110〈唯人〉寝顔
一颯と心春ちゃんから先に行っていいと言われたが、一人図書室にいるのは寂しいものだ。せめて話し相手がいればと思って五階で辺りを見渡すが、一颯の言う通り、何もない。
空き教室ばかりが目立ち、軽く図書室を覗いてみたがカウンターには誰もいなかった。
てっきり小鳥遊先輩がいると思っていたから少し残念だ。でもカウンターにいないのなら今日の当番は誰なんだ? 期末テスト期間は仕事がないものなのだろうか?
「……ちょっと探検してみるか」
この図書室に趣味を除いて興味のある本はあまりない。空き教室に入ったところで一人テンションを上げる気にもならない。
軽く五階を散策していると、更に上へと通ずる階段を見つけた。この高校は屋上があるはずだが、立ち入り禁止だったはず。でも階段自体は封鎖されていないから扉近くまでは行けるかもしれない。
昔から方向音痴だとはよく言われるがそんなはずはない、心外だ。ちゃんと帰り道だって覚えている。図書室だってここから三つ隣の教室の扉だ、……四つだっけ? まあそれくらい誤差だろ。
日当たりだけがやけにいい階段を上っていけばテストへの憂鬱感が少し晴れた。少し埃っぽくて季節的に暑いけど、昼寝するには邪魔も入らなさそうで気持ちよさそうだ。
「……あれ? 先客がいる」
ここまで誰も見かけなかったから、まさか立ち入り禁止の屋上へと続く階段に誰かがいるとは思わなかった。ましてやそれがオレの知っている人だとは予想だにしない。
「小鳥遊先輩? ……寝ているんですか?」
そこにはオレが前にゲーセンで取ってあげたリスのぬいぐるみをお腹に大事に抱えて、壁にもたれかかりながらもお尻には汚れないようちゃんとシートを敷いて気持ちよさそうに寝ている小鳥遊先輩がいた。
ガラス窓から差し込む陽光に照らされながらも穏やかな寝顔を見せる先輩にしばらく魅入られていた。
相変わらず寝癖のような癖の強い髪、普段なら前髪は左目を隠しているけども、壁にもたれかかりながらも体が左に向いているから、両目の眉毛や睫毛をはっきりこの目に収められた。
女の子の寝顔を初めて近くで見たかもしれない。こんなにも愛らしくて、守ってあげたいと思ったのは気の迷いではないはずだ。
「あっ、危ない!」
元より傾いていた小鳥遊先輩の身体がさらに左に傾いて倒れようとしていた。
それを見ればもちろん支えてやるのが男というもの。しかし、オレの身体は手を伸ばそうとして硬直した。
倒れ行く光景を目の当たりにして、オレは触れるのが怖くなった。自分の力がどれほどのものか自覚している。本気を出せば片手でりんごを握りつぶすほどの握力に、拳は瓦を十枚重ねても貫通するのだ。そんなオレがとっさに手を差し伸べれば、……先輩に怪我をさせてしまう。
腕を半分伸ばしたまま、オレは倒れていく先輩を見ている他なかったのだ。
しかし、そんな先輩は床に頭から打ちつけるようなことにはならず、壁を擦るようゆっくりとシートに頭を置いた。それを見てオレは過剰なまでに安堵の息を吐いた。
「はあ……、よかった。……まだ、ダメだったか。最近は調子がいいと思ったんだけど」
勝手ながらシートの端に腰を下ろさせてもらう。意外と大きいシートのようで、俺が座っても先輩が寝転がってまだ余幅を残すほどには大きかった。
悪いとは思いつつも穏やかな寝顔を眺めつつ、痙攣を起こしたかのような震える手を握りしめた。
「聖羅が部屋にいても問題ないし、月宮さんとも話せる。聖羅に頑張って触れることだってできたのに、やっぱりとっさには上手くいかないか……、はあ」
もう一度大きなため息。すると、腰に何やら違和感を覚え、何事かと目線を下げれば、腰に二本の腕が回されていた。
もしやと思って身体を捻って後ろを向けば、いつの間にかもぞもぞと近づいてきていた先輩がオレの腰にしがみついてきていた。
「えっと、……先輩、寝ぼけてます?」
声をかけるが起きる気配がない。
オレは汗っかきだし、こんな男くさいオレにしがみついても不快だろうから早く引きはがそうと思ったが、こんな細腕のどこに力が籠っているのだろうか? オレの腰に食い込むかのようにがっしりとしがみ付かれていた。
「ちょっと耐性のないオレには刺激が強いんだけど……」
中学、高校とこの学校に転校してくる前は男子校に通っていたオレの辞書に『女子』の二文字は存在しないに等しい。
『女子』という言葉が無いということは、『女心』や『乙女』など、男からしたら理解辛い言葉は全てない。
寝顔を見るどころか最初は目を合わせることすら出来なかったのだ。そこら辺は聖羅に感謝だな。……ともかく! こうして……か、可愛い先輩にしがみ付かれている状況なんて耐えられるはずがない! どうにかせねば。
「でも、……どうすれば? 一颯ならどうするんだ? 心春ちゃん相手にどうしているんだ?」
