179〈サラ〉この世の
三日後、一颯さんは帰らぬ人となった。衰弱死だった、精神に大きな病を抱えたまま、心春先輩の必死な呼びかけも届かず、涙で枕を濡らしたまま静かに息を引き取った。
……なのに、私はどうしてここに残り続けているの? 数字の海に飛ばされない。追いかけるように崖から身投げしたが、軽傷で済んでしまう。崖下がごつごつした岩場だということを確認して、それでも私は完治まで五日以上かかる怪我を負うことはなかった。
心春先輩も、二階堂先輩も、神楽坂先輩や唯人先輩まで、みんな毎日がお通夜みたいに元気が無くて、知り合いでも何でもない私には声をかけることすら許されない雰囲気だった。
やっと心春先輩たちの卒業式まで季節は流れ、リスタートできる。
私は間違っていた、だからやり直す。大きなマイナスからのスタートだけど、時間は、それこそ永遠のように存在する。
数字の海を漂い、なぜか物寂しい思いに包まれながらたどり着いた世界は……、私の知らない、虚無の世界だった。
「霜月さん? ……そんな人いたかな? ねえ、誰か知ってる?」
いつもみたいに開始直後に連絡してもメールが送れない。だから直接会いに来れば、友達だった神楽坂先輩ですら一颯さんと心春先輩のことを知らなかったのだ。
「どういうこと? ……なんで?」
訳も分からず一颯さんの家まで確認しに行けば、そこには誰も住んでいない古い貸家が一つあるだけで、表札にはかすれて見づらい難読の名前が彫られていた。
「どう……して? どこに行ったんですか?」
呟くように呼び掛けても、一颯さんの声は帰ってこない。二人で居るといつも頭を撫でてくれた一颯さんはどこにもいなかった。
周囲の人にも聞いてみたが、誰も霜月という名前は聞いたことがないという答えを貰うばかり、誰か引っ越してくるとか、そういう予定もないらしい。
じゃあ、もし一颯さんがこの地に引っ越してくることが無いとすれば、……それはどのような場合だろう?
「もしかして、一颯さんは事故に遭っていない?」
過去に落石事故で父親を亡くした一颯さんは、心春先輩の父親と再婚した母親と共にこの街へとやってくる。
だとすれば、落石事故に遭わず、違う街で暮らしている可能性が高いのでないだろうか?
でもどうやって探す? 前にどこの街に住んでいたか詳しくは聞いていない。たしかここからそう遠くない街だったと思うけど……、とにかく、まずは落石事故について何かヒントはないか探してみよう!
図書館に行って、パソコンで当時のことを調べてみた。落石事故自体はあったらしく記事はすぐに見つかった。
そして、読み進めていくうちに、私の手は震え初め、机から握っていたマウスを落とした。
「そ、そんな……ありえない」
画面の記事はフェイクニュースか何かだと、これは夢なんだと現実逃避したくなる。
だって……、だって!
「一颯さんも、心春先輩も……事故で亡くなった?」
サーっと血の気が引くのを感じる。写真には、ワゴン車二台が完全に岩の下敷きとなり、誰が見ても分かるほど大破していた。これが一颯さんの乗っていた車なのかは不明だが、すぐ下の記事で判明した。
「霜月夫妻と娘、……佐藤夫妻と息子。間違いない……一颯さんの旧姓は佐藤だから」
もうこの世に一颯さんがいない現実は、目の前の写真が証明している。他の記事を探しても同じ、不慮の事故により亡くなったとだけ。
……それから自分が何をしたのか覚えていない。落ち込んでとぼとぼ寮へ帰ったのか、発狂して司書に追い出されたか、そして、私は今、落石事故が発生した街に足を運んでいる。
夜も近いこの時間に、明日のことなど何も考えていない。財布は軽くて、携帯も充電がほとんどなかった。
なけなしの財産で電車を乗り継いでやってきた知らない街、私が調べたのは、郊外に位置する霊園。
広くはないから、三十分ほど歩き回れば、目的の墓石は見つかった。こんな時に運だけはいい。
定期的に誰かが掃除しているのか雑草は毟られていて、墓石も汚れは目立っていない。
手ぶらの私にお供えできるものなどないが、せめて目を瞑って手を合わせた。
「……一颯さん。なんですか? この世界は。まるでこの世の地獄です」
冷静に話しかけているつもりで、目の端から涙の玉がどんどんあふれ出してくる。耐えきれなくて膝を着き、むき出しの土を握る。
私が世界をおかしくしたから、神様の罰が当たったんだ。間違い続けたから、一颯さんが私の手の届かない場所に、心春先輩と共に行ってしまった。
「う、うぅ……うわああああん!」
慟哭が漏れ、嘆きの涙は無機質な土に染み込んで消えた。土の下で眠る一颯さんには届かない。
「うぅ……、好きです! 一颯さんのことが大好きです! だから、戻ってきてください! 謝りますから、私は一颯さんがいないとダメな女ですから、せめて……あと、一度だけ、私に振り向いてください」
ここはゲームの世界なんだから、元メインヒロインだった私の嘆きに応えてくれてもいいじゃないか。
たしかに気が狂って一颯さんを追い詰めてしまった。私のわがままに付き合わせてしまったが、ここまで私と一颯さんを離す必要はないでしょう?
脳内のファイルは健在。シナリオは絶賛進行中だけど、こんな状況で最後までシナリオが完成するはずがない。
一度リスタートすれば元通りになるかもしれないが……いや、ありえない。せめて数字の海に辿り着ければなにか変わるかもしれないが、それまでの時間をどう過ごす?
このままだと、私は一颯さんに恋焦がれて、心が堪えきれなくなる。
「待っていてください。すぐに見つけ出してみせますから」
この世界は偽りだ。そして、偽りの恋など存在しない。
だから私の抱く恋心だけは本物なのだ。
たとえ神様が用意したシナリオの上を歩いているのだとしても、私が一颯さんに寄せる好意だけは偽物と言わせない。
誰にも負けないこの思い、一颯さんを振り向かせるために、私はここからがむしゃらに歩き始めた。