第二話「遺伝子恐竜とやさしい飼い主」〈2〉
『私たちの基地には獣医も常駐しているので安心してください。あと、来客用宿舎の眺めは結構素敵ですよ♪』
彼女の言葉は、希人の不安と期待を同時に消し去った。決してやましい事を考えていた訳ではないが、多少の期待は抱いていたのである。
しかしその期待は脆くも崩れ去った。邪竜との鬼ごっこから生還した彼は恐竜の子供を抱え、人工島《白海亀》へと、初めて足を踏み入れる。
「じゃあここで一旦お別れです。後ほど着替えをお持ちしますね。その時、獣医舎へ案内させていただきます」
「はい。色々とありがとうございます。えっと……そう言えばお名前まだ伺ってなかったですよね?」
「失礼しました! 私、翁ちかげと申します」
「翁さん……ですね。僕は、篭目希人と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
頭を下げて礼をするちかげに、希人も軽い会釈を返す。清楚な雰囲気のある女性ではあるが、やはり年相応に落ち着きがない面もある様だ。
「あっ、そうだ! その恐竜、先に預からせていただきますね。色々と調べなければいけない事があるので」
希人の腕に抱きかかえられた仔恐竜は未だ眠っていた。彼の胸は寝心地がいいのか、その姿はまるで人間の赤ん坊のようである。
「わかりました。じゃあお願いします」
「ではお預かりしますね。今日は本当にありがとうございました」
ちかげもまた、両腕で優しくその子供を抱き受ける。恐竜の子供を受け取ると、彼女は軽く会釈して去っていった。春風を受け、柔らかそうな黒い髪が揺れている。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、希人も彼女が向かったのとは反対側に歩き始めた。
パンゲア基地の居住エリアへと向かう通路。リュックサックを抱えながら歩く希人の前に、一人の男が現れた。
「あなたが篭目希人さんですね? はじめまして。私、パンゲア特殊機動小隊隊長の勇部亘と申します」
「こちらこそはじめまして、篭目と申します」
パンゲアの隊員用活動服に身を包んだその男は、希人にそう名乗った。
高い鼻梁と切れ長の瞳をした甘いマスク。活動服のスカイブルーにも劣らない爽やかな笑みを浮かべ、亘は右手を差し出す。
百八十センチはあろうかという長身を見上げ、希人も右手を差し出そうとするが、一瞬躊躇い、その手を引いた。
「すみません。僕今ちょっと……というか大分手が汚いので、握手はできないです。本当、申し訳ないです」
アルバートサウルスの体内を掻き分け、赤ん坊を取り上げた希人の両手は未だに赤く染まっている。水気は飛んでいるので血が滴り落ちるような事はないが、それでもこんな汚れた状態で握手に応じるなど常識的に考えて失礼極まりない。
加えて言えば、その汚れは動物の血液や体液によるものだ。動物の体液や血液に直接触れる事の危険性を、元ペットショップ店員である希人は心得ている。
「お気遣いいただきありがとうございます。でも、大抵の予防接種は受けていますし、後できちんと手を洗って消毒すれば大丈夫ですよね? どうかお気になさらずに!」
その男は人工島に吹く海風よりも爽やかな声で語りかけ、希人の右手を両手でしっかりと握った。その嫌味のないスマートな対応に、同性である希人も思わず頬を赤く染める。
「ちゃんと薬用石鹸で洗ってくださいね」と伏し目がちに言う希人にも、亘は笑顔で応えた。
亘の後に続いて宿舎へと向かう。
広い肩幅と背中。対照的に腰周りは、キュッと引き締まっていて無駄がない。また耳のあたりまで伸びた黒髪は艶やかで、歩く度に揺れる程に軽い。
希人の前にある後姿は、男性的な頼もしさを感じさせる雰囲気が漂っていた。年齢だけで言えば、自分と幾らも変わらないであろうこの男の凛々しさに、彼は劣等感を抱いてしまう。
