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弥生さん

 目が覚めた。というよりあまり眠った気がしない。喉が渇いた。この部屋は酷く渇いている。ラブホテルで迎える朝は何度迎えてもロマンチックでも何でも無い。だから、テレビドラマや映画であまり見かけることがないのだと思う。

 肌ざわりの悪いざらついたシーツ。そのシーツを寝ぼけた足で掻いてみる。ざらついたシーツに不自然に湿った箇所が気持ち悪く足に触れた。昨晩の出来事が美化されることなんて全くなく、胃のむかつきだけがこみ上げてきた。弥生やよいさんを見るとまだ眠っている。早く起きろよ。

 もう何度目かの寝顔だが、愛おしいと思っていた頃の自分をいまではひどく責めている。

 体を起こして枕元のパネルの時計を見ると午前十時。部屋は暗い。というより昨夜のままの間接照明が薄く灯り、部屋にあるもの全ての輪郭を辱めるかのようになぞっている。窓には板がはめられてあり、遮光されているから陽の光が入らない。故に、この部屋で行われた行為はすべて許されないことなのかとすら錯覚する。

 僕は絡み付くベッドから抜け出して、足をついた冷たい床にまでなんとなく責められている気がした。ちっぽけな安らぎと、ありもしない希望を求めて大げさな音は立てずにソファーに向かう。テーブルの上には飲みかけのビールの缶や、開いていないのスナック菓子が占拠している。ここもたいした逃げ場所ではない。そんなことを思いながらタバコに火をつけ、ぬるいペットボトルの水で喉を潤して俯きながら煙を床に吐き出した。

 ここからはベッドで眠る弥生さんの寝息は聞こえない。顔もこちらからは見えないから、本当に眠っているのかどうかもわからない。どちらでもいい。背中につけられた爪痕が僅かに熱を持っているのか少し痛みを感じた。いつもそうだ。


「ねえ、名前を呼んで」僕にまたがったままの弥生さんは、ひどく華奢な腕を僕の首に回して耳元で囁いた。

「え、名前を……」普段は“弥生さん”と呼んでいるから、躊躇した。それに、呼び捨てで名前を呼ぶほどの快楽も感じていない。ただ、恥ずかしそうに囁いた顔を僕から背けるその仕草には愛らしさを感じてしまった。

「や、弥生……」

 僕を締め付ける弥生さんの躯は名前を呼ぶ程にきつくなり、力を抜くための吐息が長かった。

「もっと……。名前を呼んで——」

 静まり返った部屋の中では、昨晩の音しか残っていない。僕のため息も消してしまう、あるはずのない残響。ひどく頭が重くそして、痛い。


 弥生さんとは三カ月前に知り合いの付き合いで参加したビジネスセミナーの懇親会で出会った。ショートヘアーにリスのようなくりっとした目がどこかいたずらっぽく、二つ年上の弥生さんに僕は惹かれていった。

 お互いに自己紹介をして話をしているうちに、帰る方向が一緒だからもう少し飲んでタクシーで帰ろうということになり、その日にはじめて関係を持った。

 それから毎週。一緒に食事をして少し飲み、ホテルに入りお互いの躯を求め合ってきた。でも、膨らんだ風船はいつかは萎むし空気を入れ続けると破裂する。僕と弥生さんの間で膨らんだ風船には僕が空気を入れるのをやめてしまった。


 お互いに帰る場所がある。

 弥生さんは子どもはいないが、結婚して十年になる。

 僕は付き合って六年になる彼女がいる。

 そんな話を出会ったときの懇親会でしていた。その日限りかと思った関係は、ずるずると気がついたら三カ月間続いている。会っていないときはお互い頻繁に連絡を取り合うようなこともしていないし、彼女に怪しまれたりということもない。

 でも、毎回躯を重ね合った翌日の、鉛をまとったような気だるさに耐えられなくなってきた。都合がいいのはお互い様。でも、僕から「もう会うのやめないか」というのも何か違う。でも、会うたびに弥生さんの気持ちが絡み付く気がしている。簡単に絡んでいる縄だと思い放っておいた。いざ縄を解こうと思った時にはもう何がどうなっているのかもわからなくて、解き方もわからなくなっていた。ほどけない程に絡まった縄はもう切るしかない。そう思った。


