俺、手と心について思い出すんで
「じゃあね、おやすみ。また明日」
「はい。おやすみなさい」
「訓練を二日連続は勘弁してください。おやすみなさい」
夕食を終え、三人がそれぞれ風呂に入り、今日はもう寝ることにした。
メグミさんが自分の部屋に戻り、この部屋には俺とヒナミの二人になった。
「ソウマ、明日の予定はなんですか?」
「明日はリェース語の勉強かな。メグミさんとの訓練はまた今度だ」
「そうですか。わたしは明日も大学があるので行ってきますね」
「わかった。それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
ヒナミが電気を消してベッドで横になり、俺も布団に横になった。
目を閉じて今日のことを考える。
メグミさんはあの調子なら、一か月後にはかなりの技を覚えるだろう。
ヒナミの飯はあいかわらずうまかった。
あとはユウヤさん。いい人だったが、どこか影があるような、そんな人だったな。
寝る直前にふと俺は、あの握った手を思い出した。冷たくて、儚げな手を。
「想真、新しい学校はどう? 友達できた?」
「いや、まあ、できてはいない」
「うーん、どうしてかしらね。あなたは話せば冗談も言えるおもしろい人なのに。もっと積極的に周りの人に話しかけてみたらどう?」
「そんなことしたらますますクラスで浮く」
俺は母さんが病気で入院してから、毎日欠かさず面会に来ていた。
面会に来たら俺は絶対、母さんの手を握りながら話していた。
もしかしたら俺は、母さんがどこへも行ってしまわないように手を握っていたのかもしれない。
入院してからの母さんの手はいつも、冷たかった。
その冷たさが伝わってきて気持ちがよかったが、冷たさが身に沁みていくのと同時に、不安も俺の心に沁みていった。
「想真の手は、いつも温かいね」
「母さんの手がいつも冷たいからそう思うんじゃねえの? ああそうだ知ってる? 手が冷たい人は心が温かい人らしいよ」
「その話は知っているけれど、お母さんはそれは違うと思う。だってそれが正しいのだとしたら、手が温かい人は心が冷たい人ってことになるでしょ」
「じゃあ俺は心が冷たいってことになるのかな」
ううんと首を振りながら母さんは、俺の手をぎゅっと握った。
「その人の心の温かさと手の温かさに関係はない。人はね、みんな平生は心は温かいものなの」
母さんがちょっと難しい言葉を使うとき。
それは俺にとってとても大事な話をする時だった。
「でも、不安や不満、焦りや後悔のような暗い感情が人の心に波風を立てたとき、人は自分のことに手いっぱいで他人を気遣うことが難しくなる。そのとき人の心は冷たくなってしまうの。でもそんな人の心を温かくできるのも人の心なの。こうやってあなたの手がお母さんの手を温めてくれているように」
俺は握られている自分の手に目をやった。
「もしかしたら、冷たい心に触れたせいで、もともと温かった心が冷たくなってしまうかもしれない。でもね、その時はまた別の誰かが温めてくれる。その人の心が冷たくなったらまた別の人が、今度はまた別の人が。そうしているうちにいつの間にか、最初にあった冷たさは薄れていって、またみんないつものように温かくなる。一人きりだと、心はいつまでたっても冷たいままよ。だからね」
母さんは俺の目を見てこう言った。
「友達を、作りなさい」
寝る直前に手のことを考えていたからかな、そんな夢を見た。
結局俺は元の世界で友達を作れなかった。
きっと母さんが友達を作れと言ったのは、自分が死んだことで冷たくなった俺の心を誰かに温めてほしいと思ったからだ。
でも俺にはできなかった。
決して、自分の心のせいで誰かの心が冷たくなってしまうくらいなら、自分一人でこの冷たさを抱えてやると思ったわけじゃない。そう思ったから友達を作らなかったわけじゃない。勘違いするな。
友達ができなかった理由は、百パーセント俺の人付き合いの悪さが原因だ。純度百パーセントだ。
絶対に母さんが死んだせいじゃない。もしそう思うやつがいたらぶっ殺す。
まあ、でも今は。
「おはようございます、ソウマ」