希人とて華奢な訳ではなく、むしろどちらかと言えば体格はいい方である。
しかし彼の体には全体的に厚みがない。例えるなら、亘の体型が端正なバランスの取れたトノサマガエルであるとすれば、希人の体型は平たく薄い南米の蛙・ヒラタピパの様だ。
(俺もちょっとは体とか鍛えておけばよかったかなぁ……やっぱり適度な細マッチョは格好エェな……)
希人は心の中でぼやいた。
健康的な逞しさと言うのは、やはり魅力的な長所と言えるだろう。残念ながら、希人にその長所はない。恐らくは内面的な爽やかさが足りないのだろう。
そんな劣等感に打ちひしがれていると、亘が振り向いた。希人にはない〝内面から出る爽やかさ〟を前面に押し出した笑顔が向けられる。
「お待たせしました、篭目さん。こちらが今日泊まっていただくお部屋です」
「……おぉ~結構眺めいいんですねぇ~」
「まぁそれ位しか来客の方に提供できるものはないですからね。それとここにくる途中にも案内しましたが、宿舎をでて直ぐのところに売店もあります。二十四時間営業ですので、気軽に利用してください。では、まもなく扇が着替えを持って参りますので私はこれで失礼します」
「はい、こちらこそわざわざありがとうございました」
上品な所作で会釈する亘に対し、希人も会釈を返すがどこかぎこちない。去り際まで優雅な亘を見て、希人は言いようのない敗北感に打ちひしがれた。
「お疲れ様です、勇部隊長」
「あぁ、ご苦労だ翁」
希人を宿舎に案内し終えた帰り、亘はちかげに出くわした。活動服に着替えたちかげは、上司である亘に会釈する。
先ほどまでの紳士的で柔和な表情と違い、亘は不機嫌そうな顔で両手をしきりにアルコールティッシュで拭っていた。
「A1は死亡したか……まぁ予想通りだったな。人間に従わなかった不良品にしては最期によく働いてくれたよ」
「えぇ……そうですね」
「なんだ、不服でもあるのか? 大方あの出来損ないに感情移入でもしていたのだろう。……翁、お前は優秀だが少し甘い所があるぞ。アイツらは戦うために産み出されたんだ。道具に愛着を持って判断を見誤るようでは困るな」
「ハイ、分かっています」
覇気が感じられない表情をしていたちかげを、亘は窘める。相手を射竦める亘の視線は、ヒョウの眼光が如く鋭い。
「まぁいい。それよりA1の腹の中にいた子供、助けたそうじゃないか? もしアレも母親同様〝刷り込み〟ができないようでは、もはや母体としても利用する価値はないな。その場合即殺処分だ」
「…………」
淡々と事実のみを話す亘の口調はどこか冷たい。それをちかげは黙って聞いていた。
「では俺はこれから今日の戦いの記録と被害報告の確認に向かう。客人のお守りは任せたぞ」
「あの……隊長!」
「何だ」
足早に立ち去ろうとした亘を、ちかげは呼び止める。
決して怒りを露わにしているわけではないが、かなりの長身である。頭上から掛けられる彼の声は、威圧感を与えるには充分すぎるものだった。
だがそんな亘の顔を彼女はしっかりと見つめ、自身の伝えるべき言葉を告げる。
「差し出がましいかと思いますが、崎乃獣医長からテリジノサウルスの怪我が予定よりも早く回復していると聞きました。もう面会もできるようですし、一度様子を見に行かれてはいかがでしょう?」
「はっ? なぜそのような事をする必要がある?」
決して威圧しているつもりは無いのだが、語気が強まる。どうやら今日の彼は、虫の居所が悪い様だ。
「あ……いえ、崎乃獣医から伝言を頼まれただけです」
「そうか……わかった。しかしまぁ逆ならともかく、順調に回復しているのになぜ俺がわざわざトカゲの見舞いに行かねばならん。冗談もほどほどにしてほしいものだ」
ちかげからの伝言を理解しかねると言った表情で亘は冷たく言い放つと、そのまま振り返りもせず去っていった。もっとも、伝えた内容の後半部分は伝言ではなく彼女自身の考えだが。
