172恋の味
サラが目を覚ましたのは、本人の予告通り昼を少し過ぎた頃だった。
パチッと瞼を上げたサラは目の前に俺がいることに驚きを隠せずにいた。
「な、なんでまだいるんですか!」
「だって離してくれないんだもん、いまこの瞬間のサラの体勢を見てみろ」
サラは自分がどのような体勢で寝ていたのかを確認すると、頬を赤らめてパッと離れた。
俺は昨日、学校帰りにそのままこの部屋に来たせいで制服のままだ。シャツとズボンはくしゃくしゃで、帰ったらアイロンをかけないといけない。
寝ぼける暇もないほどに慌てふためくサラの頭にポンと手を置く。
「とりあえず顔を洗って寝癖を直してこい。話は食堂に着いてからな?」
俺の腹の虫は容赦なく空腹を知らせ続ける。俺がかなり限界の近いことを理解したサラはベッドから飛び降り、冷蔵庫から栄養ゼリーを取り出してくれた。
「これで少し耐えてください! 三分で準備しますから!」
「別に慌てなくていいからな」
本当に慌てなくていい。今の一瞬ではだけたネグリジェは最低限の仕事しかしてなかった。とっさに視線を逸らしていなければ危うかったかもしれない。
ゼリーの袋を押しつぶして中身を口に含み、誤魔化しにもならない空腹に耐えること数分、サラはばたばたとしたまま戻ってきた。
「お、お待たせしました!」
「おう、そういえば今日は休みだったな」
水色のノースリーブシャツとクリーム色のハーフパンツ姿のサラは俺の手をぐいぐい引っ張って部屋から出る。
私服姿のサラが部屋から男を連れ出したことにより、廊下にいた他の女子が若干どよめく。
そういえば許可を取ったとはいえ、サラには隠れながら部屋に連れていかれたから女子寮に男子がいることは知られていないんだよな。
花恋さんと城戸先輩に話を通さずここにいるから、後で何を言われるか考えただけで恐ろしいな。
好奇の視線に晒されながらたどり着いた食堂に人は疎らながら存在していた。昼食の営業が終わるギリギリの時間で滑り込み、俺は寝起きでも豚骨ラーメンの大盛り、サラは朝食向けの鯖定食を食堂のおばちゃんに渡した。麺を茹でるだけの出来合いの物をプレートに載せられていき、僅か一分でそれぞれ注文した料理が出来上がった。
席はどこでもいいができれば窓際がいいなと思って歩き出すと、すぐ近くから知っている声が聞こえてきた。
「お、一颯がこの食堂にいるとか珍しいな。それになんで制服のままなんだ? シワだらけだし」
「ゆ、唯人かよ、驚かせないでくれ」
……やっばい。一番このタイミングで遭遇したらいけない主人公様に声をかけられた。
俺のすぐ後ろにはサラがいるし、窓際で一緒に食べようとしていたのが丸わかりな光景に言い訳の一つも思いつかない。
ド根性で冷静を保っているふりをしているが、背中の汗が酷いことになっている。
「サラちゃんと一緒に昼食とか、やっぱり仲がいいんだな」
「いや、仲がいいというか……」
「はい、仲良しなんですよ! 一緒のベッドで寝るくらいには」
「おい! それは――」
「一颯……お前」
サラの爆弾発言には他の食堂利用者にも聞こえていて、ざわざわと俺たちのことを噂し始めている。
だから唯人に会いたくはなかったのだ。サラは唯人と恋人になる気はないから、ヒロインとして唯人の好感度を下げなくてはならない。それを俺は利用された。
「ま、まあ? 一颯がサラちゃんと仲がいいのはいい事だし? 一緒のベッドで寝ているというのは高校生なら、お、おかしくはないんだろうな? うん、そうだな」
「落ち着け、高校生の男女が恋人でもないのに同じベッドで寝るのは十分おかしいことだからな」
「一颯先輩、私と寝たことは認めるんですね?」
