第三話「〝いただきます〟の意味」〈3〉
ドンドンドンと、鉄製の扉を叩く音が廊下に響き渡る。少し小柄な青年は、握りこぶしを規則的に叩きつけていた。
ほんの少し彼自身の苛立ちも込められているのか、扉を叩く力は決して弱いものではない。
「もしもーし! 篭目くーん! ……なんだよ、返事くらいしろよ」
修大は夕海からの連絡を伝えるため、希人の部屋の前まで来ていた。持ち前の大きな声で呼びかけるが、返事はない。痺れを切らした修大は、部屋のドアノブへ手をかける。
「返事がないなら開けますよー……あれ? 本当にいないじゃん。宿舎に戻るところを見たっていう人がいたから来たのによ」
生憎希人は不在だった。
関係者以外立ち入り禁止でIDパスがなければ入れないパンゲア職員用宿舎。一階には24時間体制でフロントも常駐しており、各階に監視カメラも設けられている。
確かにセキュリティ体制は万全に思えるが、それでも鍵もかけずに外出するのはいささか不用心だろう。修大の抱いていた希人のイメージは几帳面で取つき難いものだったのだが、意外とずぼらな面もあるようだ。
「なんかイメージと違って散らかった部屋だなぁ……」
修大は部屋の床に目をやる。
そこにはページが見開かれたままの本や、インターネットのページを印刷したと思しきコピー用紙が散乱していた。更には汚い字で書かれたメモ用紙や電源が入ったままの電子辞書が、テーブルの上で無秩序に置かれている。文房具に至っては使ったままの状態で、シャープペンシルは芯が出したままだ。
流石に散らかりすぎていると感じた彼は、親切心から少し片づけてやろうと床に散らばった紙を手に取る。不意にその紙に書かれた内容が目に入る。
そこに書かれていたのは、今まで世界各国のパンゲア内で飼育実績のある人造恐竜の育成記録や論文を纏めたものだった。
律儀にも原文のままのものには、内容を和訳した手書きのルーズリーフが挟んである。その字は希人のものだった。
先日彼から渡された資料の補足説明と同じ筆跡で書かれており、修大は直ぐに気が付いた。更に散乱している資料の中身をよく見れば、殆どが修大の受け持つ恐竜・カルノタウルスに関するものばかりだ。
……修大は今日、希人に礼を言うつもりだった。
「目を通してほしい」と希人に渡された資料。
そこには今までに他支部で育成されたカルノタウルスの記録、特に拒食や病気・ケガなどの事例とその解決に至る経緯が解りやすく纏められていた。
更には遺伝子改造を施す際に使われた現生生物の生態を纏めた資料と、そこから考えられる希人なりの注意事項と意見も記され、充実した内容のものだ。
しかし今目の前に散らばっているのは、それとは比べ物にはならない程の情報の山だ。
恐らくこれを希人は、修大と彼が受け持つレモンの為に纏めたのだろう。しかも一人で。
……昨日渡された資料に目を通し、彼は希人と上手くやっていけるのではないかと考え始めていた。
確かに修大から見た希人は、自分と異なるタイプの人間である。故に衝突する事も避けられられなかったのかもしれない。だが彼の誠実さや実直さは信頼に値するものだと、修大は確信した。
希人が纏めた資料の中には、活ラットを与えることで幼体期の拒食が改善された事例も記されていた。だが、やはり生きたままの哺乳類を与える事には抵抗がある。
だから彼は希人に相談しようと考えていたのだ。なぜなら修大にとって彼は……
「人の部屋勝手に入って何やってんの?」
「ちょ! 脅かすんじゃねぇよ……」
「いや驚いたのはこっちだし……ここ、俺の部屋」
修大の背後から不機嫌そうな声が投げかけられる。声の主は他でもないこの部屋の入居人、篭目希人だった。
少し苛立っている希人は、射る様に修大を睨む。
「あっ……まさかさっきの腹いせでコイツ等に何かしたんじゃないんだろうな!?」
「はぁ? ふざけんなよ! んな事するわけねぇだろ!」
「そうだよな……ごめん、少し言い過ぎた」
つい部屋の動物達の身を案じてしまった希人に、『そこまで見下げられたのか』と修大も語気を強めて言い返す。流石に希人もこれには反省しているようだ。