客用宿舎・渡り廊下。窓から見える太陽は既に西へ傾き、ほんのりとオレンジがかった光が差し込んできている。
青い活動服姿のちかげは、希人が宿泊する部屋の前に来ていた。扉の前から、中の希人に呼び掛けている。
「篭目さーん……篭目さーん! 返事がないなら開けますよー」
ちかげはゆっくりと希人が泊まる部屋のドアを開ける。これがラブコメなら、希人の着替えを目撃しそうなシチュエーションなのだが……
「何なんですか、これ……」
彼女の目に飛び込んできたのは、若い男の生着替えや上半身ではなかった。タッパーやプラスチックケースに入ったヒキガエルとハリネズミ、そして希人と彼の手に巻きつくヘビの姿が目に入ってくる。
ちかげの来訪に気付くまで若干の遅れがあった希人は、何かに安堵した様子で眉毛を八の字に下げていた。
少しのタイムラグの後。彼女の存在に気付いた希人は口を開き、申し訳なさそうに右の口角だけを上げて苦笑いを浮かべた。
「あっ……ごめんなさい。ひょっとしてこういう動物苦手だったりします?」
「いえ……割と平気ですけど。何しているんですか?」
ちかげの〝割と平気〟の部分に希人は少し嬉しそうだ。聞くと、昼間の逃走劇でリュックの中もかなり激しく揺れたので外傷などがないか確認していたらしい。
「ペットって言うから犬とか猫とかかと思ってました。まぁアパート住まいと聞いたので、ハムスターとかも想像してましたが、この面子は想定外ですね……」
「やっぱりそうですよね……でも女の人ってハリネズミはともかく、後の二匹は凄い嫌がる人いるから〝割と平気〟って言ってもらえるだけでちょっと嬉しかったりします」
はにかみながら希人は話した。穏やかで控えめ、そんな言葉が似合う温かな眼差し。幸いにも外傷がなかった動物たちは、彼のやさしい視線に抱かれていた。
邪竜との遭遇を経験した割には落ち着いている希人。彼の様子を見て安心したちかげは、自分から少し話題を振ってみる。
「私、この中ならこの子が一番好きかな」
「えっ!? マジですか? うちの女子不人気ワースト1なのに……」
彼女がそう言いながら指差したのはタッパー詰めにされたヒキガエルだった。
一番付き合いの長いヒキガエルを選んでくれたことを喜びつつも、意外な結果に希人は驚きを隠せない。
「見た目だけならゴツくてちょっと恐いんですけどね。でも昔、育てていた花壇がナメクジに滅茶苦茶にされた事があって、泣いてたんですよ。そしたらヒキガエルがやってきて、ナメクジを食べてくれたんですよ。あの時は格好良かったな~」
少女だった頃の思い出をちかげは嬉々として語りかける。その純朴な笑顔に希人の心の緊張は解れていった。
「なんかそう言ってくれる女の人今までいなかったなぁ……カエルが害虫を食べる事で、農作物や花木が守られる事を話してもなかなか解ってくれなくて」
「それは仕方ないですよー。いくらいい子だからって、好みでもない娘を無理やり宛がわれたら篭目さんも困るでしょ?」
「まぁそうですね……って言うか翁さん、結構ハッキリ物言うんですね」
いつの間にか希人はちかげに対して臆せず話せるようになっていた。また、ちかげの方も希人の出す柔らかで優しげな雰囲気にひと時の安らぎを感じている様子だ。
「あっ、そうだ! 私着替え届けに来たんでした」
そう言って彼女は希人に服を差し出した。モスグリーンのツナギ。パンゲアの一般職員用作業着である。
「すみません、こんな物しか用意できなくて。一応、外に出る時は左胸に来客用のバッジをつけてください。お手数ですがよろしくお願いします」
「わかりました。ご丁寧にありがとうございます」
「いえいえ。そうだ! 大分汚れちゃっていますし、シャワー浴びますよね? 私、外で待っているので終わったら教えてください」
部屋に着いた時に手は洗ったが、顔や髪には未だに血がついたままだし、洋服も血に塗れている。ちかげの提案どおり、希人はシャワーを浴びることにした。
