193グランドルート 空の靄
ふと、あることを思い出して屋上へと足を運んだ。
残暑が続くこの季節は風が生ぬるく、ブレザーを着るには少々汗が気になった。
それでも屋上へ向かうのにはシナリオが関係しているからだ。
待ちに待たされた伏線の回収、そのタイミングを見計らわなければならない。
屋上へと続く窓を潜り抜けると、カラッとした太陽が出迎えてくれて、額には玉の汗が浮き出る。
「あっつ……、これ、本当に明日から涼しくなるのか?」
天気予報を信じ切れず、俺は屋上扉からは死角になっている端へとある人物を探す。
「あっと……、いないのか。うーん、何か変化があると思って聞きに来たんだけど、やっぱり唯人の傍の方が楽しいか」
予想では、床にシートを敷いて座り込み、何もない空を見上げる月宮さんがここにいると思っていた。しかし、ここには誰もいない。
月宮さん曰く、空には透明な球体が浮かんでいるそうだが、それは俺にも、そして主人公である唯人にも見えない。
なぜ月宮さんだけに見えるのかは不明だが、考えられるものとしては、メインヒロインだから。理由になっていない気もするが、これ以上の予想も難しい。
月宮さんがいつも座っている場所に俺は座り、同じように空を見上げた。
相変わらず空には何も……なにも? あれ? なんだあれは?
「白い……もや? でも、球体でもなんでもないぞ、これを月宮さんは知っているのか?」
フェンスに近づいて覗き込むようにじぃっと眺めてみるが、ふわふわとそこに浮かんでいるだけで、霧散する様子はなかった。
もしかしたら唯人との時間に水を差すことになるかもと、こちらからの連絡は控えていたが、たまらず携帯を取り出して月宮さんに電話を掛けた。
少々時間がかかったが、月宮さんの携帯へと無事に繋がった。
「もしもし、月宮さん? 霜月だけどさ」
『うん、突然電話なんてどうしたの? 私、まだ教室にいるけど、どこかで話す?』
「あ、そうなのか? じゃあ、空の球体について聞きたいから屋上に来てもらえないか?」
『屋上……、え? もしかして一颯君にも見えてるの?』
「そうなんだ、それでちょっと聞きたいことがあるんだ」
『分かった。すぐに行くよ』
ぶつっと切れた携帯をポケットにしまってからものの数分。屋上の窓から月宮さんがやってきた。
手を貸して招き入れ、二人で空の靄がよく見える場所で空を見上げる。
うごめいて空に浮かんでいるが、やはりあそこから動く気配はない。なんとなくだけど、俺にはあの靄が何か意志を持ってここに滞在しているようにも思えた。
「一颯君には教えてなかったね。実は先月の終わりくらいかな、突然音もなく弾けたの。膜みたいなのはなかったから崩れたというのが妥当な表現かな? どうして崩れたのかはわからないけど、一颯君には見えることに何か意味があるんだとは思うよ」
「もしかして、唯人には見えていないのか?」
「うん、見えていなかったよ。だから一颯君が見えていることに驚いているの。どうして?」
「いや、俺も分からないけど、むしろ唯人が見えていないことが疑問なんだけど」
「そんなに唯人が見えていないことが不自然かな?」
「あ、いや、そういうわけじゃないよ、悪い、忘れてくれ」
月宮さんはこの世界のことについては何も知らない。唯人が主人公だってことも、自分がメインヒロインだってことも知らない。だから唯人が見えていないことに不思議なことはないし、だからこそ、なんで俺が見えているのか分からない。
「あれはいったい何なんだろうね? ずっと空に浮いて漂っているだけなのに。あれを見ていると、どうしてか心が弾むの。私はあれを知っている気がする。でも昔にあんな靄を見たことなんてない」
……実は、あの靄の正体についてなんとなくの予想はついている。正確に何なのかはわからないし、自信もない。もしかしたら、程度の予想でしかないが、透明の球体が崩れたタイミングは、ちょうど愛陽が俺たちの前に姿を現したタイミングに近い。
そもそも愛陽という存在が初めて大きく動き出すのがこのグランドルートだ。今まで謎のまま放置されていたことが一気に動き出すタイミング。何かしらの関係があるのだとすれば、やはりあの靄は愛陽の存在に関係していると考えられる。
「よく、わからないね。どうしてあんなのが空にあるのかな? それで、なんで私と一颯君しか見えないのかな? それとも、もしかして……」
月宮さんが一度言葉を切って俺の顔をまじまじと観察した。シミ一つない綺麗な顔が目の前にあって、こういうのは唯人だけにやってあげてくれ。
「もしかして、私と、一颯君にしか、見えてほしくないのかな?」
「そんなことが考えられるか? 俺と月宮さんの共通点なんて、何もないだろう」
「そうかもね。でも、私はこの説はあながち間違いじゃないと思っているよ。結構自信があるんだ」
一体どこからその自信が湧き出てくるのか。確かに俺と月宮さんしか見えない理由なんて思いつかないけど、だからって、俺たちにしか見えてほしくない。なんて、靄にどんな意思があるというんだ?
「あれが何を待っているのか、私にそこまでは分からないよ。でも、一颯君が見えるようになったということは、あの靄が一颯君のことを求めているってことじゃないかな?」
「なんの確証もないのに、ずいぶん先読みした考えだな。俺にはただのんびりとそこに浮かんでいるようにしか思えないよ」
愛陽と関係があるならば、愛陽が俺を求めている? ははは! そんなわけないだろう。
あいつが探しているのは唯人だ。会おうと思えばすぐにでも会える唯人を探している。
目的が何かなんてわからない。どうしていきなり姿を現したのかなんて本人にしかわからないことだ。
この靄のせいで謎が深まった。きっと愛陽本人に話を聞いても教えてはくれないだろう。俺に出来るのは、主人公の友人らしくシナリオが進行するまで待つことだ。もしくは、唯人が何かに気付くきっかけを作ること。
「月宮さん、このことなんだけど、誰にも教えないようにしてくれないか? もし話すなら、俺のことは絶対に内緒にしてくれ」
「どうして?」
「どうして、と言われたら困るんだけど、……ごめん、理由は言えない。俺個人の事情なんだけど、それを言うことはできないんだ」
「そうなんだ。うん、わかった、誰にも言わないよ。約束する」
「ありがとう。この靄について何かわかったら連絡するよ」
そろそろ唯人の部活も終わる頃だ。月宮さんは柔道部へ向かう。俺は頭を整理しながらのんびり帰ろうかな。
そういうわけで校舎内へ戻り、柔道場で別れようとしたとき、月宮さんがお茶会のお誘いをしてきた。
「今度のお休みに、心春ちゃんと一颯君はどうかなって思って」
「でもせっかくの休みに唯人とデートじゃなくていいのか?」
「からかわないでよ。一颯君、最近唯人と遊べてなくて暇だなってぼやいてなかった?」
それは“本来の俺”だ。俺のことではない。ただ、俺はずっと、唯人とどこか遊びに出かけた記憶がない。ずっとヒロインに譲り、俺は身を引いてきた。
「そうだったな、ならお邪魔させてもらおうかな。場所は唯人の部屋?」
「ううん、私の方。時間は前日までに知らせるね」
「心春には俺から話しておく。多分来てくれると思うし俺も行く予定だから、よろしく」
空白の時間をここで埋めておけるのはありがたい。これからの方針も決める機会としても申し分ない。
それじゃあ、と月宮さんとは別れ、すぐやってくるお茶会にどんなお土産がいいか、俺の足は自宅から商店街へと向いていた。