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動物企画

動物企画「ゆきうさぎ」@小野チカ

作者: 小野チカ

 まんまるの赤い瞳も、

 抜けるような白い肌も、

 ぴょんと立った長い耳の垂れ具合も、

 今日も完璧! あたしは可愛い!!

 

 獣、獣人、人が住むこの世界の中でも、あたしは類い稀なる可愛さを独り占めしている。まあるい尻尾は思わず触りたくなっちゃうし、毛並みだって綺麗だもん。日に当たっても焼けない肌は、なめらかで触り心地がいいし、紅茶にみるくをなみなみと注いだような色をした髪は、ふわふわとゆるくカールして、元から小さい顔をもっと小顔に見せているみたい。いいなぁ、ってよく言われるの。

 

 女豹のおネエさん達に囲まれることもあるけど、それってやっぱりあたしの可愛さに嫉妬してるわけだしね。グラマラスな体形を好む男の子たちも多いけど、今日より若い日なんてないんだもん。可愛くなれないおネエさん達かわいそ。

 

 それにあたしはすっごく寂しがりやだから、甘えるのが得意なの!

 みんなしょうがないなぁ、なんて言いながら、目尻が下がってるの知ってるんだ。兎のユキって言えば誰もがうっとりとあたしを思い出す。獣の国で、あたしに惚れない人なんて早々出会うことなんてなかった。

 

「え? 人間の国に行くの?」

 

「そう!! おねがーい。ユキついて来て? もちろんパフェ奢るから!」

 

「どうしようかなぁ」

 

 小首をかしげる動作だけでも男の子は簡単にあたしのことを好きになる。今だって、あたしのことを盗み見ていた左端の男の子は、見とれて恍惚の表情を浮かべていた。当たり前よね。だってあたし可愛いし。

 

「一人で行くのは怖いもの! ユキと一緒なら可愛いからって絡まれてもいつも助けてもらえるじゃない? おねがーい!! どうしても人間の石けんが欲しいの」

 

 人間の国に行くときは必ず獣人であると隠しなさい、っていうのが獣の国の教えだった。その昔、国がまだ一つだったころに生まれた獣と獣人は、仲良く手を取り合って今の獣の国を作ったんだけど、人間は一緒に住めなかったみたい。

 

 人間って嫌いなのよね。あんな棒切れみたいな手足くっつけて、脆くて弱いくせに強がってるところがだーいっきらい。ちょっと手先が器用だからってあたし達を見下しているところとかも嫌い。

 

 私ほど高く飛べない足なんていらないし、毒草を嗅ぎ分けられない鼻なんていらない。夜目のきかない目のどこが魅力的なのかもわからないし、黒色ってそもそも綺麗じゃないもの。あたしは半分しか獣じゃないけど、獣が半分混じっててよかった! ってずーっと思ってる。こんなに可愛く生んでくれた両親に感謝だもん。

 

 一つ褒めてあげるとしたら、確かに人間の作る石けんはいい匂いがする。沢山泡立つし、すっごくクリーミーなの。肌に吸い付く様なあの泡で体を洗えば、三日くらいはずっといい匂いでいられる。獣の自然な匂いがワイルドでいいなんて言われていたのなんて、二十年も前のことだし。それに自然な匂いって結構臭いのよね。

 

 やっぱり女の子はやわらかくていい匂いがしないと!

 

「うーん、そうだなぁ。パフェいらないから、あたしにも石けん買ってくれるならいいよ?」

 

「ユキは石けんつかわなくても、いつもハチミツみたいに甘くて可愛い匂いがするじゃない」

 

「女の子たるもの、美の追求に手を抜いちゃだーめ」

 

 机にひじをついてぴょこんと首をかしげると、垂れ気味の耳がやわらかく揺れる。その動作でうっとりする男の子を増やしてしまうあたしは、やっぱり獣の国で一番可愛い。

 

