143旧心春ルート 〈心春〉馴れ初め
私は母さんみたいになりたかった。
お淑やかで、父さんやあのおじさんたちを引っ張っていける頼もしい女性に、私はなりたかった。
でも、母さんは私の目の前で亡くなった。毎年、お墓参りに行くとあの時の光景が鮮明に思い出せる。
救急のヘリコプターが崖下に落ちた私たちの救助に隊員が降りてきてくれたけど、切羽詰まった、それでなぜか辛そうな顔で私を母さんから引き離したこと、母さんの温もりはまだ残っていたから、私より重傷だった母さんを後にする理由が分からなかったのだ。
次に一颯くん、おばさんと続いて、いつまでも母さんが救助されないことがどういうことなのか理解し始めてしまった。
後からやってきたもう一基に任され、私たちは追い出されるように飛び去った。
“最後に”父さんが救助されたことで私は泣きだしたのだ。
おじさんと母さんは崖下に置き去りにされて、私たちは先に都内の病院へと搬送された。
それから詳しい話は聞かせてもらっていない。
初めて見る父さんの涙と、一颯くんを抱いて崩れ落ちたおばさんの姿しか思い出せない。
「お医者さん、母さんは?」
たったそれだけ、白衣を着た初老の男性医師に聞いた。答えなんて分かりきっているのに。
その医師は言葉に迷った様子で黙った。なにせ私は母さんが生きていると信じていると思われているから。
私は答えを聞く前に父さんに抱き着いたと思う。もう小学校も高学年なのに、まるで幼稚園児みたいに父さんに甘えた。
それで父さんは私を見て、少しだけ安堵した。
それはきっと私が父さんに似て、母さんには似ていなかったから。一瞬で私のことを見つけてくれたことが嬉しかった。
それからは現実が押し寄せてきて、一度は泣き止んだのに、一颯くんと一緒にいつまでも泣き続けた。
……辛かった。でも、もう乗り越えた。
〇
今日は母さんに呼ばれて少し晩酌に付き合うことにしたけど、突然どうしたんだろう? 一颯くんは父さんに呼ばれていたみたいだし、何か個別で話したいことがあるのかな?
「心春、ほら、座って座って、おつまみは枝豆と漬物でよかった?」
「うん、それでいいよ。別にお酒を飲むわけでもないし」
日本酒の一升瓶がテーブルの真ん中に鎮座していて、母さんがそれに手を伸ばそうとしているタイミングで私が席に着いた。
ボーンッとビンの内側から響く重い音を鳴らしながら蓋を開け、とくとくとく、と音を楽しみながらお猪口に日本酒を注ぐ母さんはやっぱり父さんから聞いた通りの酒豪だった。
足元にはウイスキーのガラス瓶があって、そういえばスーパーでいい氷を買っていたな。
「今の私は霜月のお母さんじゃなくて、お隣の佐藤さん宅のおばさんだから、こうして一緒に呑めるなんて嬉しいわ、心春ちゃん」
「えっと、もう酔って……」
「まだ素面よ、大丈夫、変に絡むような飲み方はしたことがないわ」
母さんではなく、昔の、一颯くんと幼馴染だった頃のような話がしたい母さんに合わせて、私もほんの少しだけ他人行儀な態度に変えた。
「どんな話があるの?」
御猪口に口をつけ、まずは小さく一口を飲んだおばさんは「素直にお礼が言いたいのよ」とお猪口を置いて、丁寧に頭を下げてきた。
「え? えっと……私、何か感謝されることしたのかな?」
「私の息子を、一颯をどん底から引っ張り出してくれてありがとう。心春ちゃんがいなかったら、きっと私は、……一颯を連れてあの人の後を追っていたかもしれないの」
思わず身構えて席から立ちあがる。でもそれは圧倒的に過去の話であることを思い出して座った。ちょっと恥ずかしい。
既に二杯目をお猪口に注いでいるおばさんは、注ぎ終わると同時に今度はそれを一気に飲み干した。
「私じゃ、一颯に声をかけるなんてできなかったからね、心春ちゃんがいなかったら、一颯も一緒に連れて行っちゃったかもしれなくて、今思い返しても、ばかな事考えていたなって」
「私には、一颯くんがいないと生きていけない呪いみたいなものがかかっていたから、先に立ち直って、ちょっとだけ一颯くんの手を離したけど耐えきれなくて、……結局縋り付いっちゃったから」
「それでもちゃんと一颯は元気になってくれた。なんなら心春ちゃんのことを好きになって付き合ってるんでしょ? 親としてはこれ以上ない喜びよ、あの人みたいにならなくて良かったわ」
隠しているわけでもなく既にばれていることだと思っていたが、おばさんに公言したことはなかった。だから覚悟を決めて伝える前に確認を取られることが少々照れくさい。
それはそうと、私は気になっていることがあった。
「そういえば、おばさんとおじさんはどこで知り合ったの?」
「あ、それ聞いちゃう? お酒ないと気持ちよく笑えないかもよ」
「え? じゃあ、何か飲み物もってきます」
「ここにあるから好きに飲んでいいわよ」
用意周到なことに、他にもぶどうジュースやアップルジュース、水や炭酸水もある。私に飲ませることが前提のお話だったようだ。
「それとも一口舐めてみる?」
