04
「なんとか間に合いそうね」
宿舎を出て、練習棟の自動階段の上で、エステルが腕のリストウォッチを見ながら呟いた。
「あー! 私もしかして忘れたかもぉー!」
「何をだ?」
アタリが慌てて楽譜入れをあさりだす。
「あのト長調のやつぅー。あぁーどうしよう。あれ試験の曲だから今日練習するよねぇー」
「馬鹿ね。どうしてちゃんと確かめとかないの?」
「だってぇー……あ! あったぁー」
よかったよかったとアタリは楽譜に頬ずりをする。
やれやれとエステルとヒロキは目を見合わした。
「おや、あなた達は第二隊の……」
自動階段を昇りきり、廊下に出たところで後ろから声をかけられ、三人は振り向いた。
「モン先生」
「ああ、やっぱり。クラプティカさん達でしたか」
モンはにっこりと笑う。
細目なうえ、いつもにこやかに微笑んでいるため見えない瞳が、益々細まり、普段に増し優しげになる。
「早く行かないと遅れてしまいますよ」
「モン先生はどうしたんですか? 第一隊の練習は30分前からじゃ?」
「今日は最初、ネロル先生の指導なんですよ。なので私はお休みです」
モン先生は和やかに細目をますます細めた。
「ネロル先生のレッスンなんですかぁ?」
アタリが目を輝かせてモン先生に詰め寄った。
第二隊では滅多にネロルの神業的な指揮では歌えないので、第一隊以外のものには、ネロル先生の指導と聞くだけで生唾ものなのだ。
「今から見に行ってはいけませんよ。シン先生に怒られるの嫌でしょう。ほら、もう5分前」
モン先生は白い教師服の袖から自分のリストウォッチを覗かせ、ちょんとつついてみせる。
「え! すいません、失礼します。アタリ、ヒロキ、行こう!」
エステルはあわててモンに一礼すると2人を促し、さっと身を翻した。
「しつれいしまぁーす」
アタリもそう言い、ヒロキも一礼だけしてその場を去った。
「走ると危ないですよー」
と、後ろからいつもの落ち着いたモンの声がした。
「あーあぁ、いーなぁー。モン先生って優しーし、和やかだよねぇ。シン先生と代わってくれないかなぁ」
「それは第一隊の指揮者と第二隊の指揮者をトレードするという事か? 無理だぞ」
「わかってるよう」
ズバッと直球のヒロキに、アタリはムムぅーと言い返す。
「もうあんたたち、そんな事言ってないで早く!」
エアシューズのスピードを上げ、3人は第二隊のレッスン室へ急いだ。
◇
第二隊の練習は滞りなく進み、シンの都合で少し早めに終了した。
「ねぇー、せっかくだし第一隊の練習見に行こうよぅー。きっとまだやってるよぅー」
「覗きか!?」
「――ヒロキ、それ違う……」
ヒロキの言葉にエステルははあー、とため息をつく。
「あ! ほら急がないと終わっちゃうよぉー」
アタリの言葉に、3人は軽く駆け足になった。
「何とか間に合ったねぇー。よぉーし、」
「スパイだ!」
「それも違うったら! ただの見学!」
シュンっと音を立てて第一隊のレッスン室の自動ドアが開いた。3人はそっと中に入る。
ちょうど部屋の中央で、濃い茶色のショートカットの少女がソロで歌っている。
まるで空から降る光のシャワーのような、美しく澄んだ歌声。
グリーンの瞳の魅力的な彼女が、このネロル合唱団第一隊ソプラノパート長パールミュラン・カルテドール。
別名「歌姫」。
「天使の歌声なんてモンじゃないわね」
曲が終わり、盛大な拍手の中、自らも強く手を打ち合わせながらエステルが言う。
「じゃ、神様?」
アタリが言うと、くすっと軽く笑みを返す。
耳に、胸に、まだあの天の鈴の音がする。
音は波。
音は振動。
エステルはその事を実感していた。
音の波紋がいつまででも自分の体に残っている。
静かな静かな、鏡のような湖畔にぴんと張る水。
それをたおやかに揺らし、なめらかに輝く。
「はぁー、パール先輩みたいになるのが夢よね。特に同じソプラノとなっちゃあもう、ほんっとに憧れってカンジだわ」
「エステルの口から賞賛の言葉が出るとは、世も末だな」
「・・・ほんっとに失礼な女よ、あんたは」
エステルがヒロキをじろりと睨むが、ヒロキは素知らぬ顔だ。
第一隊の練習が一段落ついたとき、ちょうど練習時間終了のチャイムが鳴った。
「さて、私たちも夕食に行こっか」
「あ、そうだぁ、エステル。ご飯の後、研究室行くんでしょうー? 白木さんにパイの差し入れがあるんだけどぉ」
「はいはい、渡しとけばいいんでしょ」
「えへぇー」
アタリはエステルの通う研究室にいる白木という研究員に熱を上げていた。
白く長い髪をいつもポニーテールにしている優男である。
変わり者揃いの研究室の中で、唯一ノーマルに近い男だ。
「それとなく私の宣伝しといてねぇー」
「情報ばかりが一人歩きしてると、妙な夢もたれるぞ。逢ったとき幻滅されるんじゃないのか」
ヒロキが真顔で返す。
「……ひどいぃ~」
「……ほんとに失礼なんだから」
ヒロキに情緒というものを求めてはいけないと、改めて思ったアタリとエステルだった。