 昔は一緒に住めないなんて言ってた人間も、獣の繁殖能力に勝てるわけがなくって、世界が新しい年を迎える度に人がどんどん減っていったの。そもそも力の強さも違うのに、獣たちに勝とうとしたのが間違いなのよね。賢いのかお馬鹿さんなのか、ちょっとよくわかんない。

 

 戦争しては負けて土地を減らし、今では大陸の五分の一程度の小さい区域で暮らしている。織物とか石けんとか、後は農作物と科学研究っていう聞くだけで頭がいたーくなりそうなもので生計を立ててるみたい。そんな小さな作業をしなくても、食べるだけなら狩ればいいのに。弱肉強食って言葉を知らないのかしら。力のある者が弱い者を食べることを悪いと思っている考えは理解できない。

 

 今は獣の国と人間の国で行き来があるから、前程獣であることを隠さなくていいみたいだけど、人間の国じゃあやっぱり目立つから、あたしはいつも帽子を被ってスカートをはいている。目はどうしようもないからそのままだけど、顔を近くでじーっと見つめられることなんて、ほとんどないし、何度か遊びに行ったりもしたけれど、捕まったことなんてないしね。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 几帳面に敷き詰められた石畳は歩くと硬い音がする。獣の国は靴を履かない人も多いから、固い道はないのよね。お陰で学校の校外学習で小石拾いとかしなきゃいけないんだけど。

 

 学校の帰りだったこともあって、夕日がまんまるく綺麗に見えている。この時間は、お日様とお星様とお月様と、明日のお日様が見える時間ですごーく貴重なの。明日のお日様に願い事をすると叶うっていうおまじないがあるくらい。

 

 目当てのお店は国境近くにあるとは言ってたけど、割と人間の国の都市に近いところだった。私の好きな石けんやさんはもう少し近い。最近できたらしくって、香りがいいって評判なんだって。歩いて行くうちに遠過ぎて気持ちが萎えちゃった私は、隣でいかにその石けんやさんが凄いかって話をしている同級生の言葉に乗り気じゃなかったんだけど、鼻をかすめる素朴な香りに思わずくんくんひくついちゃう。

 

「あった! あそこよユキ」

 

「わぁ、素敵!」

 

 煉瓦造りの多い獣の国では滅多に見かけない、木造作りの家がそこにはあった。お店って言われないとわからないくらい、普通の家なんだもん。一人で来てたら絶対見つけられない。看板もないし、ちょっと不親切だよね。

 

 引き戸のそのお店は、少し開けただけでとても素朴で優しい香りが肌を撫でていく。いい匂い。主張しすぎず、でもきちんと存在感のある嗅いだら忘れられない香り。石けん単体はいい匂いなんだけど、それが種類違いにいっぱい置いてあるお店って獣人にはちょっと刺激が強いのよね。何度も鼻がもげちゃうって思ったもん!

 

 控えめ、とか奥ゆかしい、とかいかにも人間らしい香りは、でも不思議と嫌じゃなかった。

 

 獣はどっちかっていうと自己主張が激しくて、前進あるのみ! だもの。獲物を見つけたら飛びつかずにはいられない。

 

「いらっしゃいませ」

 

 狐目の店員さんは一瞬獣人かと思ったけれど、ちゃんと人間だった。笑った時に覗いた八重歯は獣のものじゃない。あんなちょっぴりの尖った歯なんて、ないのも同だもん。

 

「は、は、はじめまして。あの、香りが素敵って聞いて……その、えっと……素敵なお店ですね! どれも香りが可愛くてその好きです!!」

 

「…………そう、ありがとう。どんな香りが好きですか? よければ試していって下さいね」

 

 いきなり告白をしてしまった同級生に驚きながら、栗毛の狐目の店員と話し始めたので、あたしは店内を冷やかす。他のお店では流行のハート型とか、タワー型とか、形が可愛い石けんで溢れているのに、このお店のものはつまらないくらいに同じ形だった。型を作るのが面倒だったのかなって思うくらい。つまんない。プライスカードの上に書かれている文字を眺めては次のものを眺める。桜とか萌葱とか見る限り、人間の国の国産にこだわってるのね。あんまり広くない店内を囲うように低い机があって、そこに一つ一つ丁寧に和紙で包まれている石けんは手作りしてます! って聞いてもないのに言っているみたい。なんで破いて捨てちゃうものにこうも手をかけるのか、本当人間って理解不能。