「いや、もう手遅れだし、サラは余計なことを言わないでくれ。唯人がバグっておかしくなってるからこれを治さないと」
女性とのかかわりがほとんどなかった唯人には刺激の強い話だった。そもそも想像出来ていない可能性にかけたが、こうしてバグっている以上手遅れだった。サラと一緒のベッドで寝た事実は残念ながら残り続けてしまう。
「サラ、狙ってやっただろ」
「はい。周囲に認知させるにもいい機会だと思ったので」
「恩を仇で返すなよ……、せっかくこの時間までサラに付き合ってやったのに」
「そんな、仇で返したつもりは……、いえ、結果的にそうなりましたね、ごめんなさい」
素直な謝罪に気が抜ける。わざとではなかったようだが、相手が唯人だったがために大きな誤解を生むだろう。……ああ、フラグがどんどんへし折られていく。この先どうやって二人を恋愛関係に持ち込ませればいいんだ? 時間が経つにつれ唯人のサラへの恋愛感情は薄れていくし、サラにとっては好都合だからやりたい放題俺を振り回してくる。
最終防衛ラインは守っているものの、愛陽の正体をサラが知っていれば、俺に勝ち目は一切ない。
サラルートのシナリオは白紙に、神の力によって都合よく白紙に戻せたがそれで俺の勝ちが決まったわけではない。これでやっと互角に見せかけることが出来ているだけだ。
これでもまだ俺の不利は変わらない。互角だと思っていた勝負なのに、サラは思った以上にこのゲームの核心に近い存在。まだ愛陽の幼馴染だという切り札が残されている。しかし、サラと唯人の恋人関係は最悪おまけと考えてもいい。ここまで来たらどんな終わり方をしようが、勝てばいいの精神で突き進むのみ。
愛陽の正体さえ暴かれなければ俺の勝ちなのだ。答えを既に知っている可能性のあるサラは、答えればグランドルートでも愛陽に迫る必要がなくなり、矛盾を起こす。どんなバグが生まれてしまうのか考えるだけでも恐ろしい。
サラに勝利条件はなくなり、俺は最終目標を失いつつある。互いにじり貧の勝負を繰り広げているが、なんとかシナリオとしての体裁は保たれている。
唯人とサラの関係だけが現状を繋ぎとめているにすぎないのだ。
「そんじゃ、オレはもう食い終わったから食後の運動に行ってくるわ」
すっかり調子を取り戻した唯人が残っていた白米をからあげと共にかきこみ、コトンと音を立てて茶碗を置いた。
「よく食い終わった直後に動けるな。俺なら苦しくなって倒れるぞ」
「はっはっは! 慣れだよ、慣れ」
お盆を持って立ち上がった唯人は食器もろもろをカウンターに返却し、食堂から出て行った。少しふらついて見えるのはまだ先ほどの刺激が残っているからかもしれない。
俺たちは唯人の背中を見送り、最初の予定通り窓際の席に座った。
唯人と話していたから自分が注文したのがラーメンだったことを忘れていた。大盛りが更に大盛りへと変化しつつある。
「そういえば、一颯先輩は私に何か用があったんじゃないですか?」
その言葉に、俺は昨日の目的を思い出した。
「ん? ……ああ! そうだよ。昨日、サラに話しかけたのは教えておきたいことがあったからなんだ」
俺はラーメンを頬張りつつ、サラに舞台について話した。
愛陽が舞台に立つことを事前に伝え、ループする世界とはいえ、舞台を台無しにしないようサラに釘を刺しておく。
サラは今すぐにでも愛陽について問い詰めたそうに表情から余裕がなくなっていたが、どうせ俺に問い質しても何も分からないと思っているのか、ゆっくりと白米を口に運んだ。
「一颯先輩と愛陽ちゃんが最初に出会ったのはいつなんですか?」
毎度の如く、愛陽についてはどこまで正直に話していいか迷う。だけど、愛陽は幼馴染のサラのことを振り切って自由に行動しているみたいだし、嘘を吐く必要はないかな?
