16ゲームスタート
今朝は少々冷え込んでいてカーテンの隙間から差し込む冷たい朝日に肩を震わせた。
頭上の時計を片目で見てみれば、始業の時間に間に合わせるまでに十分の猶予しか残されていない。
「やべ! 今日はやることが多いのに!」
学校には早く行って先生に無事だったことを伝えておきたいし、唯人の行動も可能なら教室に入る前から観察しておきたい。
ストーカー上等、情報収集の為ならなんでもやってやる。
顔を洗って気合を入れ、リビングに顔を出すと、ちょうど父さんが仕事に出るからと弁当をカバンに詰めているところだった。
「おはよう。心春は起きてないの?」
テーブルには二人分の朝食、いつもは二人で食べるか、布団に縋っている俺を抜きに心春が先に食べているのだが……。
「おはよう、一颯、心春は珍しく寝坊か? たまには一颯が起こしてやれ」
「はーい」
そうか、遅刻ギリギリまで出社しない父さんを急かすのは心春の役目だから、この時間でも父さんが家にいるのか。
下りてきたばかりの階段を駆け上がり、心春の部屋の扉を二回ノックする。しかしそれだけでは内側から物音一つしない。昨日、あれだけのことがあったんだ、変な影響を受けて起きられないじゃないかと不安を抱き、扉を勢いよく開け放つ。
「心春! 大丈夫か!?」
ベッドに駆け寄り、掛け布団を引きはがす。そして、すやすやと寝ている心春の安心切った寝顔に魅了され心を乱しそうになりながらも安堵の息を漏らし、心春の肩を掴んで大きく揺らした。
「おい、心春、起きろ、遅刻するぞ」
「……うみゅ? 一颯くんだー。おはよう」
早起きできるくせに、寝起きだけは人一倍弱い心春のぽわぽわした気の抜けた挨拶には俺のほうが気が抜けてしまいそうだ。
机の上には日記があるから、おそらく昨夜に書くことが多すぎて遅くまで時間がかかってしまったのだろう。律儀なことだ、俺なら絶対後回しにして寝る。
「着替えるなら俺が出て行ってからにしなよ」
「う? ……あーい」
すでに寝間着のボタンをすべて外して胸の谷間を露わにしていた心春に慌てて顔を逸らして部屋を出る。朝起きてから約五分間は無防備になる心春はいつも心配だ。朝のこの状態は俺のことを警戒しないけど、昔みたいに俺が心春の着替えを手伝うようなことはしづらい。だけど緊急事態の時はやむを得ない。一緒の部屋で寝て、何も気にすることなく一緒に着替えていたのは小学生までだ。
リビングに戻れば計ったように焼きたてのパンが皿に乗せられ、バターとジャムが隣に並べられる。
父さんは俺が心春を起こしに行っている間に家を出たようで、玄関とリビングを隔てる扉が開きっぱなしにされていた。
母さんも心春が寝起きに弱いことを知っているから、朝食も遅れて温め直している。オーブンにはパンがセットされていて、感覚では一分後にタイマーをかけるだろう。
時間が無いから口に詰め込むように食べていると、やっと寝坊していることに気づいた心春がばたばたと階段を下りてきた。
「わー! 寝坊した! なんか一颯くんが私の部屋にいた気がするけど寝坊した!」
「俺が起こしに行ったからな、早くしないと遅刻するぞ」
心春が席に着くとともにオーブンが鳴り、すっと焼きたてのパンを提供してくれる、流石母さん。
あっつあっつと指二本で器用に持ったパンに大きくかぶりつく心春。俺も負けじとサラダを口に詰め込んだ。
先に食べ終わった俺はさっさと歯を磨いて登校の準備をする。すぐに出られるよう心春の通学カバンもリビングに運んでおいた。
「はい、今日のお弁当、勉強頑張ってね」
「分かってるよ、行ってきます!」
「行ってきます!」