 

 あたしは途端につまんなくなっちゃって、同級生に外で待ってるからゆっくりしてね、って声をかける。かわいく首をかしげて言ったあたしに同級生は先に帰ってていいよ、って言った。狐目の店員さんに惚れたな、って思ったけどそこはあたし優しいから突かないでいてあげる。一人で行くのが怖いって言ってたくせに、帰りは一人でいいなんて随分都合がいいよね。まぁでも獣の血をひく女っていうのはこういうものだし何とも思わない。私だって気に入りの男が前にいたら、なりふり構わず口説くもん。

 

 ハチミツのようなねっとりとして甘い匂いが好きなあたしには合わないし、帰ろうかな、って思って店を出る。明日のお日様を空に見つけて、良い男にあたしも出会えますようにってお願いした。

 

 石けんの匂いも好きだったんだけど、こんなささやかな香りじゃ一日もったらいいところなんだよね。私はずっと香っていたいの。だって女の子はやわらかくていい匂いじゃなきゃ!

 

 木造の家なんて早々見れないから、外観だけでも見学していこうと思って裏手に回る。小川がそばを流れていて、裏は気の遠くなりそうな程田んぼや畑だった。左手は山だし、都心に近いはずなのに随分と田舎なのね、ここ。

 

「でもほんとうに素敵。木と草のいい匂いがする」

 

 深く呼吸して吐こうとした瞬間、低い男の声がした。

 

「そんな匂いまき散らしておいて、良さがわかるか?」

 

 あたしを見てうっとりする男の子は沢山いたのに、そう言って声をかけてきた男はものすごく嫌そうな表情をしていた。しかも鼻を自分の袖で覆って臭いって言いたそうな視線まで寄越す。すっごく失礼!

 

「わかるもん」

 

「……何しに裏まで来た。さっさと帰れ」

 

 そう言って追い払う仕草をした男にすっごく腹が立った。何よ! なによなによなによ!! いい匂いだもん。無臭の人間の男なんか何の魅力もないじゃない!!

 

「ひどぉい! そんな言い方ないじゃない」

 

「俺の鼻がいかれる前に去れ。臭い」

 

 本気で向こうに行ってくれと言われてあたしはより男に近付いた。あ……この服なんて言うんだっけ。えーっと、そうだ。キモノだ。藍色の着物を着ている男は普段からこうした格好をしているからなんだろうけど、着物を着ていた。決して着られているわけではなく、どんな風に着れば自分をよく見せれるかわかる着方をしている。おうとつが少なくてのっぺりしてるけど、鷲のような鼻だけは褒めてあげてもいい。でも、他は特に魅力の感じない男に、そこまで邪険にされるのは獣の国の可愛い代表として引けないもんね!

 

「……本当にそれ以上近寄るな。駄目になる」

 

「あたし臭くないのに……ひどいです」

 

 うるっと瞳を涙でしめらして見上げる。切れ長なの一重と目があった瞬間、男の眉の間にある皺がより深くなった。

 

「獣か。お前と違って俺の鼻は繊細なんだよ、営業妨害だ」

 

「何も売ってないのに、営業妨害とか言いがかりじゃないですか?」

 

 自分が可愛く見える角度は日々の研究でものにしている。必殺上目使いで見上げても、男の皺は一向に取れる気配がなかった。それどころか、長い腕を伸ばしてこれ以上あたしが近付かないように牽制される。ひっどーい! だから人間って嫌いなのよ。鼻が鈍いのを繊細だなんて綺麗な言葉に置き換えるだなんて横暴じゃない。

 

「俺は調香師だ。これ以上お前の匂いを嗅いでいたら二日は仕事が出来ない。立派な営業妨害だ」

 

「ちょーこーし?」

 

「調香師。香りを作る仕事だ。わかったならさっさと帰ってくれ」

 

 香りを作る仕事なんて素敵! 

