優しい彼
まだ夢の中にいるのではないかとミーニャは自身の頬をつねった。途端に頬に走る痛みが現実だと教えてくれた。
ミーニャの奇行を見て、ローウェルは驚いた表情を浮かべたが、すぐに口に一本指を立てた。
「今は真夜中だ。騒ぐとやっと休んだばかりのご両親を起こしてしまうよ」
ローウェルは優しく微笑んで、ミーニャの頭をそっと撫でた。
「熱はないね。気分はどう?」
まるでお医者様のようなことを言うローウェルに、ミーニャは混乱したまま答えた。
「大丈夫そうです」
安心したようにローウェルは息を吐いた。
「ミーニャ。君は寝不足で倒れたんだよ。ご両親から聞いて飛んできたんだ」
サッとミーニャの頬が朱に染まる。
そうだミーニャはローウェルにバレたことで一睡も出来ずに両親を待っていたのだ。そのせいで、倒れるとは思っていなかった。
「お腹は空いてない?ミーニャのお母さんがサンドイッチを作ってくれたんだ」
途端に空腹を訴えるようにお腹がなってミーニャはさらに赤面した。
「お腹が空いているんだね。食べさせてあげるよ」
「え!いえ、そんな、自分で食べれます」
これ以上、ローウェルの前で醜態を晒したくはない。ただでさえ嫌われているのだ。これ以上嫌われたらミーニャは生きていけない。
「遠慮しないで。番の看病は僕の役目だよ」
小さくちぎったサンドイッチをミーニャの口に放り込んだ。
ゆっくり咀嚼して飲み込むと、彼は嬉しそうに次から次へとサンドイッチをミーニャの口に放り込んだ。
「喉は乾いていない?水しかないけれど」
「水で構いません」
ミーニャがそう言って上体を起こすと、すかさずローウェルがミーニャの肩に手を回してきた。
思わずローウェルの匂いに頭がクラクラする。
まずい、これ以上近くにいたら離れられなくなる。それはわかっているのにローウェルを無理矢理引き剥がすことが出来ない。
ローウェルは水の入ったコップを手に取ると、ゆっくりミーニャの口に水を流し込む。
「もう少し飲むか?」
ミーニャはコクリと首を縦に振って頷いた。
「お願いします」
そうか、と頷いてローウェルがミーニャに背を向けて水差しに入った水をコップに注ぐために立ち上がった。
その一瞬の隙に、ミーニャは再び獣化しようとした。
ーー今なら逃げられる
そう思ったのだ。
しかし、それは大きな間違いだった。
相手は衛士。しかも数々の功績を持つ副隊長の任にある国でも有数の実力者。
そう一度逃げられたことさえ奇跡的な出来事だった。
「ミーニャ」
呼び止める声は先程の甘い声音とは明らかに違う。
「変なことは考えない方がいい。例え君が獣化しても僕は必ず君を捕まえる」
振り返った顔つきは獰猛な獣のそれに変わっていた。
まるで獲物を前にした肉食獣のようだ。
ーー食われる
捕食対象である鼠に過ぎないミーニャは咄嗟に身構えた。
ーー僕はああいう女は大嫌いだ。『番』だなんて虫唾が走る
なぜか、頭に浮かぶのはあの日の彼の冷徹な声と去ってゆく背中。
逃げているのは彼で、追っているのは自分だ。
それが、今は逆転したかのように彼は自分を、ミーニャを追ってくる。
本能的が警鐘を鳴らし、ミーニャに逃亡を促す。
しかし、まるで寝台に縫い止められたように動くことが出来ない。
飢えた肉食獣の口から、光る犬歯が覗く。
「どうして僕から逃げるの?」
その時、静かにな怒りの炎が彼の黄金色の瞳の中に揺れていたのを確かにミーニャは見た。