いくら思考を働かせようと無い知識に答えはない。五分ほどこうしていただろうか、オレが何か行動を起こす前に先輩の方から目を覚ました。
「……ん? おはよう」
「え? あ、おはようございます」
「唯人、話し方、へん?」
腰にしがみついたまま目元をしばしばさせて先輩は首を傾げた。
「先輩相手ですし……」
「気にしない、普通が、いい」
男子校では上下関係が厳しかったから、先輩相手のため口はいじめやはぶられの対象だった。それで学校を辞めていった奴をオレは知っている。だからたとえ相手が許可してくれても少なからず抵抗があった。
でもオレはあの環境を捨てたのだ、だからこれはオレにとっての試練なのだ。臨機応変に、先輩が許可してくれたのならありがたくそうさせてもらうのも新しい環境で生きていくのに必要なことだ。
「先輩はどうしてここで寝ていたんで……、寝ていたんだ?」
俺のたどたどしい口調に首を傾げながらもうんと頷いてくれた先輩は小さく口を開く。
「眠かった、から」
「……それだけ?」
「ここ、温かい」
先輩が視線を上げた先、無駄な暑さだけを遮って気持ちのいい陽光を差し込んでくれるガラス窓はちょうどオレたちのいる場所だけを照らしている。
「腰にしがみ付いているのには理由があるのか?」
「落ち着く、抱き心地、いい」
途切れ途切れに口数は少ないが意図が読み取れないほどではない。前に図書室で抱擁を求められた時と同じ理由なのだ。いわく、俺は先輩の理想の父像であるようで、異性であることをものともせず抱き着かれているのだ。
目を覚ましても抱き着かれたまま、さらにはもう一度瞼を下ろそうとするからそれを阻止する。
「お、起きろ、このままじゃオレが動けないから」
「このまま、……だめ?」
「うっ……」
上目遣いに寝起きの潤んだ瞳に見つめられては断るものも断れない。オレを求めてくれることに悦びを覚えた。
「す、少しだけだ、……三十分までなら、い、いいぞ」
「ん、ありがとう。……すぅ……すぅ……」
「……寝るの早いな」
マイペースなのか、ただ単純にお昼寝が好きなのか、どちらにせよオレがこの場から動けなくなったのは事実だ。横になったままオレの背中……というよりは腰にしがみついたまま心優しいおだやかな寝息が聞こえてくる。
せっかくならもう少し話してみたいと思っていた。口数の少ない先輩だから、ゆっくりと会話できるのであれば詳しく人となりを知ることもできただろうに。
「あ、一颯と心春ちゃんを待たせているんだった。……どうするかな」
図書室まではすぐそこだが、大声を出すわけにもいかないし、階段下からではここは見えない。
ならばメールで事情を伝えればいいと思って尻のポケットに手を伸ばすが、そこは先輩の頭が塞いでいた。
行き場を無くしたオレの手が不器用に先輩の跳ねた髪を撫でる。ごわごわしていると思っていたから、想像以上に柔らかくて手のひらにフィットしたことに驚いた。
それに、オレは人に触れている。この事実がすとんと自分の中で落ち着いたのだ。
「……何やっているんだ?」
可愛いものがあったら愛でたい。そんな男の欲望が一瞬だけ垣間見えたが、犯罪になるような変なことはしていない。セーフだ。
ふと先輩が先ほどまでリスのぬいぐるみを持っていたことを思い出す。あれはゲーセンで苦労していたところをオレが代わりに取ってあげた物だが、まさかここまで大切にしてもらえているとは思っていなかった。
オレの腰にしがみつきながらも、そのぬいぐるみは先輩の腹の位置に鎮座している。
……一颯から連絡がこない。忘れられているのだろうか? でも着信音で起こしてしまわなくてほっとしている。
おそらく三十分は経っただろう。これ以上は待たせるわけにもいかないから、軽く先輩の肩を揺すって起床を促す。
「……ん? おはよう」
先ほどと一言一句同じあいさつが返ってくるが、眠り足りないのか目尻を手で掻いていた。
口元を抑えつつ猫のような大きな欠伸を見せ、先輩は身体を起こしてくれた。
「俺はそろそろ図書室に行くんだが、先輩は?」
「私も行く、花恋を待たせてるから」
「人を待たせているのにここで寝ていたんですか……」
オレも一颯たちを待たせているわけだから人のことを言えた義理はないかもしれない。
先輩がシートを畳み、ゆっくりと立ち上がる。
「行かないの?」
「行くよ、先輩が起きるのを待っていたんですから」
俺は立ち上がり、尻を軽く払って階段を降り始める。その際、先輩の後ろ姿がやけに気になる。
オレにとって初めて女子に深く触れ合えたかもしれない出来事だった。聖羅やサラちゃんみたいにオレが友達のように話している相手ではなく、……オレが初めて異性として人を気にした相手だったかもしれない。
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