後編 ~ 日本 ~
「マツリカ!」
消えかける寸前強引に手に何かを握らされた。
開いて確認する前に触れていたルベルの手も姿も見えなくなった。
元の世界に戻った茉莉花は、風の冷たさや木々の枯れ具合から、季節が秋であったことを思い出した。
着いた場所は呼ばれた場所と同じ学校のそば。時間は夕方のようで、赤い大きな夕日が遠くのビルの谷間にゆっくりと沈んでいくところだった。
着ている衣服は制服で手には鞄もある。はめていた腕時計は変わらずに時を刻んでいる。
「長い夢を見るような気分で行ってみるかって思ったんだっけ……」
握りしめていた手を広げてみると、小さな赤い石があった。
それはルベルがずっとつけていたピアスだ
無理やり外したのか石の色に負けない紅い血がついている。
「ばか…せっかく終わったのにまた傷つくったらプラータさんに怒られるよ…」
ここは通学路であるから、家はそれほど遠くない。
あの赤い夕日の方にある家まで、あと少しだ。
「ユグドリアじゃ歩いてばっかりだったし、さっさと家に帰ろう」
自分を元気づけるように言葉にして、家のある方を見上げて歩き出した。
大きな赤い夕日が見える。丸いはずのその輪郭が妙にぼやけている。ゆらゆらと滲んでいる。
夕日だけじゃない。暗い影でその姿を示している遠くのビルも、すぐ近くに立っている電柱さえも何故だか霞んで見える。
「転ばないようにしないとね」
軽い口調で歩き続ける茉莉花の足跡のように、アスファルトの道路に点々と小さな雫の跡が残っていた。
※※※
一人の男が大樹の傍にいた。
苦痛に耐えているような、見ている者さえ痛みを覚えてしまうような顔をして。
「もう一度会いたいんだ、聖女の力なんていらない。加護も何もないただのあいつに会いたいんだ……!!」
男は、まだ若木だが充分な太さをもっているその幹に、こぶしを叩きつける。
何度も、何度も。
狂気とも言えるような暗い光を宿した目をして。
いつしか赤い血が神聖な大樹の幹を汚した。
痛みではなく、その色に驚いたように男は手を止めた。
二度三度、ゆるゆると首を振る。
緑色の瞳には、少しだけ理知的な光が戻っていた。
「これ以上ここにいたら、何をするか自信がないな」
男は傷口から滴り落ちる赤い血にもかまわず、逃げるように大樹の傍から離れていった。
亜麻色の髪を持つその男が流した血は、まるで大樹が流した涙のように、幹をつたっていた。
※※※
「茉莉花、そのピアスどうしたの?」
召喚される前と何一つ変わらない日常のある日、母親が茉莉花に尋ねた。
問いかける視線の先で光るのは赤い石がついた片耳だけのピアス。
「もらった」
母親と一緒にキッチンに立って食事の支度をしていた茉莉花が、そっけない返事を返すと少し居心地の悪い視線を感じた。
「好きな人から?」
ストレートな問いに『そうだ』と応えられないのは何も話していないからでも、恥ずかしいからでもなく、申し訳なさからだった。
必ず帰ることをずっと知っていてもなお、最後の瞬間まで家族よりも彼を選びたかったから。
「もう会えない人から」
その応えに含まれている感情をどう感じたのか、母親は手を休めることなく言葉を続けた。
「ねえ 茉莉花、倖せって、本人以外の人には本当にはわからないのよ。たとえ親でもね。あなたの倖せはあなたにしかわからない。だからせめて祈ってるの、あなたの倖せを。いつでも、何処にいてもね」
「かあさん…」
母親という人種はどうしてこう、ほしい言葉を与えてくれることができるのだろう。
「……聞いてほしいことがあるの」
少しだけ緊張している茉莉花の方を見て、母親はいつもの明るい声を出す。
「まずはちゃんとご飯を食べてからね。さあ、とうさんたちを呼んで」