 興味の湧いたあたしは男が立っている後ろが作業場らしいとわかるといてもたってもいられなかった。見たい!! 香りなんてどうやって作るんだろう。

 

「見たい! ねぇ、お仕事見せて?」

 

「勘弁してくれ、新手の嫌がらせか。お前のその匂いをどうにかしてから出直せ」

 

 相も変わらず鼻を塞がれているので、男の声はくぐもって聞こえる。ここではいそうですかって帰るような性格してないのよね、あたし。なんたって獣は本能で動いてるんだもん。狙った獲物は逃さない。

 

「わかった。匂いがなくなれば見せてくれるのよね? 絶対こっち向かないでよ!」

 

 そう言って男に背を向けると帽子を捨てて、靴を脱いだ。シャツワンピースのボタンを手にかけたところで、男が、おい、とかなんとかうろたえ出したけど、あたしはもちろん聞こえないフリをした。獣に二言はない! 見せてくれるまで帰らないんだから!!

 

 あらわになった耳も尻尾も、みんなが可愛いって言って褒めてくれる。真っ白で人間の国の雪みたいだって。あたしはそれが嬉しくって人間もあたしをきっと可愛いって言ってくれるって思ってた。だから最初、人間の国に行く時に包み隠さずに足を踏み入れた。ただ、人間にとってあたしの尻尾がまあるくて白くてふわふわなんてどうでもいいみたい。獣や獣人自体を嫌ってた。弱者が強者を見て怯える目じゃない。嫌悪しかない、あたしが人を見て些細なことを気にして馬鹿みたいって思うのと同じくらい、人間もあたしの存在自体を嫌ってた。人間のちっちゃくて聞こえてるのかわからない耳が美しくて、あたしの長い耳は変だって言った子供もいる。

 

 人間と獣が行き交うようになったのに、なるべく隠しなさいなんて国が言ったことは、こういうことなんだなって嫌でもわかる。

 

 だから正直人間の前ですっぽんぽんになるなんてあり得ない。男の視線が泳いでいることは背中越しにもわかった。

 

 そのまま店の横に流れている小川に足を突っ込む。冷たくって思わず声が漏れたけど、膝まで浸かって手で擦った。頭を突っ込んで耳をもみほぐして、自慢のふわふわの毛だってちょっと乱雑に洗う。まだまだ発展途中の胸もその下の人間と同じへそも、匂いが取れるようにこすった。

 

「へくちょっ」

 

 夕刻の冷える時間に小川に入るなんて子供でもしない。

 ちょっと突っ走り過ぎたかも、と思った瞬間にあたたかいタオルがあたしを包んだ。振り返ると男が恥ずかしそうに視線を他所へやりながらあたしを抱き上げた。

 

「やだっ! 離して!!」

 

「馬鹿か。水浴びするには時間帯と季節を間違えてる。今は初冬だぞ。死ぬ気か」

 

「だって、獣の国はまだ秋入ったばっかりだもん」

 

「暴れるな、しぶきが飛んで冷たい。風呂に運んでやるからじっとしてろ!」

 

 そう叫ばれて体がびくつく。鼻を布で覆っていない男の声は低くてよく通った。体の底まで響く声にどきんと胸がはねる。

 

 見たかった作業場を呆気なく過ぎて、その奥の廊下を通り、二回ほど曲がったところでむっとする熱気に思わずまた暴れてしまう。だってこんな湿気くさいところにいたら毛がぺちゃんこになっちゃう!