「で、何しに来たの?」
「あぁ、なんか夕海さんが俺達の歓迎会も兼ねて花見に行くからって伝言頼まれたんだよ」
「そうなんだ。その花見っていつ?」
「今日の午後」
「……急じゃない?」
「仕方ねぇじゃん、夕海さんがそう決めたんだし」
「それ、俺も行かなきゃダメか?」
「えっ? 何言ってんの?」
正直気が重い。希人はあまり乗り気ではなかった。
今朝修大とやりあってしまった事も原因の一つだが、それ以前に彼はこのような歓迎会と言った類の会合が苦手だ。歓迎会ともなれば当然話題は〝歓迎される側の人間〟に集まる事になる。自分が話題の中心になる事など希人は好まないし、そもそも苦手だ。
しかし彼とて成人した社会人である。この手の会合には乗り気でなくても、参加しない訳にはいかない事くらい解っていた。
それでも気が乗らないのは、今日の主役が希人だけでなく、修大も一緒だからである。
社交的で明るい修大と並んだ場合、自分とは雲泥の差が出るであろう事は彼自身がよく分かっていた。希人も社交辞令くらいの挨拶や会話ならできない訳ではないが、誰からでも好かれるでああろう修大と並べば見劣りする事は明白だ。
「とにかく伝えたからな! ちゃんと来てくれよ。でないと俺が夕海さんに怒られちまう」
「うん、わかった」
「あ、あとさ……今朝の事なんだけどよ」
「んっ?」
「スマン! 俺が悪かった! 篭目君の言うことはもっともだし、いきなり殴ったりして悪かったよ。ついつい頭に血が昇っちまって……まだまだ子供だわ、俺」
修大は部屋の外にまで聞こえそうな大声で希人へ謝罪し、頭を下げた。硬く目を閉じ、直角になりそうなくらいに背中を曲げている。
そんな唐突過ぎる彼の行動に、希人は呆気に取られてしまう。
「へっ……あぁ、いいよ。そんなに謝らなくて。俺のほ」
「えっ!? マジで許してくれんの? じゃあ今朝の事は水に流して、花見楽しもうぜ♪ 俺ら一緒に恐竜育てる〝仲間〟なんだしさ! じゃあ支度あるから俺も行くわ。二時間後に人工島のブリッジ前で!」
屈託の無い笑顔を向けてそう言うと、修大は足早に希人の部屋から立ち去っていった。これまた大きな声で、一方的に自分の喜びだけを告げる。
「なんだよ……人の話くらい、最後まで聞けよ…………」
人工島《白海亀》ブリッジ。
「おっ、これで全員揃ったねぇ!」
「お待たせしましたー! ……あれ、一緒に行くのは夕海さんとちかげちゃんだけ?」
「あぁ亘君たちは都合悪くてさぁ。なに? 木野君は私達だけじゃ不満なのかな?」
「いや、そんな事ないです! 今日の夕海さん超キレイ!」
どうやら歓迎会と言ってもそんな大げさな物ではないらしい。メンバーは希人に修大、ちかげと夕海、それにサラとレモンを加えた四人と二頭だった。二頭の恐竜には首から腰の辺りまでをカバーしたハーネスと、安全の為の口輪がつけられている。
右手に握られた手綱の先に居るサラを、希人は無心で見つめていた。それはサラに目を向けていると言うよりも、たまたま何かから目を逸らした先にサラが居ただけと言った様子だ。
「…………」
「どうかしました篭目さん?」
「あっいえ、ちょっとボーっとしていただけです。それと、今朝は本当ご迷惑おかけしました。申し訳ない」
「あぁ……いいですよ、解って貰えれば」
ちかげの声に気がついた彼は、今朝の事を詫びた。彼女の方へと向き直った視線は、再び足元へと伏せられていく。
「ちかげちゃーん! 篭目くーん! そろそろ出るわよー!」
十メートル程先から夕海が呼ぶ声がする。彼女の呼びかけに応え、希人とちかげも歩き出した。
駆け足で近づいてきた希人に、夕海はあるものを手渡す。
「はいこれ! 篭目君もサラちゃんに付けてね! 駅員さん達に解る様に背中辺りがいいかな」
それは【公共交通利用許可証】と大きな字で書かれたゼッケンだった。下の方にはパンゲア日本支部の印と、人工島内にある基地の連絡先が記されていた。
「電車で行くんですか?」