日曜日の昼間、茉莉花はよく公園を訪れた。広々とした芝生ではなく、木立の多い森のようなところに向かう。
秋が深まり、乾いた風が木々から落ちた赤や黄色の葉を、そっと、時折は強く吹き飛ばす。
歩くたびに心地よい音がする、枯れ葉の海を茉莉花は一人で歩いて、そして定位置となった木の根元に腰を降ろす。
いつものように上の方を見上げる。
たくさんの枝の重なり合って、その向こうに空が見える。
そうしていれば、至るところにある電線も目につきやすい高いビルも見えない。
その視界だけはユグドリアで見たものと同じになる。
ルベルと旅した日々でのものと――
この時間だけは、いつも感じている胸の痛みがほんの少しだけ和らぐ。
右耳だけにつけた赤いピアスに触れることも、もうすっかり癖になってしまっている。
そうして向こうと同じ空を見ながら、ルベルのことを思い出しているときだけは痛みが薄らいだ。
けっして消えてはくれないけれど。
晴れていたのに、急に雨が空を見ていた茉莉花の頬を打った。どんどん降り出してくる。
秋の時雨だ。きっとすぐに止んでしまうだろう。
茉莉花はそのまま、空を見るのをやめることも、雨を避けることもしなかった。
変わらない姿勢のまま、木にもたれていると、背後から足音が聞こえてきた。
雨で濡れ始めた枯れ葉を湿った音を立てて踏みながら歩いている。
その音が近づいてきたかと思うと、突然、茉莉花の視界を黒いものが覆った。
驚いて立ちあがろうとする茉莉花を止めるように、声がした。
「濡れるぞ」
たった一言。だけど、すぐにわかった。
それは忘れられない、懐かしい人の声。今も考えていた人の声。
信じられなくて、おそるおそる立ちあがって、ゆっくりと目を塞いでいたものを取り外す。
すぐ横に、大好きだった人の顔。
頭にかけられた物はその人がいつも着ていた長い黒のマントだった。
「ルベル…?」
「誰に見える?」
雨に濡れて、亜麻色の髪の先から雫を零している。濡れた髪の奥にある瞳は間違いようのない、きれいな緑色。その瞳がまっすぐに自分を見ている。
ユグドリアにいた頃と変わらない眼差しで。
「どうして…、なんでここに…」
茉莉花はそれ以上言葉が出なかった。
「今日の俺は殿下の使いだ」
「殿下の?」
「ああ。お前に伝言だ。『俺がお前の功績をぶち壊しそうだから止めてくれ。そして諸々の礼をしたいので、俺に何でも願うがいい』だそうだ」
「ルベルが…?」
『ぶち壊す』ってどういうことなんだろう。ルベルが何をしようとしていたのだろう。
混乱している茉莉花はルベルの言葉の意味を考えられない。
「俺はもう一度お前に会いたかった。代替わりしなければならないほど星月の大樹が傷つけば、お前がまた召喚されるのではと思ってしまうほど、お前を諦められなかった」
「ルベル……」
その言葉がどういう意味なのか、ちゃんと理解できない。
「身の危険を感じたのか新しい大樹が俺に協力してくれた」
※※※
召喚という未知の魔法を研究しようにも何から手を付けたらよいのかわからない。途方に暮れ、まだ若い大樹にこぶしをぶつけるルベルにアウルムは禁書を差し出した。
それを読んで、マツリカがあれだけ帰りたがっていた理由を理解した。
「必ず帰されるとわかっている上に、同じ時を生きられないのであれば帰るしかないんだ」
黙ったままのルベルにアウルムは小さくため息をつく。
「特級魔道士の証であるピアスはどうした?」
「えっ」
「なくしたのか。なくしたのなら見つけるまで帰ってくるな」
「殿下……」
「ルベル特級魔道士、ユグドリア王国第一王子として命じる」
『この世界の人間を好きになるなと書き残して』そう言っていた彼女の痛みを、今なら少しでも減らせることができるかもしれない。