「おはよう、ヒナミ」
今は俺に笑顔であいさつしてくれるこの子や、下の部屋にいる変なお姉さんがいる。友達とはちょっと違うかもしれないが、まあこれで勘弁してくれよ、母さん。
この一か月、リェース皇国へ行くまでの一か月、俺は二つのことを主にしていた。
リェース語の勉強と、メグミさんとの格闘訓練。
俺にとって大変だったのは、リェース語のほうだった。
なんかもう、すごく難しい。なんていうのかな、文法はロシア語に似ているのだけれど、そこにドイツ語、フランス語、イタリア語の文法をどばっと入れて、ぐちゃぐちゃっと混ぜたような感じと言えば伝わるだろうか。伝わんないよね。
それでも一か月あれば、人間ある程度のことはできる。
つか俺メグミさんの相手をしない日は一日中何もないから、勉強に専念できたってのもあるだろうけど。
「ヒナミ、ちょっと添削して」
「わかりました。ノート、見せてください」
俺はアーデル語をリェース語に訳したり、ヒナミが出すお題についてリェース語で作文を書いたりしていた。そして書いたものをヒナミに添削してもらっているのだ。
ヒナミは戦前、アーデル王国とリェース皇国の国境近くに住んでいたので、小さい頃から森精種との交流があり、今も一か月に一回ほど森精種の村に行っているのでリェース語ができるのだ。
「うん、完璧です。すごいですね、本当に習得しちゃうだなんて」
「時間は腐るほどあったからな。あとはまあ、聞き取りが少し不安だがそこはもう行ってから考えよう」
「そうですね。聞き取れない言葉があったらわたしが教えるので、遠慮せずに言ってくださいね」
「ああわかった。頼むよ」
さすがにネイティブの発音を聞くことはできないからな。
「はあ、それにしても、もう後三日後か……」
「そうですね……」
後三日で、俺たちはリェース皇国に行く。
長い長い旅が、始まる。
「計画はこの間話したやつでもう決まりだよな?」
「はい。もう荷物もほとんど用意しましたし、あとは体調を整えておくだけですね」
先日の夕食のときに三人で五回目の話し合いをして、計画をまとめた。
計画はこうだ。
まず電車やバスを利用して、リェース皇国との国境付近にある町で、ヒナミの生まれ故郷のボッカ村に行く。
そしてそこから歩いて、ヒナミの両親が作り、今はヒナミが使っている地下道に行き、そこから国境を越えリェース皇国に入る。そこからまた歩いて森精種の暮らす村、ガラ村に行く、という計画だ。
「ヒナミはもう休学届を出してきたのか?」
「はい。ちゃんと受理されました」
この旅はガラ村がゴールじゃない。むしろ始まりと言ってもいい。それほどに長い旅になるはずだ。
そのためヒナミは、今行っている大学を長期間休む必要があるので、休学届を出して、すべてが終わったときに、また大学に通えるようにしたということだ。
「そう言えばメグミさんはどうしたんだっけ?」
「たしか……極秘任務? として各国の調査に行くというふうにしておいたそうです」
「ああ、そうだった」
メグミさんは王国軍の中でもそこそこの地位にいる人だ。そのコネやら権限やらいろいろ使って手を回して、自分に極秘の調査任務が下るようにしたそうだ。
俺がそのことについて、『職権濫用じゃないですか……』と言ったら、メグミさんは『誰かに迷惑をかけているわけでもないし、それに職権というのは使うためにあるのだよ』とか言ってた。まじかよ……いいのかよ……。
「ソウマ、それで明日の夜なんですけど……」
「明日の夜? 何かするのか?」
「一か月前にできなかったことを、改めてしようかと思って。それで今日、ちょっと買い物に付き合ってください」
ヒナミは少し目を輝かせながらそう言った。
「一か月前? なんだっけ」
一か月前って言ったら、俺がこの世界に来て、ヴァンジャンスと戦って……。
「覚えてないならそれでいいです。ほら、行きますよ」
俺はなんだかよくわからないまま、ヒナミに手を引かれ買い物に連れていかれた。
その時触れたヒナミの手は、とても温かかった。
たしかに心と手の温かさは関係ないなと、この時改めて思った。