「うん、そうだよ。不特定多数の人に対して耐性をつけるための訓練でもあるからね」
突然の外出に驚きを隠せない希人。
どうやら今日のお花見は、ただのお茶会等ではなかったようだ。
青空が眩しい晴天の昼間。絶好のおでかけ日和のためか、電車の車内には人も多かった。
幸い平日の昼間であるため、決して『混雑している』と言うレベルまでには達していない。
ただ、遠足か何かにでかける集団と恐竜を連れた一行が同じ車両に乗り合わせていたため、ほんの少しにぎやいではいるが。
「うわぁ~! 何これ生きてるの?」
「そうだよ! 触ってみるかい?」
「本当だぁー!! なんかスベスベしてるー!」
気さくな修大とレモンの周りには、子供たちが集まっていた。まだ幼い彼らの好奇心に、生きた恐竜は興味を引く存在なのだろう。
子供たちに臆する事もなくレモンは体を触らせ、修大は誤った撫で方をしない様に子供たちに優しく指導する。
その光景を希人は傍らから眺めていた。愛想が良くて明るい修大の人柄は、多くの人が好感が持てるものなのだと改めて実感させられる。
「なんかこっちの子は色が綺麗ね」
「ほんと~、金魚みたい」
今度は引率の女性教諭たちがサラに注目した。特徴的なサラの模様を確かめようと上から覗き込む。
紅白の美しい更紗模様が印象的なサラである。レモンの体色も鮮やかな黄色をしているが、やはり人目を引くのはサラの方なのだろう。
「クゥン……」
女性達の影が頭上に落ちるのと同時に、サラは後ずさりして希人の後ろへ隠れてしまう。どうやら少し怯えている様だ。不安そうに鼻を鳴らしたサラを、希人は気に掛ける。
様々な脊椎動物の遺伝子を組み込んで産み出された人造恐竜。
そのアルバートサウルスであるサラには、一部のトカゲ類のように頭頂部に〝ろ頂眼〟と呼ばれる器官を持っていた。
俗に第三の眼と呼ばれるその器官は、顔に付いた一対の瞳に比べて形態視能力は乏しいが、光を感じ取ることが出来る。故にろ頂眼の上から覗きこまれれば、暗闇を感じる。
本能にインプットされた、上方から襲い掛かる外敵の脅威。反射的に感じる恐怖に、サラは怯えてしまったのだ。
「レモン♪」
修大がレモンに呼びかけ、中指と人差し指を上げる。
そのサインを確認したレモンはサラに近寄り、サラの顔に鼻先を擦りよせた。見た目に〝表情〟と言う変化は見られないのだが、サラの顔つきがどことなく明るくなった様にも感じられる。
するとサラは下げていた頭を上げ、自ら希人の前へ出て行く。落ち着きを取り戻したサラは、先程の女性たちに頭を差し出した。
「この子、撫でさせて貰ってもいいですか?」
「ど、どうぞ」
明るい笑顔で問いかけて来た女性たちに、希人はサラに触る事を許可する。保育士という職業柄なのか、明るくて柔らかい笑みを浮かべる彼女達。
その優しげな雰囲気に、希人は若干頬を赤らめてしまう。
「なんだか思ったよりゴツゴツしてるわね」
「ワニ皮に近い感触ですね」
口々に感想を言う女性たち。思いのほかサラの手触りは好評のようだ。
対してサラの方も触られることに不快感はないようで、目を閉じてリラックスしている。
「……ありがとう」
「あぁ、いいよ。今朝は俺の方が世話になった訳だし」
少し躊躇いながら礼を言う希人に対し、修大は笑顔で返す。
嫌味がないくらいに眩しい彼の笑顔は、希人の中にまだ僅かにあった敵愾心を解かしていった。
「あっ! そろそろ着くから降りる準備してね〜♪」
夕海の呼びかけで一行は降りる準備を始めた。
「私は焼きそばとイカ焼き! あと綿あめも食べたいな~♪ ちかげちゃんは?」
「たこ焼きをお願いします。あっ、マヨネーズは抜きにしてください! 今ダイエット中なので」
都内の某公園。大きな蓮の葉が密集した広い池を臨む小高い山には、満開のソメイヨシノが並び花見客で賑わっている。
もう既に眺めのいい場所は埋まっているが、適当な場所に敷いたシートの上には夕海とちかげが腰掛けていた。メインの桜並木からはずれた寂しい場所で、修大と希人は彼女達から注文を受けている。