マツリカへの借りだけがあるのだから、この国の王族として、ひとりの友人として、ルベルの背中を叩くことくらいは許されるだろう。
「諦められないのだろう? 会いに行ってこい」
※※※
「持っていてくれて助かった」
そう言いながら茉莉花の右耳にそっと触れる。
「長年俺の魔力が染み込んだこれのおかげでここにたどり着けた」
ピアスとそれをはめる茉莉花の耳に触れるルベルの指先は、愛しむようにどこまでも優しかった。
「王子の厳命を受けた俺が責任をもってお前の望みを叶える」
「わたしの…?」
「そうだ、お前の願いを俺が叶えてやる」
「ルベルが…?」
「お前、いいかげんにしろよ。さっきから同じことばっかり繰り返すな」
マントをかぶったままの茉莉花の頭をルベルは小突いた。
その言葉と動作で、茉莉花は驚愕から立ち直った。
ルベルの言っていることがようやくわかった。
わかったら、スイッチが切れたようにずっと溜め込んでいた感情が一気に爆発した。
何にも被われていない剥き出しの感情をルベルにぶつける。
「なによ…なによ!急に来て、それで勝手なことばっかり言って!」
ルベルの胸を茉莉花はこぶしでたたいた。何度も何度も。
「なんで来たの?せっかく忘れるはずだったのに…!諦めるはずだったのに!」
ルベルはされるがままだったが、茉莉花がたたくのを止めてルベルの服を掴んで泣き出した途端、茉莉花を抱きしめた。
「だから言ってるだろう、お前の願いを俺が叶えるって。マツリカ、お前はどうしたい?」
抱きしめられて、茉莉花は息が詰まりそうだった。
力が強いからはなく、胸の奥から嬉しさが溢れてきて息苦しいくらいだからだった。
何度もしゃくりあげて涙を止めると、茉莉花はルベルを見上げて、自分の本当の願いを口にした。
「ルベルが好き。ルベルと一緒にユグドリアに戻りたい」
茉莉花の言葉にルベルは一度だけ確認した。
「それがお前の願いなんだな?」
茉莉花はルベルが何を言いたいのかわかっていた。
この世界と、家族や友人と再び離れてもかまわないのかと言うことをルベルが聞いているのだとわかっていた。
ルベルの胸から少し離れると、茉莉花は一度眼を閉じて、今度はゆっくり口を開いた。
「そう、それが叶えてほしいわたしのお願い」
「わかった」
それに対するルベルの応えもきっぱりとしたものだった。
ガサッ
近くで湿った音が聞こえた。
ふたりそろって、その音の方を見ると、太い大きな木の影に人がいた。
「…茉莉花……」
傘をさして、そこに立っていたのは茉莉花の母親だった。
いつもこの時間ここにくる娘のために傘を持ってきたのだった。
ルベルの長いマントの中にいた茉莉花は母親をじっと見つめると、小さく、けれどはっきりと尋ねた。
「戻って…、いい?」
茉莉花は母親の知らない青年としっかりと手を握り合っている。
『戻る』と言った娘のその姿に、代わりのきかない居場所を見つけてしまったのだと知り、母親は少し嬉しそうに笑った。
「行きなさい。みんな、何処にいてもあなたを愛して、あなたの倖せを祈っているから」
瞳は潤んでいるのに、笑ってそう言ってくれた母親に、茉莉花は言葉もなくただ強く頷いた。
隣に立っていたルベルは茉莉花に良く似た小柄な女性に頭を下げた。
許しを乞うとか、そういうことを考える前に、ただ自然と頭が下がった。
握っていた茉莉花の手に力を込める。
それが合図だったかのように、ふたりの周りに光が溢れた。
目をつぶった一瞬の間に、ふたりの姿は消えていた。
いつのまにか雨は上がっていた。雲もどこかへ消えてしまい、明るい日が差している。
思い出したように傘を閉じた茉莉花の母親の目に七色の虹が映った。
高い木々のさらに向こうの空に、大きくきれいな半円を描いている。
まるで、たった今行ってしまった娘たちを祝福するかのように――