「最初に出会ったのは去年の春だな。俺が高校に入学してすぐだ」
「そういえば、愛陽ちゃんらしき人物が舞台に立っていましたね。すごい人気でしたから覚えてますよ。……でも、それ以降は」
「ああ、一年以上姿を見せなかった。俺がこんな状況に巻き込まれてからやっとだな」
互いに何年も前のことを思い返す。俺がまだ高校一年生で、サラがこの高校を見学に来た中学三年生だった頃の話だ。
「ほとんど覚えていませんね」
「ああ、覚えていない。断片がたまに思い出せるくらいだ。でもサラと出会った日のことは覚えているな」
「私も覚えていますよ。変哲もない、私が移動教室で筆箱の落とし物を一颯先輩と心春先輩が拾ってくれたんですよね」
それはこちらでの話。俺とサラの出会い。たったそれだけのことでそれ以上に会話もしなかった。それでもなぜか記憶に新しいと思えるほど鮮明に覚えている。
「そうだったな。……なあ、サラ、何度も聞くけどさ、唯人と付き合う気はないのか?」
「ないですよ。私にそんな気はありません」
少々うんざりといった顔で答えるサラは、どこか気が冷めているように見えた。
唯人に対して別にどうでもいいとばかりに返事が適当だったのだ。
「サラ、もしかして、唯人への思いが冷めてきていないか?」
「何を言うんですか? 私の気持ちは今も昔も変わりませんよ」
「その割にさっきは無理に猫被っていたように見えたぞ」
俺と唯人での態度の差には違和感を覚えていた。唯人が好きだから気に入られようとしているのかもしれないが、最近は朝に唯人と中庭で会っていないと聞く。やっぱり何か見落としているように思えて仕方ない。
「神楽坂先輩が私のことで気付いていたようですし、一颯先輩にも伝わってしまっているようなので教えてしまいますが、私には別の目的があります」
「お、おう! そうだったのか、ちなみにどんな目的だ」
「一つは愛陽ちゃんを探す事。今の私のルートが正しく進めば愛陽ちゃんは私の前に現れてくれるから、それまでは大人しく一颯先輩の思惑に乗ってあげます」
いままで無理にゲームを壊しに来なかったのはこういった事情があったかららしい。なるべく正体を隠し通すことで、ぎりぎりまでサラルートを終盤まで引っ張れば勝機はあるかもしれない。
「もう一つは……秘密です。というより、叶いませんから、諦めています」
「諦めているなら教えてくれないのか?」
「一颯先輩には教えられません。……いえ、もしかしたら、もう叶っているからこれ以上先に進みたくないのかもしれません」
「よくわからないが、いつか教えてくれないか?」
「もし私の目的、……いえ、願いを口にする機会があれば、その時に……ごちそうさまでした」
俺もラーメンを食べ終わり、食器を片付ける。食堂を出ると、クーラーの利いた室内と違って容赦ない日射が襲い掛かってくる。
暑くて、暑くて。また女子寮に入るのも忍びなくて、荷物を取ってきてもらおうとサラに声をかけようとすると、彼女は近くにあった自販機のボタンを押していた。
二本のペットボトルを持ってきて、一本を俺に渡してくれる。
「昨晩のお礼です。暑いですから、熱中症には気を付けてください」
渡されたスポーツドリンクは、メーカーが恋愛を押しているのか、プラスチックの懸け紙には『初恋の塩分!汗の輝き!』とかいう担当者が違えば没になりそうなキャッチフレーズが印刷されていた。
「初恋にこだわる必要って、あると思いますか?」
「どうだろうか? でも、初恋が実るってすごいことだよな。恋愛小説や恋愛ゲームみたいに一途な愛を追い求めることなんて中々ないだろ? 俺はありがたいことにそういうことには恵まれているけど、サラは、……俺のことを好きになって後悔したか?」
この質問に他意はなかった。答えなんて決まっていて、どんな酷い言葉を投げられるのだろうかと若干身構えたほどだったが、彼女の口から出た言葉は、意外なものだった。
「そんなこと聞かないでください。私はたった一度も、一颯先輩との付き合いで後悔したことなんてありません」
サラは俺に背中を向けて女子寮へと逃げるように去って行った。
あれだけ目の敵にしておいて、俺のことを嫌いになっていないとは思ってもいなかった。
ペットボトルのキャップを力任せに外し、昼食でかなり膨れた胃にスポーツドリンクをすべて流し込む。
まだ汗をかいていないし、塩分だってラーメンで足りていた。だからこのスポーツドリンクの味は薄く感じられるし、ほのかに甘いだけの水だった。
「…………」
一度は忘れてしまった思い出から、サラとの出会いを思い起こす。俺がまだ中学生だった頃。街でたまに見かける銀髪の少女がいた。
何か俺と関りがあったわけではない。声をかけたことはおろか、視線を合わせることも無かった。
「甘いな」
後味が引く淡く儚い甘み、これが俺にとっての恋の味なのかもしれない。
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