俺、異世界語勉強するんで
「今日はどうするんですか? わたしは大学がありますけど」
翌朝。
つまり月曜日の朝。
ヒナミは大学に行く準備をしながら俺に聞いてきた。
それにしても『月曜日の朝』っていう文字列からの絶望感は異常。
「うーん、本ある?」
この世界のことについてもう少し知っておきたい。そのためにも書籍からの情報は必要だろう。
「あ、はい。わたしが持っているものでよければ。そうですね……高校の時の歴史の教科書とかどうですか?」
そう言ってヒナミは本棚から一冊の本を取ってくれた。
「お、いいね。あり……が……とう」
う~ん、まじか~。
「ヒナミ、この国の文字の読み方教えて」
「え! ソウマ、字が読めないんですか!」
おっと、あらぬ誤解。
「いや俺が元いた世界の文字は読めるよ。ただこの国の文字は知らない」
そう言えばスーパーやショッピングモールに行ったとき、商品名とか読めなかったな。
「言葉は通じているのに、不思議ですね。わかりました。でもどう教えれば?」
「どの音がどの文字に対応しているかまとめてくれないか。例えば俺が『あ』って言うから、その音がどの文字かっていう感じで」
「わかりました。ちょっと待っていてください」
そう言うとヒナミは真新しいノートを持ってきて、そこに対応表を書いてくれた。
「できました」
ヒナミは五分程度で書き上げた。
「ありがとう」
俺はノートを受け取り、表を見た。
「なるほどね~。ふんふんふん……。よし覚えた」
「え! もうですか? 嘘ですよね? わたしが書いていた時間より早いじゃないですか」
「驚くことはないだろ別に。言ったって言葉自体は通じているわけだから、覚えやすかったよ。じゃあ読みますか」
俺はさっき受け取った本に目を通した。
「ん? え~文法違うの~うっそ~言葉通じてんじゃんよ~どういうことだよ~異世界仕様めんどくせ~」
俺はとりあえず書いてある文字を目で追っていった。
「文字が読めるのにわからないというのもなんだか不思議ですね。じゃあ、わたしが教え……」
「う~ん、んと。ここはこういうことで……ほうほうほうなるほど。よし、だいたいわかった」
「え?」
「もう大丈夫だ。さすが教科書だな。ちゃんとした言葉遣いで丁寧に書いてあるから文自体がわかりやすくて助かった。もう少し時間かかると思ってたんだが」
「えっと……ソウマ。もうアーデル語わかったんですか?」
「まだ少しあやふやなところもあるけどだいたいは。そうだな……そのアーデル語で日記をつけられる程度には身についた」
「えっ、そんなまさか。まだ三十分もたってませんよ⁉」
ヒナミは驚いたような顔をしているが、別に大したことはしていない。
「いや、こうやって話している言葉はわかるんだから簡単だろ」
「簡単って……元いた世界でも得意だったんですか? その、言葉の勉強は」
「まあそうだな。なにせどこに亜人種がいるかわからないんだから、いろんな地域の言葉を知らないといけないと思って勉強したよ」
もし彼らが英語圏に住んでいるなら英語を使うだろうし、フランスの森とかに住んでいるならフランス語を知ってるほうが何かと便利だろう。
「元いた世界の言葉なら、母国語除いて五ヶ国語なら完璧に話せるし、ほかの言語もカタコトなら話せる程度のものがいくつかってところだ」
さすがにちょっとやりすぎかと思ったりもしてるんだが。まあ、そのぶん理数系は壊滅的だからバランスとれてるだろ。
あまりになんでもできすぎると恨まれるからな。この程度でちょうどいい。
ふとヒナミのほうを見るとなんだかあきれたような顔をしていた。
「はぁ、もういいです。ほかにもいろんな本持ってきますね。天才っていうのは自覚がないものなのかなぁ」
なんだかブツブツつぶやきながらヒナミはたくさんの本を持ってきてくれた。
高校の教科書に大学の専門書。専門書はほとんどが医学っぽい感じのものだった。
「医学系の本がいっぱいあるな。大学ってこんなに専門的なのか……」
俺の中の大学生というイメージが間違っていたのだろうか?