「ダイエットって、ちかげちゃん、充分細いじゃん?」
「私の体重が増えると、その分ミリーの負担も増えますからね。当然の自己管理です」
「(そうだよね……翁さん意外と重いし)」
「なんですか篭目さん? 何か言いたいことでも?」
「い、いえ別に何も……」
「ホラ、さっさと買ってくる! 君らが仔恐竜連れいているから、女子の方が荷物持ちしたんだからね!」
夕海に急かされた修大と希人は、屋台の並ぶ桜並木道へ向かう。流石に人混みの中では邪魔になるため、サラとレモンは女性二人と共に荷物番だ。
「結構あの二人、人使い荒いよなぁ~。参っちまうよ」
「そうだね。翁さんの分のたこ焼、わざわざお店の人に焼きなおして貰っちゃたし」
気さくに話しかける修大だが、希人の方はどこか遠慮がちで、余所余所しさが残る。
間に開いた四十センチ弱の距離。踏み込めない微妙な距離を保ったまま、彼らは出店を回っていた。
「おっ! あれ金魚すくいじゃん。昔やったなぁ……篭目君は金魚掬いとかしたことある?」
「あんまりないかな……金魚掬いの金魚は弱ってることが多いし。それにあそこにいる金魚、〝小赤〟って言って一匹25円くらいで買えるよ」
「へぇ、そんな安いんだ」
「まぁ主に肉食魚の餌用だからね……」
希人は今朝の光景を思い出す。カルノタウルスのレモンが活ラットを加えている姿。
その是非を巡って修大と揉めてしまった。幸い彼は話を理解して貰えた様だから良かったものの、少し先走りすぎた点は希人にも非があるだろう。
「金魚の世界も大変だな……じゃあ金魚掬いの舟にいるやつは恵まれているのか?」
「どうだろうね……魚の粘膜は単純に空気に触れただけでダメージを受けるし、何度も掬われていたらスレ傷もできる。単純にストックされている段階での環境なら餌用に販売されている方が幾分かマシかも」
「…………」
「あっ、でも餌用の金魚を観賞用に買っていく人も稀にいるし、金魚掬いで手に入れた金魚を大切に育てる人もいる。一回の産卵で5000個以上の卵を産むことを考えたら妥当な生存率かもしれない…………と思う」
――なぜだろう? どうして自分はいつも凝り固まった考えてしまい、つまらない話しかできないのだろう?
希人は少し後悔していた。金魚掬いについての話など、適当に合わせて流せばいいのに生真面目に答えてしまった。
「どうでもいい」「つまんない」……同年代の若者と話した時、自身に向けられた言葉が希人の頭の中を駆け巡る。
「どうした?」
「んっ? あぁいや何でもないよ。二人とも待ってるだろうし、早く戻ろう」
修大の問いかけに軽く微笑んで答える希人。目を細めて作られた笑みは必要以上に優しげで、修大の心に一抹の違和感を与えた。
彼らはそれ以上言葉を交わさず、夕海たちの元へと急いだ。
「おっそいよぉ~!! 二人ともぉ~!!」
購入してきた昼食を抱えて戻ってきた希人と修大。そんな彼らを呼ぶ夕海の声がする。
赤くなった顔でくだを巻く彼女の周りには、空になったビール缶が並んでいた。
「あれ? 夕海さん酔ってる?」
「〝酔ってる?〟……じゃねぇよ! 男子二人ィ!! お前らの帰りがぁ~遅いからぁ~飲むしかなかったんじゃないんですかぁ……」
「ちょっと飲みすぎですよ、夕海さん」
「ヘヘッヘ……ちかげちゃんも呑むぅ?」
「私、未成年ですけど……」
「あれぇ? そうだっけぇ?」
「そうです。後5ヶ月くらいですけどね」
「そっかぁ……じゃあダメ……ウッ、気持ち悪い!」
空き缶の数はまだ3缶ほどだが、夕海はすっかり出来上がっている。呆れるちかげはため息をついて肩を落とした。
その様子を傍らにいるサラとレモンも見つめている。発達した表情筋は無いものの、情けない夕海に対して何か思うところがあるのは目が物語っていた。
「もうお酒強くないんですから、いい加減そのへん自覚してください!」
「ご、ごめぇん……でもお姉さん立てなくなっちゃたかなぁ……」
「まったく……ホラ、早く掴まってください! 言っておきますけど、トイレに着くまで絶対吐かないでくださいね! すみません、お二人とも荷物番お願いしますね」
