第03話『興味本位なもの程、取り返しがつかない』
その黒い包みは、
それ以降、俺のカバンの底に居座り続けていた。
最初は気のせいだと思った。
ただの忘れ物。
誰かの悪ふざけ。
そうやって、
見ないふりをしていた。
だが、
時間が経つにつれて、
存在感は増していく。
講義中。
ノートを取っている時。
サークルでギターを弾いている時。
ふとした瞬間に、
――思い出す。
黒い布。
無言で押しつけられた感触。
あの女の子の、伏せたままの顔。
考えなければいい。
忘れてしまえばいい。
そう思えば思うほど、
逆に意識してしまう。
人間は、
「見てはいけない」と言われると、
どうしても見たくなる生き物だ。
――開けるか。
――開けないか。
そんな二択を、
何日も何日も、
頭の中で繰り返していた。
◇
その日も、
いつも通りの講義だった。
岩田教授の声は単調で、
板書は淡々と進み、
教室には眠気が漂っている。
前の席では、
毛受が小さくあくびを噛み殺している。
村上は相変わらずニコニコしていて、
上町はノートを取りながら、
時々意味不明な相槌を打っている。
――平和だ。
そう思った瞬間、
俺の指先が、
カバンの中で、
あれに触れた。
黒い布。
ぞくりと、
背中を何かが這う。
……もういいだろ。
いつまで、
こんなことで悩んでるんだ。
俺は、
深く息を吸い、
そっと包みを取り出した。
机の下。
他人からは見えない位置。
黒い布を、
少しだけ、
めくる。
「……え」
思わず、
声が漏れた。
中にあったのは、
――スイッチだった。
誰もが、
一度はどこかで見たことがあるような。
鉄製の、
無骨な四角い板。
その中央に、
不自然なほど目立つ、
赤いスイッチ。
冗談みたいに、
分かりやすい形。
……なんだ、これ。
頭が、
一瞬、真っ白になる。
おもちゃ?
何かの小道具?
だが、
手に持った重さが、
それを否定していた。
冷たい。
金属の感触が、
やけに生々しい。
喉が、
ひくりと鳴る。
何のスイッチだ?
何を、
押すためのものだ?
考えれば考えるほど、
分からない。
分からないからこそ、
――気になる。
「うわー……」
思わず、
心の声が漏れた。
「……押したい……」
「何を押すんだ?」
唐突な声に、
心臓が跳ね上がる。
「っ!?」
顔を上げると、
そこには岩田教授が立っていた。
いつの間に、
こんな近くに。
「成田くん?」
「あ、い、いえっ!」
慌てて、
スイッチを布で包み、
カバンに押し込む。
「ノートは取ってるかね?」
「は、はい! ちゃんと!」
教授は一瞬、
訝しげな顔をしたが、
それ以上は何も言わず、
前に戻っていった。
……危なかった。
胸を撫で下ろす。
だが、
さっき見た赤色が、
頭から離れない。
押すか。
押さないか。
理性は、
はっきりと告げている。
――押すな。
――触るな。
――碌なものじゃない。
分かっている。
分かっているのに。
心のどこかで、
別の声が囁く。
「何も起こらないだろ」
「ただのスイッチだ」
「確認するだけだ」
好奇心。
それは、
いつだって理性より声が大きい。
講義が終わるまで、
俺はずっと、
カバンから視線を逸らせなかった。
◇
昼休み。
誰とも話さず、
人気のない場所を探し、
俺は一人、
建物の端にある空き教室に入った。
静かだ。
ここなら、
誰も来ない。
ドアを閉め、
鍵をかける。
カバンを机に置き、
深呼吸。
「……」
俺は、
もう一度、
黒い包みを取り出した。
ゆっくりと、
布をほどく。
赤いスイッチが、
こちらを見ている。
押すか。
押すまいか。
指が、
震える。
馬鹿だ。
本当に、馬鹿だ。
それでも――
「……押しちまえ」
小さく、
そう呟いていた。
興味には、
勝てなかった。
指先が、
赤に触れる。
――ぽち。
軽い音。
拍子抜けするほど、
あっさりとした感触。
「……なんだ」
一拍。
「……何も起こらな――」
ドゴォォォォ……
遠くで、
何かが砕けるような音。
低く、
体の奥に響く振動。
「……え?」
次の瞬間。
カタタタタタ……。
窓が、
小刻みに震え始めた。
机が、
かすかに揺れる。
心臓が、
嫌な速さで脈打つ。
「……なに、これ」
耳鳴り。
鼓膜の奥が、
じんと痺れている。
遠く。
確かに、
何かが起きた。
俺の押したそれが、
どこかで、
何かを引き起こした。
理解した瞬間、
背中に冷たい汗が流れ落ちた。
――これは、
冗談じゃない。
――取り返しがつかないかもしれない。
その時の俺は、
まだ知らなかった。
この小さなスイッチが、
俺の人生を、
完全に別の方向へ押し出してしまったことを。
そして――
この日を境に、
「日常」は、
二度と戻らないことを。




