第四話「そんなに泣かないで」〈2〉
『DD(人造恐竜)用成長促進剤について』
【概要】
主として■■■■■■■を原料としている。
そこに人造恐竜の成長ホルモン分泌を促す■■■■■■■を加え、更にカルシウムや各種ビタミン・ミネラルを加える事で精製される。効能として、単純な体長・体重だけでなく、骨格・内臓ともにより強く、そしてより早く成長させることができる。
【用法・用量】
与える飼料に、混ぜて与える。通常は餌の総量に対して10~20%の量を混ぜ合わせるが、成長の遅い個体には量を増やし、35%程度まで投与量を引き上げる事もある。
独特の臭いがある為、個体によっては食さない場合もある。その場合、カテーテルを用いての経口投与や、注射を用いて血中に直接送り込むなどの手段を取る。水棲種の場合なら飼育水に直接溶かすのも一考である。
【主な注意点】
急激な成長を促す為、稀に関節の痛みや内臓の不調を示す個体もいる。しかし、適切な処置を行えばそれにより死亡する可能性は限りなく低い。
……以上が、先日受け取った資料の大まかな内容だ。
やたら黒塗りの目立つ文章が、希人の心に不信感を芽生えさせる。この黒塗りにされている部分について、その真実は瀞にも知らされていない。それは上層部だけの極秘事項だそうだ。
正直、あまりこのような類のものを希人は好まなかった。しかし、今の彼に拒否権はない。また、畜産用の成長促進剤の様に抗生物質も含まれていないとの事で、薬剤耐性菌の発生するリスクも低い。この事を受け、希人と修大はDD用成長促進剤の使用を受け入れた。
だが、使用を始めて約二週間後。
早くも彼らが育てる恐竜に異常が現れる。
「おい、レモン……」
その日の朝。修大が目にしたのは、関節の痛みを訴え、立ち上がる事が出来ずに悶えるレモンの姿だった。逞しい二本の脚を力なく畳み、腹部をケージの底へぴったりと付けている。
目の奥に涙を溜めながらもその気持ちを堪え、修大はレモンに呼びかけ続けていた。
「大丈夫……大丈夫だ。瀞さんも俺も着いているからな」
「木野君、そのまま呼びかけ続けて。いい子よぉ~レモン、痛くないからねぇ~」
瀞以下、獣医班の面々も駆けつけ、レモンの手当てにあたる。薬剤の効果もあり、すでにレモンの体長は五メートルを超えていた。
しかしその瞳は、未だに初々しい輝きを湛えている。年齢的にはまだ幼い子供なのだ。
修大は幼子をあやす様な優しい声をレモンにかける。一方で処置を施す瀞達には、全く余裕が見られない。
彼の左手では、悔しさと不甲斐なさを込めた拳が左手で堅く握られている。一方でレモンの脇腹を擦る右手は、真昼の太陽の様に柔らかく温かいものだった。
傍らでは、瀞が助手たちと共にレモンの関節部分を中心に薬を塗布している。
その様子を希人は五歩ほど下がった場所から眺めていた。正しくは、「見守る事しかできず、立ち尽くしていた」と表現した方が適切かもしれない。
修大の呼びかけや瀞の処置が功を奏したのか、荒々しかったレモンの呼吸も今は大分落ち着いてきた。去り際に一度レモンの脇腹を優しく撫でると、修大は希人の元へ歩み寄る。
「いいのか? レモンに付いていなくて」
「まぁ心配ではあるけどな……でも瀞さんも付いているし、俺にはやる事があるからな!」
――心配しなくていい。俺一人でも大丈夫だ。
……のど元まで出かけたその言葉を、希人は飲み込んだ。レモン同様、サラも薬剤の投与を受けたが、幸い異常は現れなかった。
だが、修大に比べるとトレーナーとしての技量が劣る希人である。成長速度に比例して加速度的に増えた訓練内容を、一人だけで全てクリアしていく事は非常に難しい。
「悪いな……」
「いや、いいよ」
短く言葉を交わし、希人と修大はサラの待つ訓練用区画へと向かった。
* * * * * *
「サラ、ジャンプ!」
人工島の訓練用区画に設けられた屋外運動場。希人の声に応え、サラは二メートル近いハードルを飛び越えていた。
「サラの方は調子よさそうですね」
「翁さん……あれ? 今日はお休みじゃありませんでした?」
聞けば「特に用事もなかったので、レモンの様子を見に来た」のだと彼女は答えた。
オーバーオールとTシャツを着込んだ希人とは対照的に、ちかげは薄水色の上品なワンピースに身を包んでいた。普段は目にしない濃紺の大きなヘアピンが黒髪のショートヘアにアクセントを加えている。白磁のような柔肌と合わさり、爽やかな夏風の様に清らかな美しさを彼女は纏っていた。
「さっき木野さんにも会いました。レモンも明日からは訓練に参加できるそうですよ」
「そうですか……それは良かった」
ちかげの言葉を聞き、希人はそっと胸を撫で下ろす。
