第六話「小さな世界の大きな理」〈1〉
アルバートサウルス・サラの命令権を略奪してしまった篭目希人。
望まずとも、自らの労を水の泡としてしまった彼は、そのまま力尽きてしまう。
目覚めた時、彼は選択を迫られた。
そこで彼は、自らの行いの責任を取るひとつの方法を提案される。
しばしの休息を与えられた希人は、自らの心の在り処を探す様に古巣を訪れる。
だが少し変わった町の風景は、彼に些細な変化以上の違和感を与えた。
坂の上にある公園で、彼は翁ちかげに出くわす。
彼女の漏れ出す本音や罪悪感。それは希人の胸をも締め付けた。
少しずつ気持ちのずれ始めていく彼と彼女。
そんな二人の距離を埋めたのは、この世界に生きる生物の姿だった。
――篭目希人は未だ答えを出せていない。
選択の期日は刻々と迫っていた。
「すみません……なんか取り乱しちゃって……」
「いやぁ……普通の反応だと思いますよ」
鳩に糞をかけられた帽子を、水で洗って戻ってきた希人。
一瞬前までは鳥の糞が自然の摂理で果たす役割について、冷静に解説していた彼。しかし自身にそれが振りかかれば、流石にいい気はしない。
げんなりとした表情で希人は戻ってきた。糞を浴びせられた時の狼狽ぶりといい、成人した男性の行動としてあまり胸を張れるものでもないだろう。恥ずかしそうに地面へ視線を落とし、切れ切れに言葉を繋いだ。
「本当、お恥ずかしいです……」
水を吸い、重くなった帽子を希人は頭に乗せる。
髪を通過して伝わってくる布の湿り気。見栄え云々もだが、不快感が生半可ではない。
「別に無理して被らなくてもいいんじゃないですか?」
「えっ……」
無理に我慢しながらも帽子を被ろうとする希人を、ちかげは不思議に思う。対して希人の方は、帽子を被らないと落ち着かない。
今日、まさかちかげに出会うとは思っていなかった。そうでなくても、この日の彼は寝癖を少し直してきただけの適当な髪型だ。その為、人前に頭部を露わにするのは気が乗らない。相手がちかげなら尚更だ。
少し気恥ずかしそうにする希人。彼の様子を覗き込み、ちかげは何かを考える。
――そう言えばこの人、割と洒落っ気があるんだよな。
初めてパンゲアの基地へ来た日。彼はペタンコになった髪を恥らって帽子を被っていた。
次の日。彼は少々の外出にも関わらず、日焼け止めを欠かさなかった。
その事を踏まえ、今自分の前にいる彼の姿を改めて見てみる。彼にしては珍しく、全く手の入れられていないヘアスタイルだ。ずっと帽子を被ってきたからか、量の多い髪はペタッと寝ている。
「もし良かったら、私の帽子被ります?」
「いや悪いですよ、そんな……」
「いいですよ、遠慮しなくて。……ホラ、結構似合ってます」
背筋を伸ばし、希人の頭に自分が被っていたハットを乗せる。まるで猫の様にしなやかな彼女の体は、背中で美しい弧を描いていた。
「なんかスミマセン。ありがとうございます」
「いいですよ、別に。……何だか日も落ちてきましたね。そろそろ帰りますか?」
「そうですね。ここからだと、人工島に帰るまで結構かかりますし」
夏の長い陽射しも序々に沈みかけていた。雲の切れ間から射す太陽が燃えるように輝き、紫から濃紺に染まり始めた空に強い赤みを加えている。
正直な話、ペタンコに寝た髪を気にする希人を、ちかげは少し女々しいとも思った。
しかし、女々しくも繊細な彼がサラのブリーダーだったからこそ、彼女はお気に入りのワンピースに草染みを作らずに済んだのだ。その時のお礼だと思えば、これくらいはしてやってもいいと、ちかげは考えていた。
公園を後にし、希人たちは坂を下り始めていた。
目に入る町並みは、夕陽に染められている。坂を上る時には散漫に見えた景色。
だが今は、皆等しく橙色のベールに包まれている。どぎつい原色の花々でさえ、太陽の輝きには打ち勝てない様だ。補色関係にある紫と黄色でさえ、オレンジ色に抱かれて溶け合う様に入り交じっている。
しばしの沈黙。希人は特に話すこともなく歩いている。沈黙を気にしない彼とは違い、ちかげの方は少しばかり気まずい。
精一杯に話題の種を探し、彼女は口を開いた。
「そう言えば、ちょっと気になっていた事があるんですけど、聞いてもいいですか?」
「ん? 何?」
「前に言ってた『うに太』って何ですか?」
