俺、幻惑魔法をくらうんで
それからも、似たような毎日が続いた。
ソフィアと少し話をした後血を吸われ、一人になった俺が心にたまったヘドロを吐き出し、そしてフードの女の子が俺に食事をさせてくれる。
その繰り返しだった。
何回繰り返したかわからない。
俺の心は何度も折れそうになった。いや、折れそうどころではない。粉々に砕け散りそうになった。
もういっそのこと、おかしくなってしまえば楽だったのかもしれない。狂ってしまえばよかったのかもしれない。
でも、そうはならなかった。そうはできなかった。おかしくなるわけにはいかなかった。
心が折れそうになるたびに、俺はヒナミの顔を思い出した。
ヒナミの笑顔を思い出した。
もう一度、ヒナミに会いたい。
その思いが、俺の心をなんとか、地獄の淵でとどめた。
「……し、おぬし!」
「んあ……がっ!」
ある日、うつらうつらとしている俺の胸ぐらを、ソフィアが急につかみ上げた。
「な、んだよ?」
「おぬし、おぬしの血はいったいなんだ!」
ソフィアが叫んでいるのはわかるが、目が覚めたばかりで、まぶたが重い。目が見えにくい。
「どういう、ことだよ?」
俺の血が何色かという話だろうか? ソフィアは南斗の人なのだろうか?
「俺の血はたぶん赤色だぜ?」
「そんなことは知っている! 違う、違う! おぬしはいったい、何者なのだ!?」
少しずつ、俺の目が開いてきた。
「お、おい、ソフィア……それ……」
俺の目には、血まみれになったソフィアの姿が飛び込んできた。顔はペンキを頭からかぶったみたいで、深紅のドレスにも、明らかにドレスの赤とは違う赤がついている。
「こうなったのはきっとおぬしの血のせいだ。おぬし、儂に何をした! 自分の血に、何をした!」
「し、知らねえよ! つーかお前、大丈夫なのか!?」
こうしている間にも、ソフィアの体からは血がにじみ出ている。まるで全身の血管が破れたみたいだ。
「わからん、わからん! ……しかし、わかることは一つある」
ソフィアは冷たい目で俺を見つめて、こう言った。
「おぬしを、生かしておくことはできなくなったということだ」
「……どういうことだよ?」
「儂はおぬしの血を吸ってこうなった。つまり儂以外の吸血種がおぬしの血を吸っても、きっとこうなる。それは許すわけにはいかん」
まあ、たしかに。何かの間違いで俺の血がほかの吸血種の口に入りでもしたら、今のソフィアと同じ状況になるかもしれないからな。
それは吸血種の王として許せないだろう。
「でも、俺は死なないぜ? ソフィアだって知っているだろ?」
俺が言うとソフィアは、口の端を醜く歪めた。
「人とはな、何も肉体の死だけが死ではないのだ」
ソフィアがそう言うと同時に彼女の目が流れる血のように真っ赤に染まり、目が眩むほどに輝きだした。
それを見た瞬間、俺の頭は割れそうなほどに痛み出した。
「が、ああああっ! な、何を……!」
「精神の死は人の死だ! おぬしの精神をここで殺す! 精神の死んだ肉体は、やがて崩壊を始めるのだ!」
ソフィアの目の輝きはさらに増していき、俺の頭もそれに比例するかのように痛みを増していった。
「おぬしは危険だ。儂の勘がそう告げている。……恨んでくれるなよ? 儂は吸血種を守らねばならないのだから」
「ああ、ああああああ! 痛い、痛いいいいい!」
頭の痛みがさらに増していき、とうとう吐き気を覚えたその時、ふと、痛みが無くなった。
「……想真?」
「……え? か、母さん?」
突然、俺の目の前に母さんが現れた。
「あれ? ここ、どこだ?」
俺は四方を真っ白な壁に囲まれた空間にいた。
「……ん? 俺、今まで何をしていたんだっけ?」
思い出そうとしても、何も思い出せない。
何も。
「想真。こっちにいらっしゃい」
頭を抱えている俺に、少し離れたところにいる母さんが、両手を広げて招いた。
「……あれ? 母さんは、死――」
その瞬間、俺の頭を猛烈な違和感が襲った。
母さんが死んだ?