「一颯は無理しないようにね、それと車に気を付けるのよ」
母さんに見送られて、俺たちは速足に歩道を歩く。信号が変わりそうになったら走り、普段は使わない歩道橋を渡ったりもした。おかげで始業にはギリギリ間にあった。
昇降口には聖羅がいて、肩で息をしている俺たちを訝しがる目で見ていた。
「お、おはよう聖羅、今日もいい天気だな」
「突然どうした! たしかに天気はいいけど、誤魔化すのが下手すぎやしない? やっぱり頭やられた?」
「誤魔化すなんて、そんな……寝坊して焦っていたから語彙力を失っていただけだよ」
「昨日の件といい、逆に心配になるんだけど、まあ、元気そうだしいいか、心春もおはよう。急がないと先生と廊下で鉢合わせしちゃうぞ」
脳内にこびり付いている共通ルートにおけるシナリオを思い出す。たしか、唯人との初めての会合は教室での転校生紹介のシーンだ。
四人のルートで毎回同じ動きが出来るとは限らないが、シナリオを完成させて固めるためには矛盾の無いように動かなくてはならない。他ルートと照らし合わせて矛盾が生じれば、どちらかの行動が採用、またはカット&ペーストして統合される仕組みらしい。
今日みたいな寝坊した特殊な例を採用されてはちょっとダサい。先生と鉢合わせることなく急いで教室に入ってしまえば寝坊なんてあってないようなもの。
シナリオのすべては唯人目線で進行するのだから。
「心春、急ぐぞ! ちょっと時間がない」
「――ッ! 分かったよ!」
こんなこと昨日に話していなくても察しの良い心春なら何か問題が生じようとしている雰囲気を感じ取ってくれる。
「ま、待ってよ! 急がなくてもあと三分はあるから大丈夫だよ」
「はっはっは、聖羅ちゃん、私を捕まえてごらん!」
「ええ!? なんで追いかけっこしてるの!」
俺を置いて階段を駆け上ってしまった二人を俺も追いかける。一階分を上り、廊下を進んで角を曲がれば俺の教室、……二年一組はすぐそこだ。
階段を上り切ったところで戻ってきた心春は、少し心配そうな表情を浮かべながら俺のことを見つめていて、俺の手に自身の手を重ねてきた。もしかして、俺はどこか遠い目でもしていただろうか。
「一颯くん……」
「俺って、三年三組だったんだ。唯人……、これから来る主人公と同じクラスで、心春と聖羅が同じクラス、それでもずっと一緒に遊んでいたんだ」
あの楽しかった日々に思いを馳せる。夢じゃないのに、夢として片付けられてしまったあの思い出を、……いつかこの手に取り戻すことはできるのだろうか。
「大丈夫、心配しなくても俺はちゃんとやる。きっと……、上手くできるはずさ」
「……うん、私たちなら不可能なことなんてないはずだよ」
「はは、それは言い過ぎ。……でも、それくらいの気持ちで臨まないとな」
心春の頭を珍しくぐしゃぐしゃって撫でて髪を乱すと、ぷくっと片頬を膨らませて髪を直しながらも笑顔を取り戻してくれた。
もうすぐ始業のチャイムが鳴る。聖羅からも早く教室に入ってこいと催促の声が掛かった。
「じゃ、また後で、……これからよろしくな」
「これから『も』だよ、また後でね、一颯くん」
――教室に入ると同時に、“俺たちのゲーム”は始まった。
席に着いて、加賀美先生が前側のドアを開く瞬間を待ち遠しく思う。いつだって、誰だって転校生の存在は楽しみでしかないものだから。
また唯人と友達になろう。シナリオで決まった友達関係じゃない。男同士で結ばれるような誰よりも固い友情を。
そして心で誓った言葉は知らずのうちに小さく声に出していた。
「――絶対にクリアしてやる! あいつの思惑に乗ってやろうじゃないか!」