ちかげは好奇心から彼に問いかける。以前、希人の口から出たこの名前。これが何を指し示しているのか、彼女は気になっていた。
別に知ってどうしたいと言う訳ではない。ただ、彼の事を少しでも知って置きたいのだ。
彼の選択次第では、直に離れてしまう関係。ちかげは希人の事をどれだけ知れたのだろうか。彼には感謝していたが、きちんと話せる時間は思ったよりも少なかったかもしれない。
寂しさと名残惜しさ。割り切れないその気持ちが、彼女の唇を動かした。
「えっ……うに太の事なんて話したっけ?」
「あっ、いや……そのなんていうか……」
『うに太』と言う名前。それは確かに希人の口から出ていたが、彼自身の意思で話した訳ではない。
サラを譲渡した日の夜。寂しさと酒に溺れた彼は、うわ言でその名前を呟いた。少しだけ垣間見えた彼の悲しみ。その在り処を知りたいと思ったのは、些か浅慮だったかもしれない。
「ごめんなさい! もし話したくないんだったら、話していただかなくても良いです……」
「んっ……? いや、別にそんな事はないよ。『うに太』ってのは、僕が昔飼っていたハリネズミの名前だよ。だから気にしないで」
〝気にしないで〟と言うあたり、彼もちかげに気を遣わせてしまった自覚はあったのだろう。また言葉のとおり、やましい事などなかったとも見える。笑顔で答える希人の表情に、気負い等は感じられなかった。
「へぇ、そうなんですか」
「うん。具合が悪くなった時、そのまま死んじゃったんだけどね」
「やっぱり私、辛い事思い出させちゃいました?」
「あっいや、大丈夫だよ! ちゃんと獣医さんへ診せに行く事ができなくてね。確かにそれが今でも引っかかってる部分はあるけど……でもね、それは仕方ない事だったんだ。だからもう、必要以上に悔やんだりはしてないよ!」
言い終えた後、希人は笑顔を向けてくれた。
だが、目を細める前に一瞬だけ覗いたほの暗い瞳。それは後悔や贖罪と言うよりも、無力感に打ちひしがれ故の虚しさ ――そんな思いを内包している様に見えた。
きっと「悔やんだりしていない」と言うのは嘘だろう。しかし、もうこれ以上彼の傷に触れる事は、今のちかげにとって不可能な事だった。
* * * * *
「ブリッツ……お前は最後まで立派だったよ。なのに、俺は……」
悔やんでも悔やみきれない。そんな気持ちと共に、自分の唇を噛み締める修大。
線香の煙へ向かって合わせた両手。徐々に高ぶる感情と共にその両手は崩れ、硬く握り締められていく。
こらえ切れずに漏れ出す、掠れた嗚咽。力が入った眉間が瞼をきつく閉じ、その隙間から熱く塩辛い液体が流れだした。
神奈川県の某所にある動物霊園。長い休暇の一日を使い、修大はその仏間を訪れていた。
広い板の間に並べられた沢山の棚。区切られた一室一室には、それぞれ埋葬されたペットの写真が飾られている。
仏前の椅子に彼は越し掛けていた。広げられた供養帳に記されている『ブリッツ』という名前。それは木野修大がかつて飼育していた犬の名前である。
ブリッツはこの霊園で合同葬儀を行い、供養された。 ……しかし、その遺体は霊園の墓地に埋葬されている訳ではない。
遺体が消えた先も、なぜ消えたのかも判っていた。
寧ろ愛犬の最期は目にしていた彼は、その行方を知っている。
「……すまん、ここにずっと居るわけにもいかないんだ。今日のところはもう帰らせてもらうな……大丈夫、また来るよ」
仏壇にそう語りかけた修大は、目の周りを手で拭うと椅子から立ち上がった。ほんの少し湿った手の甲を振り歩き出すと、彼の見知った顔が現れた。
「あれ? 木野くん?」
「美紗さん!……でもどうして?」
声の主はかつて修大の同僚だった女性、周防美紗だ。
茶髪のロングヘアーを揺らし、修大へ歩み寄る。女性としては長身な方で、その身長は修大とさほど変わらない。
「どうしてって……木野くんと一緒だよ。うちの子もさ、今日が命日なわけだし……」
そう言って彼女は供養帳へ目を向ける。帳簿には、ブリッツ以外にも沢山の犬の名前が記されていた。 またその多くの没年月日が、ブリッツと同じ日付になっている。
「そうだ! 久々に会ったわけだし、この後ちょっと食事でも一緒にどう?」
「あぁ、いいですよ。じゃあ外で待ってますね」
彼女も自分の犬に線香をあげたいだろう。
美紗が手を合わせている間、修大は仏間の外で待つ事にした。




