103図書室への迷い人
唯人が転校してきて二日目は校内案内だ。
俺と心春、聖羅の三人で唯人を校舎の一階から順に案内し、いつも通り俺たちは四階でばらばらに行動する。
聖羅は友達と軽くおしゃべりに、俺と心春は演劇部の後輩がいたから挨拶を。方向音痴の唯人にはたったこれだけの時間で階を跨いでしまう迷子になってしまうのだから驚きだ。
唯人が図書室のある五階へと向かったのを心春と確認し、聖羅を呼ぶ。
「聖羅、唯人を見なかったか?」
「え? あたしは知らないよ、唯人ってあんたたちと一緒にいなかったの?」
「少し目を離した隙にいなくなっちゃったの、聖羅ちゃんの方へ向かったのかなって思ったけど……」
「ううん、こっちには来てない」
ではどこに行ったんだ? という疑問が俺たちの間に自然と生まれるわけだが、俺と心春は答えを知っている。しかしこの答えを聖羅に知られるわけにはいかない。
もしかしたら教室に戻っているのかもしれない、俺たちがいなくなったから一足先に寮に帰ったのかもしれない……、と聖羅の意識を階下に集中させ――。
「聖羅は教室の方を探してきてくれないか? 俺たちはもう一度この階と一応、上の階も探しておく。とりあえずここで解散ということにしておこう、教室に唯人がいなかったら寮の方を少し探してみてくれ」
「そうね、流石にここから寮までの一本道を迷子になることはないと思うし、見つかったら連絡だけ頂戴」
「分かった。……それじゃあ、また明日な」
「ええ、また明日」
「またね、聖羅ちゃん」
俺たちと別れた聖羅は先ほどの友達と共に教室へ向かって行った。
心春と顔を見合わせて、なぜか忍び足で五階へと通ずる階段を上る。隠れて行動しているとどうしてもこういうことをしたくなるのは二人とも同じなのだ。
いつも思うのだが、図書室という場所はいつも別世界に思える。俺が文章を苦手としているのもあるかもしれないが、独特の雰囲気は足を踏み入れたその瞬間に意識を切り替えさせられる。
……あいもかわらず、図書室には生徒がいない。大して面白みもないレイアウトに時代がかった渋いジャンルの本たち。“最新”をモットーに構成されているこの桜花高校では、図書室は過去の遺産として扱われている。
一応、唯人好みの本もいくつか置いてあるらしいが、他校に比べて蔵書の数は少ない。
この学校には他にも聖羅の所属する総合家庭科部といった名称など、この学校が合併される前の遺産じみた名残りがちらほら見受けられるが、この図書室だけはその色を濃く残していた。
後ろの扉から入り、音が出ないようそーっと図書室に身を潜め、おそらく唯人と小鳥遊先輩がいるであろうカウンターの所が見える位置まで移動する。
できれば会話が聞こえる位置がいいが、そこまで近づけば流石にばれる危険がある。本棚の隙間か、端から覗ければ観察する分には十分だ。
「そろそろカウンターが見えてくる。一つ前の棚に辿り着いてからはさらに慎重に移動しよう」
「うん、しゃがんで移動した方が音は殺せるかも」
小声で作戦を立て、上履きの音が鳴らないようにほとんど滑らせるような歩き方で目的地までたどり着く。
俺が床に手を付き、背中に心春が身をのり出すように乗っかってくる。柔らかい双丘が背中に触れるが……問題ない、体勢が崩れないようバランスが取れた。
心春も体勢に問題がないことを確認し、ゆっくり、ゆっくりと顔を本棚の端から出してカウンターを覗くとそこには……。
「え?」
「え?」
俺と心春の声が重なって出てしまうが、幸い気付かれた様子はなかった。……いや唯人と小鳥遊先輩がカウンターにいたのは間違いないのだが、どうして二人は“抱き合っている”のだろうか?
思考が追い付かない。唯人がいなくなってから俺たちがここに到着するまでに十分と時間は経っていない。
昨日の朝に名前も知らなかった小鳥遊先輩と図書室で再開し、話す内容と言えばその時に配っていたチラシくらいのものだろう。あの無口そうな先輩が自分から積極的に話題を振るようには到底思えない。……失礼でしたね、ごめんなさい!