 

「やだ! お風呂嫌い!!」

 

「は!? お前石けん使ってるくせに風呂が嫌いなのか?」

 

「違う!! 獣は熱い風呂なんて入んないよ! 水に決まってるじゃない。それも泉とか池とかだからこんな狭いところに入ったら死んじゃう」

 

「……狭くて悪かったな」

 

 そう言って木の板にあたしを下ろすと、男は大きな釜についてる蓋を外した。今でもすごくむっとしているのに、さらに湯気が出てあたしの毛が肌にひっつく。タライにその釜の湯を入れた男は蛇口をひねって水を出した。手で温度を確認するとタオルに巻かれたあたしごとそのタライに突っ込んだ。扱いひどい!! 放り投げられたと言っても過言じゃないよ、これ!

 

「なにす……」

 

「黙って前向いてろ」

 

 リボンのようなものを口に加えていた男をそのまま見続けていると、器用に着物の袖を結んだ。……すごいなぁ。あたしは人間と同じ手をしているけれど、あんなに指が長くない。細かい作業はどうしても苦手なんだよね。

 

「前を向いてろ」

 

 そう言って耳を掴んで前を向かされる。

 

「ひどい! 痛いよぉ!!」

 

「あ、そうか。すまん」

 

 なにが「そうか」よ!! うさぎの耳は繊細なんだからね。ぎゅってしちゃ痛い!!

 

 涙目になりながら前を向いていると湯気と共にほのかな香りが狭い空間を支配しだした。おそるおそる後ろを盗み見ると、男の大きな手が石けんを泡立てている。

 

「前」

 

「はいっ!」

 

 もう耳握られたら今度こそ死んじゃうって思って急いで前を向く。男の声は獣の男の子たちにはない、圧倒的な威圧感があった。ほら、獣の男の子たちって良くも悪くも単細胞だから、叫べば良いって思ってるところあるし。

 

「一応言っておくが、俺は別に獣は嫌いじゃない。大抵の奴が強い匂いをまき散らすから苦手なだけだ。お前は元が綺麗なんだから、こういう控えめな香りものを使ったほうが引き立つということを覚えておけ」

 

 人間に褒められて、胸がどきどきして止まらない。

 人間は、獣を嫌ってるものだと思ってたし、実際そうだったから男の言った言葉が信じられなかった。上を見上げると優しく笑う男の顔に行き着く。

 

 ……なによ。ちょっといいなとか思っちゃったじゃん。

 

「本当に美しいものは、香りで惑わさなくても価値がある」

 

 そう言って桶に湯と水を入れて持ち上げた男に尋ねた。

 

「ねぇ……それってあたしを口説いてるの?」

 

 だとしたら嬉しいな、って思ってたのに、男はそのまま持ち上げてた桶をあたしの顔面に落とした。信じられない!! いったーい!!

 

「バカ、何ませてんだこのウサギ!!」

 

「先に何か言う事あるよねぇ……痛い。痛くて死んじゃう。それにあたし、人間で言ったら二十歳くらいだよ。おませじゃなくて、お年頃!」

 

「その割には……いや、何もない。忘れてくれ」

 

 ふいと横を向いた男に、あたしは視線の先に行き着いた場所を見て怒りが体のなからぽんぽん音を立てて湧いた。

 

「今このあたりで視線止まったよね。ひどぉい!! あたしこれでも獣の国じゃ一番可愛いんだよ!」

 

「前向け、前!!」

 

「ちゃんと見て! まだまだ成長する予定なんだから」

 

「前!! 熱湯かけるぞ!」

 

 頬をふくらましたあたりの耳を掴むと男は前を向かせた。さっきのことを覚えていたのか優しくもってくれたから痛くはなかったけど、精神的に痛い。なんだ……人間の男は若さよりも胸なんだ。ちぇっ。どうせあたしの胸はささやかですよーだ。

 

「目、瞑れよ」

 

 泡だらけのあたしの頭上からぬるい水が降ってくる。ほのかに香る石けんの匂いは確かに心地がよかった。ハチミツの匂いはあたしを可愛くしてくれるけど、この匂いはすごくリラックスできる。ぽわんと空に浮いてるみたい。

 