そんなまさか。
母さんは生きている。当たり前だ。
中学校の卒業式で泣いていたのは? 母さんだ。
高校に受かって俺以上に喜んでいたのは? 母さんだ。
そう。母さんは生きている。
「さあ、わたしと一緒に、お家に帰りましょう?」
「うん」
俺は母さんに近づいて、母さんの手を取ろうと手を伸ばした。
その瞬間、真っ白な空間の壁が、ビシビシッという不快な音を立てて崩れ始めた。
「な、なんだ?」
「ああ……うまくいかなかったのね」
母さんはそう言うと、踵を返して歩いて行った。
俺を残して。
「な、ちょ、ちょっと待ってよ! どこに行くんだよ! 俺を、俺を置いて行かないでよ! 一人にしないでよ! 母さん! ねえ、母さん!」
「くそ、邪魔が入った!」
はっとして前を見ると、ソフィアが焦った様子で牢屋の壁を見ていた。
頭がじんじんと痛む。俺はさっき、何を見ていたんだ? ……思い出せない。
すると、俺から見て右側の壁がビシビシッというすさまじい音とともに、大きくひびが入った。
そしてその壁が、ガボッという音を立ててこちら側にはじけ飛び、ガラガラと音を立てて崩れた。
「何だ?」
「久しぶりだな、ソフィア嬢。元気してたか? ん? なんだ、血まみれじゃないか」
その壁の方から男の声が聞こえた。
「その声は、まさか!」
ソフィアは目を見開き、驚愕の声をあげた。
俺も声のする方を見たが、土煙がひどいのと、痛みで意識がもうろうとしているせいで、誰がいるのかはわからなかった。
「お前の結界はやっぱり強いな。まあ、なぜかさっき弱まったから、こうして入ってきたわけだが」
その声は低く重みのある声で、俺はなぜか懐かしさを感じた。
「……何をしにきた?」
「その人間の男の子を助けに来た。まったく、吸血種も落ちたものだな。こんな子を誘拐して、壁に打ち付けておくなんて。ああひどい。やることがえげつねえよな」
「どうしてここがわかった?」
「いろいろあるんだよ。知ってるだろ? 俺の情報網は半端じゃないって。大戦中に手に入れた、俺の数少ない宝物だ」
壁を壊したその男は足元のがれきをがしゃりがしゃりと踏みながら、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「で、どうする? 俺と戦うか? 俺は嫌なんだけどな」
その男は本当に、心底嫌そうに言った。
「儂もお前と戦いたくなどない。そんな不毛なことをしているほど、儂は暇ではない」
「そりゃ何よりだ。それじゃこの子は持っていくからな」
男は俺の方に近づいてくると、俺の両腕を壁に打ち付けている杭にそれぞれ手を添えた。
「ちょいと痛むが、我慢してくれ」
男はそう言って、杭を一気に引き抜いた。
「ぐ、くうぅぅぅ……」
「お、叫ばずに耐えたか。偉いぞ」
男はそう声をかけてきたが、しかしこいつなんて力だ。壁に打ち付けられた、決して細くも軽くもない杭を素手で引き抜いた?
「それじゃあ、次は足だ。……抜くぞ?」
「が、う、あぁぁぁぁ」
「よし、もう大丈夫だ。怖かったな。もう、大丈夫。安心しなさい」
倒れ込んだ俺を、男は大きな腕で抱き、優しく声をかけてきた。
「傷の治療は……ここでは難しいか?」
男は俺の手を持ち上げ、傷を見た。
「うわ、ひでえ傷だ。これはちょっと……ん? なんだ? ふさがっていっている? お、おい! ソフィア! この子は吸血種なのか?」
「違う、と思う。一応そいつは人間だ。耳も尖っていないし牙も尻尾もない。もちろん尾びれもな」
「そうか。……まあでも、弱っていることは確かだ。俺が負ぶってやるから、ほら」
そう言って男は俺を負ぶった。広くて大きな背中だと思った。
「じゃあまたなソフィア。もうこんなことするなよ」
「お前に言われる筋合いは……ないことはないが、しかし儂は吸血種の味方だ。どんな時でも」
「そりゃけっこう。じゃあな。ああ、なんでそんなに血まみれなのか知らないが、治しておけよ? 美人が台無しだ」
男は最後にそう言って、俺を負ぶったまま、自分の開けた壁の向こうに歩いて行った。