 タバコを灰皿でもみ消して、洗面所で顔をあらった。昨晩脱いだトランクスをまた履きベッドへと向かった。

「弥生さん、弥生さん。もう朝だよ」

 小さく体を抱えるように眠る弥生さんの頭をなで、耳元で「お昼になっちゃうよ」と言った。

「うん……」

「お昼には帰らないとって言ってたでしょ。もう起きよう」

「うん……」

 弥生さんは、布団から腕を伸ばして、僕の首元に絡みつかせた。

「まだ、もう少しだけここに居たい」

 上半身を起して僕に抱きついたままそう言うと、弥生さんはまた目を閉じてしまった。

 今すぐにでも起して、この部屋から出たい。僕は少し面倒くさそうに頷き曖昧に返事をしながら弥生さんの腕を解いて体を離した。弥生さんが起きたらすぐに出られるようにシャワーを浴びて着がえようと思いベッドから出ようとしたとき、細くて白い腕が今度は僕の腰に絡み付いた。


「もう少しだけでいいから」弥生さんはそう言いながら体を起こして僕を倒すように体重を預けてきた。

「でも、もう起きないと」抵抗しながら僕は両手で弥生さんの両方の二の腕を掴もうとするけれど、完全に密着した体ではどうすることもできずに弥生さんは僕をベッドに倒して上に重なった。

「弥生さん、もう本当に支度しないとお昼になるから」

「だから、もう少しだけでいいの。こうしていたい」

「でも、もうすぐお昼に……」

「だから、もう少しだけって言ってるじゃないっ。お昼になったっていいっ」

 急に耳元で大きな声を出されてたと思って驚いていると、今度は鼻をすする音が耳元で聞こえてきた。

「弥生さん、どうしたの?」

「……」

「何かあったの?」

「……なの」

「え?」

 聞き取れなかったから聞き返したかった。何を言ったのか聞き取れないまま弥生さんは唇を重ねてきて、僕の口の中に少し強引に舌を入れてきた。僕の舌は弥生さんの舌と絡み合いもう聞き返すことは出来なかった。

 舌を絡めたままの弥生さんは少し腰を上げながら僕のトランクスを片手で器用に脱がしはじめた。僕は僕の気持ちとは関係なくなってしまった下半身が弥生さんにされるがままに締め付けられていく様を眺めていた。絡み付いた舌から離れた弥生さんの顔は僕の首筋に。そして弥生さんの吐息が耳をなでて行く。僕はもう聞き取れなかった弥生さんの言葉を聞き返す気力もなくなった。


「ごめんね」

 不意に耳元で弥生さんがため息まじりに囁いた。腰はまだ動きつづけていて、僕を締め付けている。

「何が、ごめんなの?」そう聞き返しても弥生さんからは何の返事もなかった。

「ねえ、名前を呼んで……」

「……」

「お願い、名前を呼んで……」

「……」

 僕は体を起こして、弥生さんの体を、繋がったまま両手で抱えて今度は僕が重なるようにした。

「お願い、お願い……」

「……」無言のまま僕は腰を動かしつづけた。もうこれきりだ。これで終りだ。そう思いながら激しく腰を動かした。

「あ、あぁっ」弥生さんは体を反らせてベッドに沈み込むと同時に、僕も果てた。


 僕は肩で息をしながら、ベッドを出てシャワーに向かった。弥生さんの顔は見なかった。シャワーを浴びて服を来て、ソファーでタバコを吸いながら弥生さんがシャワーを浴びて着がえるのを待った。

「よし、帰ろっ」

 さっきまで泣いていて、躯を重ね合っていたようには思えないほど明るく弥生さんが言った。僕たちはそのまま靴を履き部屋を出た。

 ホテルから出ると完全に太陽は上がりきり、街は昨晩とは全く別の賑やかな顔を見せていた。


 あれから弥生さんとはもう会うことはなかった。連絡をすることもないし、連絡が来ることもなかった。あの日、弥生さんが泣いていた理由はいまだに分からないし、これから知ろうとする気にもない。

 同じ方向だと言っていて一緒に帰ったが、結局どこに住んでいるのかも聞いていない。

 今になると、弥生さんと本当に出会ったのか、関係があったのかすら怪しいものに思える。

 鞄の中にはいまだにあのホテルのライターが転がっている。きっと火はもう灯らない。

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