第二話「遺伝子恐竜とやさしい飼い主」〈1〉
いつも変わらない日常を過ごしていた無職の青年・篭目希人。
だがその日、彼の住む町に邪竜が出現した。逃げまどう彼の前に姿を現したのは、鎧を纏った一頭の肉食恐竜。
死闘の末、肉食恐竜は深手を負ってしまう。横たわる恐竜の胎内に、恐竜の子供を見つけた希人は思わずそれを救い出すのだが……
時刻は二十時半を過ぎている。
いつもならハリネズミの〝イガジロー〟が動き出す頃合だから様子を見るのだが、生憎彼は今日別室に居る。
テレビもつけてみたが、希人の嗜好にあう番組もなく、すぐに電源を落とした。やる事もないので、ベッドの上に横たわりハメ殺しの窓から外を眺める。
煌びやかな港町の灯りが海面に映りこみ、黒い画用紙にビーズを散りばめたような光景が広がっていた。
ここは、地上8階。東京湾上に浮かぶパンゲア日本支部・関東本隊基地の居住エリアだ。
東京都の中央区がすっぽりと収まる広大な面積を持つドーナツ型の人工島。全国に点在するパンゲアの基地の中でもっとも大きく、日本支部の本拠地である。
そこにはタンカークラスの大型船舶が停泊可能な港や空港、研究施設等が建造されている。
また多くの商業施設や総合病院も存在し、それ自体が一つの町として機能する大型基地だ。
防波堤を兼ねた対邪竜用のかえしと屋根が一体化した白亜のドームが幾つも連なる外観は、上空から見ると亀の甲羅のようであり通称「白海亀」「ホワイト・タートル」とも呼ばれる。
もっとも、中央に向かって隆起し、緩やかにアーチを描いた形状は海亀というよりも陸亀の甲羅に近い。
「白海亀ってーより、白陸亀? ……でもそれだと沈んじゃうね」
人工島建造のニュースを見たかつての少年はそう呟いていた。
その亀の上に建てられた客人用宿舎。かつての少年はその一室でベッドに横たわっている。
「ん〜……やっぱまだ生臭いわ」
鼻をひくひくさせ、浴衣の袖から自分の腕の臭いを嗅ぐ。念入りに洗ったつもりではあったが、未だに生臭い血の臭いは残っている。
希人はその臭いの元となった昼間の出来事を思い出し始めた……。
* * * * *
――血塗れになり横たわる邪竜と肉食恐竜。完全な二体の沈黙を確認したかの様に、町を囲む檻を形づくっていたポールと透明な壁は地面に吸い込まれていった。
檻が消えると高台からは良く町が見える。そこには今朝まで希人の日常があった。二体の巨獣の死闘により所々破壊されているが、確かに慣れ親しんだ光景がそこにはある。
……しかし何かが引っ掛かる。胸をざわつく違和感は、一体なんなのだろうか?
希人は茫然と町を見渡しながら、その根源を探し求めていた。
「ちょっと……あの、聞いてますか?」
希人は自分を呼ぶ声に気を取り戻す。
振り向くと、助け出してくれた先ほどの女性が、自分の顔を覗き込んでいる。黒ずくめのライダースーツには似つかわしくない、愛らしい少女の顔が目の前にあった。
「さっきから呼んでますよ。大丈夫ですか?」
「あぁ、すみません。何でしょうか?」
聞くと邪竜の死亡が確認できたので、高台から下町へと降りるのだという。既に安全が確保されているため、徒歩で降りていくらしい。
希人も寝息を立てる仔恐竜を腕に抱え、立ち上がった。彼女が従えるダチョウ竜に追随し、緩やかな坂を下って低地へと降りていく。
少しずつ近づく見慣れた景色。しかし町が近づくにつれ、日常生活の中であまり体感しない臭いが彼の鼻をついた。
「なんか臭いですね……」
彼の人生経験の中で近いものがあるとすれば、坂道を下っていた自転車が急ブレーキを掛けた時のタイヤが焼ける臭い。その臭いを何十倍にもしたような臭いが鼻をつく。
臭いのする方を見ると、並んだ電柱の間に黒くドロドロした物体が目に映る。どうやら電線の被膜が溶け出してしまったようだ。
周辺の道路もアスファルトで舗装されていたら、溶けていたのだろう。希人が引越してきた時、この辺りの道路は、アスファルトから軟質コンクリートへと張り替えられている最中だった。わざわざコストのかかる最新技術の舗装方法に変更していたのも、今なら納得できる。
更に坂を下り、邪竜から逃れてきた下町に辿り着く。
遠目からは平穏に見えていた町並みだが、目の前に広がる光景は希人の知る町の姿ではなかった。
電線の被膜同様ドロドロに溶けた車のタイヤ。あふれ出してもなお蒸気を上げ続ける噴水の水。
何よりも痛ましいのは、立ったまま消し炭になった街路樹や草花。