……あの日から八日が過ぎていた。
苦しむレモンに何も出来ないばかりか、自分が未熟であるが故に、修大を引きなしてしまった。それは仕方のない事だったのかもしれない。
だが、もっともらしい理由があっても、希人はそれを受け入れらずにいる。
ここ数日、希人は修大に頼りっ放しだった。支え合い助け合って行こうと決めた矢先、自分の側から一方的に頼る状況が続いてしまう。
勿論、気のいい修大はその事を咎める事などしない。しかし、頼る側の人間はそうもいかなった。希人はつい、自分の弱音をちかげに漏らしてしまう。
「あの……翁さん」
「なんですか?」
「あ、いやね、実は結構参っちゃってて! なんて言うかその……僕、本当に役に立ててるのかなぁ~って…………トレーナーとしての技量はイマイチだし……なんかゴメンナサイ、こんな話聞きたくないですよね」
精一杯明るくしようと試みたが無理だった。高く張り上げた声は、濡れた紙飛行機が如く、地に落ちる。
自信なさげに目を伏せる希人。彼に聞こえない様、そっと溜息を吐いたちかげは、草むらに腰を下ろした。背を丸めて小さくなった希人を下から見上げ、地面をぽんぽんと叩いて彼にも腰掛けるように促す。
「そのワンピース汚れちゃいません?」
「いいですよ、別に。洗濯すれば落ちますから」
ちかげはそう言ったが、希人はポケットからハンカチを取って差し出した。
不思議そうに首を傾げる彼女に、その使い道を説明する。
「良かったらこれ敷いてください。草染みって種類によっては落ちにくいんですよ」
「あ、ありがとうございます……でも、いいんですか?」
「安いハンカチですから、どうか気にしないでください」
ちかげがハンカチを尻に敷いたのを確認すると、希人も隣に腰を下ろした。
視線の先ではサラがハードルを飛び越える反復運動を続けている。
「…………」
「…………」
しばしの沈黙の後、先に口を開いたのはちかげだった。
「篭目さん、覚えてます? 篭目さんが初めてここに来た日の事」
「……忘れたくても忘れられないですよ。邪竜に出くわしたかと思ったら、今度はDFが出てくるし。何より結構惨いもの見ちゃいましたしね……」
希人の表情が一瞬曇る。
彼の脳裏にはサラを取りだした日……つまりはサラの母体が邪竜と共にマイクロ波フィールド内で焼き殺された日の事を思い出していた。
現生生物の全てを食物とし、正常な生態系の営みを破壊する邪竜。
その日、邪竜という悪魔の様な生物を一体葬る事に成功した。だが代償として、一つの町で生きとし生きる生物が消えてしまう。
すべてを焼き殺す科学の檻。邪竜を道連れにした一頭の母恐竜もまた、その犠牲となっていた……。
言葉に詰まる希人にちかげは問いかける。
「…………あの日、私が言った事は覚えてくれてます?」
「えっと……なんでしょう?」
「私が〝その子を助けていただいてありがとうございました〟って言ったことです」
「あぁ、そういえばそんな事言ってましたね……」
「〝そんなこと〟……ですか」
力ない希人の返答に、ちかげは眉をひそめえる。その表情は怒りや落胆と言うよりも、憂いや寂しさを帯びたものだった。
「私、あの時は本当に嬉しかったんです。でもそれは篭目さんにとって、取るに足らないことだったんですか……」
「いえ、そんなつもりじゃないです!」
つい語気を強めてしまったちかげに対し、希人は狼狽してしまう。そんな彼を見つめる視線は、より一層強い哀愁の意を孕んでいた。
「ごめんなさい、少し乱暴な言い方になってしまったみたいで……」
「こちらこそ、何だかすみません……」
二人の間にあるわずか数十センチの隙間。
並び合う彼らは目を逸らし、彼は天に、彼女は地面にその視線を向けていた。互いの存在を隠す障子紙のような沈黙が、二人を隔てる。
竦めていた肩を小さなため息とともに弛ませ、ちかげは再び唇を動かした。
「その……今こうしてサラが生きているのも篭目さんが居たからなんです。篭目さんから見たら、私は関係ないのかもしれません。でも、あの子……サラのブリーダーを引き受けていただいたこと、私も感謝しているんです! 本当にありがとうございました!」
気付けば彼女は立ち上がり、小刻みに震えながらも希人の瞳を真っ直ぐに見つめている。迷いのない直線的な視線が、その言葉が真意であることを物語っていた。
きっと彼女が放ったこの言葉には、微塵の嘘も混じっていないのだろう。
希人は彼女と始めて出会ったあの日、マイクロ波フィールドに焼かれていくアルバートサウルスを見つめる物悲しげな少女の横顔を思い出していた。
――そういえば翁さん、あのアルバートサウルスの事も知っていたんだっけ?