そう言い残すと、呆れきった表情のちかげは顔面蒼白になった夕海へ肩を貸し、席を離れた。希人と修大は、二頭の仔恐竜と共に取り残される。
「ははは……ちかげちゃんも大変だわ……」
「そうだね……」
少し乾いた笑いを浮かべる修大。それには希人も同意するが、未だにその表情は未だ硬い。
「なんか長くなりそうだし、俺達だけで飯食おうぜ!」
「うん……」
遠くなるちかげ達の背中を見送り、彼らもレジャーシートに腰を下ろした。
希人はたこ焼を頬張り、ゆっくりと噛む。彼はソースと鰹節だけで味付けされたたこ焼きの方が好きな様だ。ちかげの分と一緒に焼いて貰ったたこ焼きを何度も咀嚼し、間を持たせようとする。
実のところ、希人は修大と言葉を交わすことに未だ抵抗があった。
明るくサッパリした性格の彼は、今朝のいざこざ等もう気にはしていないようだが、希人の方はそう上手く行かない。
基本的に穏やかな気性で、人との衝突は避ける希人。しかし時として、その姿勢を崩す事がある。
それは動植物の命と向き合う上で、自身の倫理観に基づいて主張する時だ。
物言わぬ彼らの代弁者として、またある時は彼らの本能や環境適応能力に対して、管理者として責任を全うするため。希人は自らの考えを、臆する事無く相手にぶつけてきた。
しかし、正論がいつも受け入れられるとは限らない。
関心のない相手には敬遠され、利害が衝突する者からは疎まれる。また、少々手が汚れる仕事にも割り切って臨めば、「残忍だ」と謂われの無い批判を受ける事もあった。
今日までその様な経験を重ねるうち、希人は他人と距離を置くようになっていた。
「んっ? どうかした?」
「いや、少し昔の事を思い出していただけ……」
「そっか……しかし今日は天気いいなぁ! 桜の花とかやっぱり綺麗だよね」
「うん、そうだね」
この日の空も、桜の桃色を引き立てるよう様に澄み渡っていた。希人にとって、今年に入ってから二度目の花見である。
前回は花見に行ったことで、自身の孤独さを浮き彫りにしてしまった。見ない様にしていた自分自身の情けない感情が、大きくなっていく感覚が甦る。幸い今回は見知った人間が隣に座っているが、その場所が居心地のいい所かは、また別の問題だった。
「だよな。人から綺麗だって言われる為に咲いてきたんだから、ちゃんと見てやんないと」
「えっ?」
「んっ? 篭目君知らないの? この桜、〝ソメイヨシノ〟っていう園芸品種だよ?」
「いや、それは知ってるよ。ただ木野君がそんな事知ってるなんて意外だったからさ」
「はっ? 俺の事馬鹿にしてんの?」
穏やかな表情で感傷に浸っていたかと思えば、今度は少し不機嫌そうに眉を吊り上げる。
落ち着きがないくらいに表情が豊かで、騒がしいくらいに明るい雰囲気の修大。そんな彼が桜の品種について、僅かでも造詣があった事に希人は少々驚かせられる。
もっとも、修大が口にした言葉は希人にとって、驚きよりも共感を覚えるものだった。だからこそ、きちんと伝えなくてはと思う。彼に対して抱いている感情や、自分の信念を。
「ごめん、馬鹿になんてしてないよ。……そうじゃなくてさ、木野君の言うことはもっともだと思って。俺、思うんだ。『人の手で生み出された命は、人の価値観の中でちゃんと意味を持たせなきゃいけない』って。桜も金魚も……恐竜もさ」
それは、希人をサラのブリーダーにさせた彼自身の根底にある倫理観。決して楽ではない選択をさせただけあって、優男風の彼には似つかわしくない位に強固な信念でもある。
自らの考えを主張する時は、臆するはずのない希人だった。だが今は、なぜか伏し目がちだ。それは恐らく、彼の中で修大に対して思うところがあるからだろう。
「だけどそれは、勝手に先走っていい理由にはならないよな……。活き餌の使用だって、木野君にも相談しなきゃいけなかった」
「あっ、いいよ。その事はさ……」