かつては野鳥だったであろう黒焦げの肉塊。
対照的に、聳え立つ建造物は以前と変わらぬ姿である。生き物が全て消えた町並みは、不自然なほどの静けさに包まれていた。
地面から昇ってくる熱と臭気が目に染みて、堪らず涙目になる。もっとも、涙の理由はその空気のせいだけではないが。
「結構惨いですね……この光景」
「仕方ないですよ。ここで邪竜を取り逃がした方がより大きな被害が出る。この町ひとつ、それも有機物だけで被害が抑えられるなら安い代償です」
彼女は冷静に答えた。だが彼女も希人同様、目には涙を溜めている。
それが目に染みるこの空気だけによるものなのか、目に映る光景の与える雰囲気がそうさせるのか。判断しかねた希人は、それ以上口を開かなかった。
希人は再び蒸し暑さと静寂に満ちた町へ目を向ける。そこには見覚えのある形をした巨大な肉塊が存在していた。
「そう言えば、あれは一体何なんですか?」
希人は先ほどまで邪竜と死闘を繰り広げていた肉食恐竜〝だった〟肉塊を指差し尋ねた。
野鳥の亡骸同様、表面は黒く焼け焦げており、身を包んでいた鎧はドロドロに溶けている。どうやら鎧の材質は金属ではなかったらしい。
「アレですか? アレは【アルバートサウルス】白亜紀後期の北アメリカに生息していた肉食恐竜です。推定される最大体長はおおよそ九メートル、体重は二トン。少し小型で細身のティラノサウルスといったところですかね。ちなみにこの名前は化石が発掘されたカナダのアルバータ州にちなんで付けられました」
彼女の返答は希人の質問に対する答えにはなっていなかった。
希人は、「なぜあの恐竜は鎧を着込んで邪竜と戦っていたのか?」「そもそも恐竜がなぜ存在しているのか?」という意図で質問したのだ。
それに対して彼女は前提条件を素っ飛ばし、恐竜の種類についての説明を始めた。
もっとも、記憶の中にあるティラノサウルスと微妙に異なるその種類についても、疑問は抱いていた。故に彼女の回答も、強ち的外れではないと言える。
「それよりもその仔、なんで黙ってたんですか? 言ってくれればいいのに隠したりなんかして、一体どうするおつもりだったんですか?」
両腕に中にいる恐竜に視線を向け、彼女は希人に問いかける。彼女なりに平静を保とうとしたのだが、その語気はどこか強い。
「すみません! 別に悪気があった訳じゃなくて……。もしあの場でこの仔を見せたら、捨てていくように言われるのかなと思ってしまい……それで思わず服の中に隠してしまいました! 本当に申し訳ございません!」
希人は深々と頭を下げた。冷静に考えたら自分の行動が正しいものだったのか疑問が残る。
――果たして、あの恐竜の子供を助けた事は正しいことだったのだろうか?
邪竜と戦っていたという事は、邪竜に匹敵する力があるという事だ。更に聞けば見立て通り肉食性だと言う。
いくらティラノサウルに比べ小型とは言え、現生生物の感覚に当てはめれば、規格外の陸棲肉食獣である。そんな捕食者が闊歩していたら、これまでどおりの平和な日常生活などありえないだろう。
「あの、別に責めているわけじゃないんです。すみません、少し口調がきつくなってしまって……。その、上の方々がどのような判断をするのかは分かりませんが、私個人としては感謝しています……。その仔を助けていただいて、ありがとうございました!」
今度は少し頬を赤らめた彼女が、希人に頭を下げてきた。先程までの凛とした顔つきと違い、年相応の瑞々しさを感じさせる表情だ。
よくよく見ると、彼女の顔立ちにはまだ幼さが残る。恐らく希人よりも年下なのだろう。小型のげっ歯類に似た愛らしい顔立ちをしており、黒い宝石のよな瞳と透き通るような色白の肌が魅力的な女性だ。彼女の可憐さに希人の頬も思わす紅潮する。
「できれば今晩は私たちの所に泊まっていただけませんか? 色々とお伝えしなければいけない事もあるのですが、今日はお疲れでしょう。明日、改めてお話できればと思います」
彼女曰く、ここ一帯の都市機能の復旧はもう少し先らしい。また他の市民は地下通路を通り、既に別の避難所に向かったとの事だ。
妙齢の女性に『今晩泊まりませんか?』と言われれば、希人とて意識しないわけにはいかない。ここは男としての甲斐性を見せる時でもあるかと思うのだが……
「あの、お気持ちはありがたいんですが……ちょっと……」
希人は徐に自分のリュックサックへと視線を向けた。