十分後。邪竜や恐竜の血の臭いを念入りに洗い流した希人は、渡されたツナギに着がえて部屋の外に出る。
たまたまリュックに入っていたキャップを後ろ前に被り、右手にはペットたちの入ったリュックを持っている。
「お待たせしましたー。えっと、獣医さんのところに案内していただけるんですよね?」
「えぇ、それじゃあ行きましょうか。あれ? その帽子、なんかお洒落ですね。少年っぽくて可愛いですよ!」
「えっ? あぁ、ありがとうございます……じゃあ行きましょうか」
単にペタンコに潰れた髪で人前に出るのが恥じらわれて被っただけなのだが、明るいデニム地のキャップはちかげに好評のようである。
愛らしい年頃の彼女に「可愛い」と言われて悪い気はしない。希人は照れ隠しからか、握りこぶし当てて口元を隠していた。
居住エリアから二ブロックほど離れたエリアにパンゲアの獣医施設はあった。
【関係者以外立ち入り禁止】の物々しい看板を抜けた先にあるそのエリアは、どこか異質だ。
厳重な警備の割に、通路の窓から見える景色にあるは何の変哲もないシダ植物やソテツの木。アンスリウムなどの花々も繁茂していて、景観はさながら熱帯のジャングルである。
――邪竜と戦うために建造された人工島になぜこのような場所があるのか?
希人は疑問を感じつつ、ちかげの後ろをついて歩いていた。
「つきました」
獣医の在沖する部屋についたらしい。ちかげは開閉ボタンを押し、扉を開ける。
「しずかさーん! さっき内線でお願いした件で来ましたー!」
「こら! 仕事中なんだから“崎乃獣医”とか“崎乃さん”とか他に呼び方あるでしょ!」
「えへへ~すみませ~ん!」
舌を出しながらウィンクしたちかげは、そのまま軽く拳を握り自分の頭を小突いた。希人が初めて出会った時の凛とした表情とは違い、今見せた笑顔は年相応の少女らしい。
「で、そっちにいるメンズのペットを預かればいいのね?」
「あっ、篭目希人と申します。えっと、ぺットと言っても種類が……その……」
「いいわよ、さっき内線で聞いたから。ヘビにハリネズミ、ヒキガエルでしょ? 別にそんな珍しくもないって。えーっと……コーンスネークとヨツユビハリネズミ、アズマヒキガエルね。なんだ、超メジャーな種類ばっかりじゃない」
希人がリュックサックから取り出したペット達を見て、獣医はそれぞれの詳細な種類を言い当てる。観賞用として流通が盛んなコーンスネークやヨツユビハリネズミをメジャーと言うあたり、爬虫類やエキゾチックアニマルに関しても知識があるようだ。
長い黒髪を後ろで束ね、動物達を見つめる彼女の視線は優しげだったが、目の下にはくまを作りどこか疲れを感じさせる表情だ。
「じゃあ今日はうちでこの子ら預かるね。もう行っていいわよ。君も恐竜やら邪竜の血浴びちゃったでしょ? 一応検査するんだって」
「そうでした! じゃあ篭目さん案内しますね」
「あっ、ちかげちゃん! あなたはちょっと残って。そうだ、みーちゃん! 代わりにこの人医務局まで案内してあげて」
「はぁ~い、わかりましたぁ~」
甘ったるい声で返事をしながら、彼女の助手と思われる女性が希人に近づいてきた。
「わたし、ここで看護師やってる飛騨みかって言いますぅ~。よろしくお願いしますねぇ。あっ、看護師って言っても動物相手のですよぉ~。篭目さんが怪我しちゃったら絆創膏貼ってあげるくらいしかできませぇん」
彼女の舌足らずな喋り方には、男の緊張や警戒心をほぐしてしまう魔力があるようで、人見知りであるはずの希人の顔も自然とにやけていた。
しかし、それ以上に印象的なのはその胸部だ。Fカップはあろうかという豊かなバストに彼も視線を落としてしまう。思わず右手を股間に当てそうになったが、『女性ばかりのこの状況でそれはまずいだろう……』という理性が働きその手を止めた。