修大と殴りあった日、瀞から聞かされていた。
ちかげがサラの母親に当たるあのアルバートサウルスと共に戦っていたこと、そして自分がサラのブリーダーを引き受けることを彼女が喜んでいてくれたことを。……恐らくまだ、その時に聞いた〝サラの母親に纏わる誤解〟には聞くべきではないだろう。
しかし、その時知った彼女の願いや期待には応えたいと希人は思っていた。それは今彼の目の前にいる、瞳に涙を溜めた少女の無垢なる願いなのだから……。
「ごめん、翁さん。俺、甘えてたね」
「あっ……いえ、そんなつもりじゃ……」
「ううん。翁さんがそう思わなくても、俺は甘えてたよ。それに驕りもあった。無力なクセに分をわきまえてなかった訳だし。俺一人訳じゃ出来ないことなのにさ。だから、その……」
「その?」
「その……『その事に気付かせてくれてありがとう!』みたいな…………」
小さな勇気を振り絞り、渾身の力で希人は自分の思いを口にする。
だが、気恥ずかしさが圧し掛かったその視線は、直ぐに地面に落ちていく。ちかげの目を真っ直ぐ見つめられたのは、恐らく二秒にも満たないだろう。
きょとんとしつつも、そんな彼からちかげは目を目を逸らせずにいた。
「なに見てるんですか……そんなに俺の事をじーっと見るの、うちの〝ぶふぉ太〟くらいですよ…………」
「その比較対象、私じゃなかったら怒ってますよ! 変な人……プフフ」
ちかげは思わず吹き出してしまう。可笑しくてしかたないのか、お腹に手をあてて体をくの字に曲げている。対して希人は少し不機嫌そうに、口を尖らせていた。
ちなみに「ぶふぉ太」というのは彼が飼育しているアズマヒキガエルの愛称である。
「何もそんなに笑わなくても」
「あっ、すみません……じゃあ私、そろそろ行きますね。今日元々休みでしたし」
「そうでしたね……あっ、ハンカチ! いいですよ、そのままで」
「いえ、きちんと洗濯してお返しします」
「でも、今日帰ったらもともと洗濯するつもりでしたから、別にいいですよ。そんなにお気遣いいただかなくて」
「いえいえ、私のお尻に密着したハンカチが今晩のズリネタとかにされたら困りますから! じゃ、今日はこの辺で失礼しますね♪」
――この小娘は何を言っているんだ……。
その言葉を聞かないうちに、ちかげは笑顔で手を振り、遠くへ走り去っていた。
――――グゥウウ♪
頭上からかけられたのは、小さく鼻息を鳴らして立てられた大きな音。
「お疲れ、サラ! じゃ今日は帰ろうか」
訓練を終えたサラが、甘えるような視線を落として希人を覗き込んでいる。薬剤投与と希人たちのケアが実を結び、既に体長は7メートル20センチ弱、体重は1トンを超えていた。
……だが、彼を覗き込むその視線は未だ幼い雛鳥の様だ。
翠玉に似た瞳を持つ我が子の鼻先を、羽根も鱗もない親鳥役は右手でそっと優しく撫でる。
春から夏へと向かうある日の夕暮れ。
赤々と燃える空に藤色が混じり、昼と夜を繋いでいた。
薄紅色に染まる雲海の切れ間から地面へ、海へ、生ける草木へ、長波長の光が射し込む。
不意に海の匂いが弾け、野草はそよぎ始めた。
陸から押し寄せる風は、草花の呼気を乗せ、海原へ吹き抜けていく。
風の行方を指し示すように揺れるアカツメクサの群生。
足元に芽吹き、生きるものたちは皆、緋色の光に包まれていた。
……更紗模様の若竜と、その傍らに佇む小さな影もまた、皆等しく緋色に抱かれる。
サラをケージに帰し、希人は帰路につく。「夕飯は何にしようか?」「今日はマリアにも餌を与えようか」と頭の中で考えを廻らせる。いつもと変わらない日常の中に彼は居た。
施設を抜ける廊下を歩く途中、亘と擦れ違う。
軽く会釈をすれば、向こうも返した。彼の後ろには見慣れない二人の男が続いており、彼らにも会釈を返される。
「ここがあなた方のDFになる恐竜達のケージです」
カードキーを取り出した時、その声は希人の耳にしっかりと届いた。
声の主である亘はもう遠く離れているのに、やけにハッキリと聞き取れた彼の声。
――何だ……最初から決まっていたことじゃないか。
そう呟き、希人は足元に落ちているカードキーを拾い上げた。