197グランドルート ミーティング
時間は俺がこの世界に戻ってくる前まで遡る。記憶にだけ存在するとある日常の一ページ。
俺が陽菜ルートをクリアし、『俺』の人格が聖羅ルートに飛んで行った一週間後の部活動。この日は文化祭で披露する舞台の脚本が配布されたそうだ。
夏休みに入って間もなく、真夏の太陽から隔離されたクーラーの利いた部室に集まった演劇部員たちは、部長の花恋さんと副部長の城戸先輩、あとは柊先輩を中心に会議をしていた。
わが校の演劇部は、文化祭はオリジナルの舞台を披露する伝統があり、今年も例外に漏れず、オリジナルの脚本で挑むこととなった。
「こちらが今年の脚本でございます。弟よ、配布をしなさい」
「はい、姉上。演出上、変更せざるを得ない場合は早めの報告をお願いしたします」
脚本を担当した皆本先輩は姉弟の双子で、丸っこい体格に真ん丸眼鏡。脚本担当というよりは参謀に近い印象を俺たちは抱いている。
「本日は部長から役の発表があるとのことで、弟とともに急ぎ、書き上げた脚本でございます。では、これで失礼いたします」
皆本先輩たちが席に着き、ホワイトボードの前に立った花恋さんが登場人物の名前をペンで書きだす。手が届かない上の方は城戸先輩が変わって書いていた。
「それでは、主人公とヒロインの発表と、以下、エキストラのオーディションについて説明するわ」
どうやら主人公とヒロインの役はすでに決まっているらしく、城戸先輩がすらすらとボードに書いていく。
「主人公の王子役は、霜月一颯。ヒロインは霜月心春よ」
「はい!? 俺?」
ホワイトボードにも間違いなく俺の名前が書かれていて、心春は知っていたのか緊張した面持ちで拳を握ったり開いたりを繰り返していた。
「花恋、伝えてなかったの?」
「えっと、……ごめんなさい。そうだったわ、伝えてなかったわね」
花恋さんは俺の顔を見て、あっ、と何か思い出したかのように謝った。
どうして心春には伝えてあるのに、俺には伝わっていなかったのか分からないが、そもそも俺が主役というのはどういうことだ?
「あの、なんで俺が王子役なんですか? 柊先輩のほうが適役じゃないですか」
「あなたには言い忘れていたけども、これは先月には確定していたことなのよ。一颯が主役なのを前提に脚本も出来ているわ」
ならば柊先輩のような煌びやかな脚本ではなさそうだ。俺には観客を魅了させるほどの輝きは持っていない。
だからといって主役を張れるほどの演技力もないのだが……。
「それに、あなたはちゃんと稽古に励んできたわ。この脚本のための演技力もだいぶ身についているわよ」
「俺がいつ表舞台の稽古を……あれ? やってきたんでしたっけ?」
なんだか記憶が曖昧だ。たしかに城戸先輩や柊先輩に手取り足取り教えてもらった記憶がある。だけど、それを鮮明に思い出せないのはなぜだ?
「それと、今回はダブルヒロインで花恋もヒロインだから。一颯、あんたは二人と稽古しなさい」
城戸先輩がホワイトボードのヒロインに花恋さんの名前も追加する。
「えっと、脚本を読む限り、これ、恋愛ものですよね? 俺にそんな、できるわけ……」
これには周りも気になっていたのか、花恋さんたちに注目が集まった。
花恋さんが脚本を手に取り、なぜ俺が主役なのか説明する。
「できるわよ。『一颯』ならできるわ。それだけの力はあるもの」
「そんな、嬉しいですけど、大役すぎて自信ないですよ」
花恋さんの信頼は嬉しいが、俺には荷が重い。主人公なんて……、だって柊先輩と比べられるのは確定だし、観客だって最後の舞台として柊先輩の主役を望んでいるはずだ。
だから断ろうと思った。せっかく主役に抜擢されたけど、嬉しいけど、俺には観客を魅了させられるほどの演技力はないから。
「一颯くん、頑張ろうね!」
「心春……」
そうだ、心春はどうしてヒロインに抜擢されて頑張ろうと思えるのだろうか? 城戸先輩なら最後のアドリブだって対応してくれるだろうし、花恋さんとの二人なら舞台がより一層映える。俺の相方が心春ならやりやすいだろうという考えかもしれないが、どうしてもうまく演じられる気がしない。
「心春はヒロインになれて嬉しいか?」
隣に座る心春に、何か否定的な期待を求めて声をかけると、やはり緊張した面持ちで、だけどニコッと笑った。
「もちろんだよ。一颯くんのお姫様になれるんだもん。そのための稽古は毎日頑張ってきたし、一颯くんの王子役も楽しみだな」
「そ、そうか、俺の王子役が楽しみなのか……」
「うん、ちゃんと稽古には城戸先輩と柊先輩が付き合ってくれるし、もしものときには花恋さんが引っ張ってくれるもん」
もしかして、花恋さんもヒロインなのは最悪の事態を想定して? そこまでして俺と心春に主役を期待しているのか?
手汗が酷い。どう説得したのか分からないけど、周りからの期待の眼差しがチクチクと突き刺さる。
これがやる気のツボにでも刺さってくれたら嬉しいんだけど、今の俺には緊張が増すばかりだ。
他の配役も決まり、さてこれから本格的な稽古が始まる。生半可な気持ちで乗り越えられないことは当然だが、それについていけるだけの胆力を持ち合わせているかどうか。最低でも観客の落胆した気持ちを塗り替えるほどの演技力を身につけなければ……。
「一颯、顔を上げなさい」
机に視線を落としてばかりで、花恋さんから声をかけられて顔を上げると、やけに視界が広がったように思えた。
「一颯、怖いかしら?」
「はい、……正直、今の俺には荷が重すぎると思います」
「そうね、手が震えているもの。このままでは演技そのものも震えてしまうわ」
利き手である右手がガタガタと震えている。いわれるまで気が付かなかった。俺の緊張はこんなにも目に見える形で現れていたのか。
押さえつけても収まらない。今まで名前すらないアンサンブルの役しかやったことがないのに、突然の主役。当然だ、トイレに駆け込まなかっただけ褒めてほしい。
こんな震える俺の手を、隣に座る心春が握ってくれた。
「大丈夫だよ。怖くなんかない、せっかくの主役なんだよ。いっぱい稽古して、本番は楽しめるようにならないと」
「そう簡単に言うなよ。それで気持ちが切り替えられるなら、この手の震えは止まっているよ」
「今は震えてもいいんじゃない? 震えているのはこれから先の領域が見えていないから。私だって緊張で足が震えているもん。一颯くんなら、これくらいのことじゃ負けないよ」
手の震えは収まらない。でも、これが収まったとき、俺は自信に満ち溢れて演技することが出来るかもしれない。
まだ時間はある。毎日の積み重ねを本番まで欠かさずに励む。それだけが俺に出来る主役の務め。
「俺、頑張りますよ。期待に沿える主役になってみせます!」
椅子から立ち上がり高々と宣言すると、周りからの拍手に今度は全身が震えた。
これでいい。震えが大きければ大きいほど、自信という形に変わり、大きな山となって身につくのだから。