心の内を話してみるといい、ゴールした瞬間の気持ちのいい脱力感に似た気分になるぞ。家族に話しづらいなら友達でもいい、なんなら陽菜ちゃんに話してみるといいさ、あの子は秘密を護ってくれるし、話も真剣に聞いてくれる」
オレが最も信頼している人物。そう言われて最初にあいつの顔が頭に浮かんだ。誰よりも最初にオレのことを気にしてくれて、オレが線を引いていた位置から察して入ってこなかったあいつなら、オレの領域に入れても怖くはない。
陽菜さんにも聞いてもらいたい。この間、転ぶのを防げなかった訳を説明しておきたかった。あと、聖羅に相談したら意外な目線で新しい道を提示してくれそうな気がする。
「は、はは……」
なんだ、オレって寂しがりか? あれだけ隠そうとしていたのに、こんなにもオレの気持ちを知ってもらいたい奴らがいるなんて。
「さて、今日はもう閉めるよ。陽菜ちゃん、今日は助かったよ。唯人君のおかげで片付けが楽だし、これからも手伝ってくれると助かるな」
「うん、手伝いなら任せて。それじゃあ、唯人、帰ろうよ」
「あ、そうだ、唯人君、肝心なことを話してなかったね」
ランナーさんの言葉に、事務所から身体半分が事務所の外に出ていた俺は勢いよく振り返る。きっと、それがオレの求めていた答えだから。
「わたしがランナーを続けているのはね、好きだからだよ」
「……それだけですか?」
「ああ、好きで好きでたまらない。だって、走るのが楽しいから。それ以上の理由は不要だよ」
――心にかかっていた雲がぱっと晴れた気がした。
単純な理由だというのにこれ以上の答えが見つからなくて、オレもこの気持ちは知っているはずだ。
商店街を歩く陽菜さんと二人の帰り道、まずは小さな一歩を踏み出す。
「陽菜さん、今度、オレが隠していることを聞いてもらえませんか?」
「いいよ、でもどうしたの? 私でいいの?」
「心の準備が必要というか、最初に話す相手はあいつがいいかなって」
「そう、いい友達だね。兄妹揃ってちゃんと話を聞いてくれるから」
どうやら陽菜さんにはオレが最初に話す相手がバレバレのようだった。思考が読まれているようで恥ずかしいような、オレのことを知ってもらえているようで嬉しいような。
少し曖昧な気持ちも今はなんだか心地よくて、思わず下手なスキップでもしてしまいそうだった。
「ああ、あいつならオレの話を聞いてくれる信頼がある。部屋に戻ったらさっそく電話してみるよ、あいつに、……一颯に」