御猪口をずいっと差し出され、そこにはなみなみと注がれた日本酒が強めのアルコール臭をこちらに漂わせている。正直匂いだけで酔ってしまいそうだった。
でもちょっとだけ興味がある。飲むわけではない、ほんの少し、舐めてみるだけならいいと思った。
枝豆を食べるおばさんはジョッキにウイスキーを注ぎ始めた。最初は炭酸で割るらしい。
誰かに見られていると飲みづらいからよそ見をしてくれているのかもしれない。お猪口を手に持ち、顔をテーブルに近づけるように、猫みたいに舌を出して……触れた。
「ん! ……からい」
アルコールの塊がどん! と押し寄せてきて喉がひりひりする。舐めるだけと思ったけど、舌先で掬って少しばかり飲んでしまったらしい。
子どもには耐えがたい苦みを含んだアルコールを消そうと枝豆をひっつかみ、押しつぶして口に放り込んだ。
「ふふ、まだ心春ちゃんには早かったようね、でもすぐにお酒は美味しくなるわ、……それで、あの人との馴れ初めだったわね」
喉奥に違和感を残しつつも、おばさんの話が気になって余計に枝豆で誤魔化す。
「あ、はい、付き合うきっかけとか、あのおじさんを思うと、当時はどうしたのか想像も付かなくて」
いつも髪をバックにしてワックスで固めていて、真っ黒なサングラスが似合う無精髭のおじさんは元々ヤンキーとして、だけど私の母さんにいつも制御されるように生きてきたと聞いている。
隆々とした筋肉は私と一颯君をぶら下げるほどに力強くてよく遊ばせてもらっていた。
そんなワイルドだった人がおばさんを選んだ理由がなんなのか、私はどうしても気になっていたのだ。
「初めて会ったのは大学に入学した直後ね。私と心春ちゃんのお父さんは幼馴染で一緒に行動していたの、そしたら同じく幼馴染同士だったあの人と心春ちゃんのお母さんと出会ったのよ、同じ学科で同じ幼馴染の関係、その日から自然と四人で行動するようになったわ」
「面白い関係だね」
「そう! なかなか見ない関係でしょ? それで、四人で行動していたら恋も芽生えるわけ。今まで隣にいた人ではなく新しく現れた目の前の人に、それが私はあの人だったの。……懐かしいわ、あの人ったら、……ふふ、……はあ」
おばさんは思い出し笑いをして一人アルコール臭い息を漏らした。これで酔ってないとは信じがたい。
この先が気になるけど、今にも泣き出しそうなおばさんを見ると、中々先を促せなくてもどかしい。
それからウイスキーを飲み干したおばさんはまた日本酒をお猪口に注ぎながら続きを話してくれた。
「告白はあの人からだったわ、平日のキャンパスに一人、真っ白なタキシードを着てこちらに歩いてくる強面の男性、それがあの人だと分かった私は思わず逃げだしたの」
「それは……うん、なんか怖いね」
「それで、同じ学科の人たちに怒られたみたいで、次の休みの日に今度はアポを取って呼び出されたの。反省はしたみたいだから奇抜なことはしないだろうと思って、素直に呼び出しされた場所に向かうとね、なんとまたしても真っ白なタキシードを着たあの人がいたの」
「ははは、おじさんらしくて笑っちゃうね」
お酒の力かどうかわからないけども、おじさんの奇抜な行動には驚かされつつも面白可笑しくて、ついつい笑ってしまう。
「今度は薔薇を百も束ねた花束を私に差し出してね、膝が汚れるのも厭わずに膝を着いて、結婚してくださいって、付き合ってもいないのに」
「そ、それで、返事は?」
「薔薇を受けとったわ、反対する親を強引に説得して、三日後には役所に婚姻届けを提出、あれは大学三年生の時だったわね、社会人になって一年目には一颯を産んだもの、今思えばずいぶん性急な話しよね」
「一颯くんを産んだことよりも、付き合うより先に結婚したことに驚きなんだけど……、でもどうしてすぐに結婚したの?」
「あの人なら私を広い世界に連れて行ってくれると思ったのよ。ほら、心春ちゃんは私の両親に会ったことがあるでしょ? あのおっきい家のお金持ち。実際、私ってそれなりの令嬢で箱入り娘だったのよ。政略結婚の話もあったし、だからあの人の言葉はそれだけで私を狭い箱庭から連れ出してくれたのよ」
おじさんがよくおばさんとデートをするからと一颯くんを私の元へ預けていたのはそういう理由があったのか。いつまでも仲良しだなって思っていたけど、……そっか、だから追いかけようとしたのか。
おばさんはどこに隠し持っていたのか、今度は焼酎の一升瓶を取り出し、新しく用意したグラスに注いでいく。氷も用意しているからおそらくロックで呑む気だろう。
「おばさんの昔話はこれでおしまい。今日は気持ちよく酔うことが出来そうだわ」
「まだ飲むの?」
「ん? まだまだこれからよ。今日は酔いつぶれるまで呑んで、夢の中であの人に会えたら最高ね」
体験したことのない大人の事情ではあるが、なんとなく、それが最高に気持ちいい事だということが理解できた。
私もいつか、仕事の帰りが遅い一颯くんをお酒に酔いながら待つ日が来るのだろうか?
……なんか、それもいいかもしれない。
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