「いや、悪いのは俺の方だよ。勝手に焦ってたんだ。サラやレモンをきちんと育て上げなきゃいけないって……。だけど不安でさ。だから勝手に、何でも一人でしようとしてたんだ。そんなん許される事じゃないよな…………本当、ごめん」
僅かな沈黙の後、希人は自分がされたのと同じように深々と頭を下げ、修大へ謝罪の意を示す。自室で伝えられなかった自分の気持ちを、彼はようやく口にすることができた。
「いや、本当にいいって! ぶっちゃけ俺だって焦ってたしさ……。それに俺は篭目君みたく、サラとレモンの両方を満遍なく見る事はできてなかったよ。だから本当に感謝してる。篭目君から貰ったあの資料、すげぇ解りやすかった」
「だから顔を上げてくれよ」と、頭上からかけられた優しげな声に従い、希人は顔を上げる。目に入ってきた修大の表情は、非常に穏やかなものだった。
大きくて丸い目が、希人を真っ直ぐに見据えている。そして彼の唇が開く。希人に対して伝えなければいけなかった、もうひとつの気持ちを、修大はゆっくりと紡ぎ出す。
「本当はさ、今日会った時にその事伝えるつもりだったんだ。難しい課題にも向き合って考えてくれる篭目君が一緒で、俺は心強いよ……でもさ、何でも一人で考え過ぎてない? それって大変だとう思うんだけど、どうなの?」
「えっ? まぁ楽ではないかな……」
不意に投げかけられた質問に、希人の声が思わず上擦る。彼が一瞬だけ露わにした心細さ。
それを修大は見逃さなかった。希人の心に寄り添う様に、やさしく語りかける。レジャーシートに腰を下ろしたままの彼だが、自分の方へ歩み寄ってきてくれるような錯覚に希人は陥る。
「でしょ? だからこれからは俺も一緒に頑張らせてよ。当然、俺の方が得意な事もあるし、俺の意見だって聞いてもらう。だけど俺一人じゃ解らない事も多いし、コイツらには篭目君が必要だよ。……ってかさ、何よりも俺にとって篭目君が必要なんだよね。よろしく頼むよ」
躊躇いがちに修大は語りかける。はにかみがちな彼の笑顔はまさに人懐っこい子犬の様で、希人との間に出来ていた距離を埋めていく。
……不意に目頭が熱くなる。
正論をぶつけ、自分の考えを伝えても、煙たがらずに向き合ってくれた人がいただろうか?
自分一人で向き合わなければいけないと思っていた。
誰かに理解を求めている暇があったら、自分がなすべき事に取り組んだ方がいい。誰かと解り合う事よりも大事な事だって世の中にはある。
――だけど、本当は寂しかった。
いつでも正しくあろうとする姿勢は、彼を孤独にした。それでも自分に嘘をつき、良心を裏切るよりは良い。
……だがそれは彼に、「一人でも構わない」という別の嘘を要求し続けた。
「ふぁー! スッキリしたぁー!」
「もう……今日はお酒飲まないでくださいね」
「えぇ~! そんなぁ~!」
スッキリした顔の夕海と、対照的にぐったりした表情のちかげが戻ってきた。
「あれ? 篭目さん、その目どうしたんですか?」
「ん? 本当だ! 赤いねぇ……ひょっとして花粉症? もしかして花見にしない方が良かったかな?」
「あっいえ、ちょっとゴミが入っただけですよ! お二人も帰ってきましたし、目を洗ってきます。ついでにちょっと屋台でもみてこようかなぁ! ハハハ……」
希人は慌てて席を立つ。精一杯の笑顔を作って、足早に歩いて行った。
決して彼女達に顔を見せないようにして。
四月の終わり。まだ外で浴びる水道水は冷たい。
蛇口から出る水を手に組み、水飲み場で顔を洗う。両手に覆い隠された素顔が情けない泣き顔になっていても、これなら周りからは判らないだろう。
希人は二、三回顔を洗った。まだ冷たく感じる春の空気と冷水は、彼の思考はクリアなものへと変えていく。
まだ多少目の周りが濡れているかもしれないが、水だと言い張ればいい。濡れた顔を拭こうと、ポケットからハンカチを取り出す。その時だった。見知った顔が希人の目に入る。
「ちょ……何してんの?」
「いや、屋台見に行くって言ってたのに、財布忘れていったから届に来たんだけど……」
振り向くとそこには修大が立っていた。右手には合皮製の長財布が握られている。ハンカチで顔を拭うと、希人は財布を受け取った。