 服はそこにあるからな、と言ってそのまま去って行った男の背中を見送る。自分の腕や膝を臭ってみても、ハチミツの匂いはしなかった。男の長い指はもっちりとした泡で包まれていて直接触れることはなかったけれど、なんだかこの状況ってすっごくえろくない!? って今更思った。

 

「まぁいっか。どうせ生まれた時はみんな裸なんだし」

 

 人間の女の子は交尾する時、すっごく恥ずかしがるってお兄ちゃんが言ってた。体毛の濃い獣人なんかパンツ一丁だったりするし、獣なんて基本裸なんだよね。だから、裸を見られるってことはそんなに恥ずかしくない。照れてる男ってちょっと可愛いかも、なんて思いながら売り物のように畳まれたワンピースを手に取って袖を通した。

 

「んー、さっぱり!」

 

 まんまるの赤い瞳も、

 抜けるような白い肌も、

 ぴょんと立った長い耳の垂れ具合も、

 今日も完璧! あたしは可愛い!!

 

 鏡に向って唱えると、引き戸を引く。

 あたしは色んな瓶の前でただじっと座っていた男にゆっくりと近付いた。

 

「……やっぱりその匂いの方がお前に合うんじゃないか。いい香りだ」

 

 振り返りもせずに男が言う。

 この瓶に、どれだけの香りが詰まっているのだろうと思うと胸がときめいた。だってあたし、いい香りって大好き。幸せな気持ちになれるもん。

 

「そう? でも悪くないね」

 

「作った本人を前に、嘘でも良いと言えないのか」

 

 そう言って座っていた男が立っているあたしを見上げる。

 くすりと笑った顔は、人間独特のやわらかくて綺麗な表情だった。

 

 あ。この角度、ちょっと愛しいかもしれない。

 

「こっちにおいで」

 

 と入れて手招きをされたあたしは、迷うことなく男のあぐらの上に乗った。上から溜め息まじりに普通隣だろう……まぁいいか、という呆れた声が聞こえた。だってここがいいんだもん。獣は本能に従順なの。逆らうことなんてしないんだから。

 

 男はふかふかのタオルを取り出すと、濡れた髪や耳を優しく拭いてくれた。あまりの気持ち良さに目がとろんと溶けてくる。今日は沢山歩いたし、お風呂も入ったし、いい匂いだし。しあわせー。

 

「しあわせー」

 

「それはよかったな。俺は災難だ」

 

 災難だって言いながらも拭く手は優しい。

 ふうと息を吐いて男の背中にもたれかかると、人間らしい薄っぺらい胸板に当たった。そのまま顔を上げると、男がん? と呟く。

 

「ねぇ、なんて名前なの?」

 

「馨」

 

 香りの文字を持つ男は、ただ機械的に返した。

 きっと調香師って、男の天職なんだと思う。だって、もうあたしハチミツの匂いよりも気に入っちゃったんだもん!

 

「あたしユキ。ねぇカオル」

 

「いきなり呼び捨てとか獣様だな、お前」

 

「お前じゃなくてユキ。ねぇカオルはお嫁さんいるの?」

 

「……いない。けどお前はごめんだ」

 

 その言葉に唇を尖らす。ひどいなぁ! これだから人間は聡くて嫌いだ。獣の国で一番可愛いあたしを振るなんて、今夜にでも獣の餌にされちゃうぞ。

 

「ひっどぉい! まだ何も言ってないのに」

 

「まだ、だろ。乾かし終わったら、夜も深くなるから帰れ」

 

「送ってくれる?」

 

「馬鹿か。俺は仕事があるしお前を送る義理も義務もない」

 

「ちぇっ。今日は大人しく帰ってあげるけど、諦めたわけじゃないからね!」

 

 だって獣は、狙った獲物は逃さないんだから!

 

 にっこり笑ったあたしに、カオルは引きつった笑みを返した。

 

 その日使ってもらった石けんの名前が“雪”って名前だって教えてもらったのは、また別の日のことだったんだけどね。

 

 


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