大学っていうところにはいいイメージがあるが、そこにいる大学生にはちょっとアレなイメージがあるというか……。
大学生って飲んで騒いで年中ウェーイパーリーピーポーみたいなもんだと思っていたぜ。
いやもちろん真面目な学生もいるのだろうけど。そうじゃなかったらぼく、いきたくなくなっちゃうよぅ……。
「あ、いえ。ここにあるのはほとんど元いた家にあったものです」
「元いた家っていうと、診療所をやっていたところか」
それならこれだけ専門書が多いのも当然か。
「まだ二回生ですから、これからもっと専門的なことをしていくと思いますけ
どね」
「ふーん、そうか」
「それじゃ、行ってきますね」
「ああ、いってらっしゃい」
ヒナミは大学に出かけていった。
そのあと俺は適当に選んで本を読んでいた。
「ただいまー。……ってソウマ⁉」
「ああ……おかえり、ヒナミ」
「どうしたんですか⁉ そんなぐったりして」
「いや、ちょっと腹減っちゃって……」
夕方。
ヒナミが帰ってきたとき、俺は部屋で横になっていた。もはや体力の限界どころか気力もなくなっていて、なんなら引退も考えていた。
「え、どうして! ……あ、もしかしてわたしお昼用意してなかったから食べてないんですか?」
「うん……」
「でも、冷蔵庫の中になんでもあるでしょう!」
「いや、さすがに冷蔵庫勝手に開けるとか、悪いと思って」
「どうしてそんな変なところだけ律義なんですか⁉ もう……」
ヒナミは呆れたような目で俺を見ていた。
「ちょっと早いですけどすぐに夕食作りますから、待っていてください」
「ああ。ありがとう」
ヒナミは急いでキッチンに向かった。
そして十分もしないうちに料理を作って持ってきてくれた。
香り立つ湯気が俺の鼻孔をくすぐり、腹の虫を呼び覚ます。
「ありがとう! いただきますっ!」
「はい、どうぞ。……そんなに急いで食べたらお腹びっくりしちゃいますよ?
って、聞いてないですね」
「うめえ、うめえよ……」
俺はヒナミの声に耳を貸さず、がつがつと目の前の料理を口にかき込んでいった。
「ごめんなさい。わたし、昼食のことすっかり気が付かなくて……」
「あ? フィナミがあああるほとひゃへえほ」
「口にものを入れてしゃべらないの!」
「……ごくっ。ご、ごめんなさい。ああ、いや、ヒナミが謝ることじゃねえよ。俺も気がつかなかったし」
だいいちこちとら居候の身である。数え切れないほどの感謝はあれど文句など何一つない。
「じゃあ、明日からは何か作って置いておきますね」
「悪いな。ありがとう」
「それと、この部屋ではソウマは自由にしてくれていいんですよ? それこそ自分の部屋にいるように」
「え、それは、さすがに……」
「遠慮はいりません」
ヒナミはぴしゃりと言った。
「あなたはまだまだ子どもです。未成年です。子どもは大人に甘える義務があります」
「権利、じゃなくて?」
「はい。義務です。こう見えてわたしも成人です。男の子一人くらい面倒見れます。ですから、あまり気を遣わなくていいんですよ?」
「……ああ」
俺はヒナミの言葉にそんな曖昧な返事をした。
そんな返事でもしないよりはましだったのか、ヒナミは満足そうにうん、とうなずいた。
ヒナミはとにかく優しい。
でも、その優しさの根っこにあるものを俺は知っている。
だから俺は、ヒナミの優しい言葉に、曖昧な返事しかできなかった。
月曜日から金曜日まで、俺はヒナミの家でひたすら本を読んでいた。
いわゆる本の虫というやつである。なんなら朝目覚めたら巨大な虫になっているくらい本の虫だった。やだソウマ君知的! でもごめん、その小説読んだことないの!
「明日はわたし休みなんですけど、買い物に付き合ってください」
「買い物? また?」
金曜日の夕方、ヒナミが帰ってくると俺にそう言った。
「ええ。ちょっとスーパーの方に。たくさん買う予定なので」
「へえ。まあ、わかったよ」
別に断る理由はない。荷物持ちくらいさせてもらおう。
「ではお昼前くらいに行きましょう」