「ありがとう……わざわざ悪かったね」
「どういたしまして。もう屋台は見て回った?」
「いや、まだだけど」
「じゃあ折角だし、一緒に見て回ろうぜ!」
「えっ?」
「嫌なの? ちょっとショックだわぁ…………」
わざとらしく肩を竦めて、希人の顔色を窺う修大。その態度は落胆と言うよりも、相手を断わり辛くさせる計算高さが見え隠れしていた。
……もっとも、そんな小芝居を打つ必要など、最初から無かったのだが。
「いや、そんな事ないよ。そうだな……最初何処行こうか?」
「よし! パシリにされた時に結構面白そうなところ見つけたからな! 早く行こうぜ、希人!」
「……う、うん」
少し気恥ずかしそうな顔で答えた希人に、修大は満面の笑みを返す。まるで地面から浮いている様な彼に続いて、希人は歩き出す。
――〝希人〟か……。
軽い足取りで前を歩く修大。だが頻りにこちらを振り返っては、笑顔を覗かせる。
希人にとって、こんな風に自分の前を歩かれるのは、えらく久しぶりの事だった。
* * * * *
「いい歳して輪投げですか……」
「えっ? いいじゃん輪投げ。楽しいし」
「そりゃ入る人はいいでしょうけど……」
「……ちゃんと狙って投げないと何も当たらないぞ。」
「うるさい……(これでも俺は狙って投げているつもりです!)」
「あぁあ、また切れちゃったよ……」
「ふふん……ヨーヨー釣りには集中力と一瞬の好機を逃さない洞察力がね、必要なんだよ」
「すげぇ! いっぱい取ってる!」
「どうだい? なにか取ってあげようか?」
「マジで?! じゃああの黄色いやつ!」
「……あれはちょっと取り辛いな」
「えっ? 取れないの?」
「……取り辛いとは言ったけど、取れないとは言ってないよね?」
「(あれ? こいつムキになってる?)」
「こっちにもぽっぽ焼きの屋台あるんだ」
「何それ?」
「うちの地元の屋台の定番。黒糖の入ったホットケーキみたいな奴って言うと分かりやすいかな。うまいよ」
「どれどれ……なんか細長いんだな。おっ、本当だ! 結構美味いじゃないか!」
「でしょ~! 俺、昔これ作るバイトした事あるんだよねぇ」
「マジで? じゃあ今度俺にも作ってよぉ~♪」
「え? ……まぁいいけど」
* * * * *
「今日は私の小芝居に付き合ってくれて、ありがとね!」
「小芝居? ……本当に酔っ払っているように見えましたけど?」
「えぇ~! それは気のせいだよ、ちかげちゃん!」
ちかげから向けられる冷たい視線に、夕海はおどけた態度で答える。そんな彼女の態度に、ちかげは半ば呆れ気味である。
「……それはさておき、サラもレモンもいい子達ですね。私たちの言うこともしっかり聞きますし」
「まぁ今の段階としては合格ってところね。と言うか、かなり順調だわ」
窓から夕日が差し込む電車の車内。それぞれサラとレモンを連れた夕海とちかげは、手すりに掴まって傍らの座席へ目をやる。
座席に座る人物の有り様に、ちかげは大きく溜め息をついた。また夕海に至っては、彼らの様子を見て、面白おかしく笑っている。
「それなのに、なんで肝心のブリーダーが二人揃って寝ているんでしょうね……」
「仕方ないわよ~。今日色々あったし、ゆっくりさせてあげましょう」
「大の男が二人肩寄せ合って寝てて、しかもその手には水風船のヨーヨーとか……ちょっとキモいです」
「まぁそう言わない! それにしても篭目君が紅白で、木野君は黄色ね……ちゃっかり自分の恐竜と同じ色を選んでるのね。ちょっとかわいいかも♪」
肌寒さが消えた春の盛り。
金色に輝く夕日に雲は赤く染まり、空は夜の紺碧を纏い始める。
遊び疲れた子供達が家路につく一日の終わり。
沈む太陽の光が、もう子供とは呼べない彼らを包みこんでいた。
◆2013/10/21
この話と次話である
第四話「そんなに泣かないで」〈1〉の間に入る番外編のエピソードを投稿しました!
『恐竜の飼育員、今日も奮闘する。』
(N3478V)
よろしければそちらもお願い申し上げます!