だからといって唯人からあれこれどうこうと先輩を誘って愛を育むなんて……、ありえないな。でもこちらは謝らないよ。
何があったのかこちらから探りを入れることもできないから、このまま観察している他ない。むしろこのまま立ち去った方がいいのではと思えるほど二人は熱く抱き合っていた。
「た、小鳥遊先輩? 満足しましたか?」
心春とどうする? どうする? と少し慌て気味に相談していたら、唯人の声が聞こえた。何か理由があって抱き合っていたのだと思うけど、小鳥遊先輩が何かに満足するために唯人にお願いしたのか?
「うん、満足した。ありがとう」
「は、はい、どういたしまして……」
短い会話、唯人にもあまり小鳥遊先輩の意図が分かっていなさそうだ。
「……この本、貸出期限、二週間」
「え? あ、分かりました。期限までには返します」
あまりにも不思議過ぎた光景だったが、最後は小鳥遊先輩が強引に話を切ったように唯人を帰した。
唯人は先ほどの抱き合った熱が発散されていないのか、顔を赤くして俺たちのいる場所と一番反対側の本棚から扉に向かい、図書室を出て行った。
唯人の大きな背中に隠れて見えていなかった小鳥遊先輩は、前に俺がゲームセンターで見た時と変わらず何を考えているのか分からない顔でこちらを見ていた。
「あ……」
「なに、やっているの?」
癖の強い髪は寝癖のようで、その髪は左目だけを隠していて不揃いだ。だけど制服はきっちり着こなしていて、スカートも改造していないし丈も膝上に合わせている。
一見不気味で三学年でもいつも一人でいる影の薄い彼女だが、その裏には誰よりも可愛いものに目がないお茶目な一面を持っている。
そんな小鳥遊先輩を観察している、もとい、硬直して動けなかった俺と心春だが、不思議そうに先輩が首を傾げたことで時が動き出す。
「あ、すみません、ちょっとクラスメイトを探していたら、出て行けなくなったのもので」
「そう」
俺たちにはあまり関心がないのか、カウンターに積んであった本たちをタオルで丁寧に表紙を拭いていく。
「本の貸し出し、二週間。延長は、一度、返却してから」
「え? ああ、すみません、本を借りるわけじゃないんですけど、ちょっとお聞きしたいことが……」
「……?」
「一颯くん、汗が酷いよ、いったん落ち着いて」
心春の声に俺は手を見ればべたべたとするほど汗をかいていた。ハンカチを取り出し、軽く手を拭いてから深呼吸をした。古臭い紙の匂いが六腑に充満し、俺にとってはそれほど気持ちのいいものではない。
「あの、先ほどの男子生徒と抱き合っていたのはなんでなんですか?」
「父に、似ていたから」
「――ッ!」
先ほど吸い込んだ酸素が全て二酸化炭素に化学変化してしまったのかと思うほどに呼吸が出来なくなった。
――父に似ていた……その言葉は酷く俺の心の核に突き刺さったのだ。
「あ、あの! 唯人くん、……さっきの男の子のどこが似ていましたか?」
心春が間に割り込むように声を張り上げた。
「胸板と、腕の太さ」
それに淡々とした答えを返す小鳥遊先輩はもう俺のことを見ていない。視線は手元の本に落とされている。
「そうなんですか、教えてくれてありがとうございました」
「ん……」
先ほどの手汗が可愛く思えるほどに、俺の額には脂汗が浮いていた。
『父に似ている』という言葉は、いつまで経っても越えられない俺にとっての壁だったから。だから心春が割り入ってくれた。
「一颯くん、いこ?」
「……ああ」
俺はまだ、過去を語るだけの心の余裕がない。前に花恋さんが俺のことを昔よりも大人しくなったと言った時、よく見ているなと感心したことがある。どんなに頑張っても父さんみたいにはなれなくて、だから今の俺が出来上がったのだ。
心春に手を引かれて後にした図書室。俺はもうここに入ることはないかもしれない。それだけに、俺に刻まれた傷は深かったのだ。