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第03話『興味本位なもの程、取り返しがつかない』

 その黒い包みは、

 それ以降、俺のカバンの底に居座り続けていた。


 最初は気のせいだと思った。

 ただの忘れ物。

 誰かの悪ふざけ。


 そうやって、

 見ないふりをしていた。


 だが、

 時間が経つにつれて、

 存在感は増していく。


 講義中。

 ノートを取っている時。

 サークルでギターを弾いている時。


 ふとした瞬間に、

 ――思い出す。


 黒い布。

 無言で押しつけられた感触。

 あの女の子の、伏せたままの顔。


 考えなければいい。

 忘れてしまえばいい。


 そう思えば思うほど、

 逆に意識してしまう。


 人間は、

 「見てはいけない」と言われると、

 どうしても見たくなる生き物だ。


 ――開けるか。

 ――開けないか。


 そんな二択を、

 何日も何日も、

 頭の中で繰り返していた。



 その日も、

 いつも通りの講義だった。


 岩田教授の声は単調で、

 板書は淡々と進み、

 教室には眠気が漂っている。


 前の席では、

 毛受が小さくあくびを噛み殺している。

 村上は相変わらずニコニコしていて、

 上町はノートを取りながら、

 時々意味不明な相槌を打っている。


 ――平和だ。


 そう思った瞬間、

 俺の指先が、

 カバンの中で、

 あれに触れた。


 黒い布。


 ぞくりと、

 背中を何かが這う。


 ……もういいだろ。


 いつまで、

 こんなことで悩んでるんだ。


 俺は、

 深く息を吸い、

 そっと包みを取り出した。


 机の下。

 他人からは見えない位置。


 黒い布を、

 少しだけ、

 めくる。


「……え」


 思わず、

 声が漏れた。


 中にあったのは、

 ――スイッチだった。


 誰もが、

 一度はどこかで見たことがあるような。


 鉄製の、

 無骨な四角い板。


 その中央に、

 不自然なほど目立つ、

 赤いスイッチ。


 冗談みたいに、

 分かりやすい形。


 ……なんだ、これ。


 頭が、

 一瞬、真っ白になる。


 おもちゃ?

 何かの小道具?


 だが、

 手に持った重さが、

 それを否定していた。


 冷たい。

 金属の感触が、

 やけに生々しい。


 喉が、

 ひくりと鳴る。


 何のスイッチだ?


 何を、

 押すためのものだ?


 考えれば考えるほど、

 分からない。


 分からないからこそ、

 ――気になる。


「うわー……」


 思わず、

 心の声が漏れた。


「……押したい……」


「何を押すんだ?」


 唐突な声に、

 心臓が跳ね上がる。


「っ!?」


 顔を上げると、

 そこには岩田教授が立っていた。


 いつの間に、

 こんな近くに。


「成田くん?」


「あ、い、いえっ!」


 慌てて、

 スイッチを布で包み、

 カバンに押し込む。


「ノートは取ってるかね?」


「は、はい! ちゃんと!」


 教授は一瞬、

 訝しげな顔をしたが、

 それ以上は何も言わず、

 前に戻っていった。


 ……危なかった。


 胸を撫で下ろす。


 だが、

 さっき見た赤色が、

 頭から離れない。


 押すか。

 押さないか。


 理性は、

 はっきりと告げている。


 ――押すな。

 ――触るな。

 ――碌なものじゃない。


 分かっている。


 分かっているのに。


 心のどこかで、

 別の声が囁く。


 「何も起こらないだろ」

 「ただのスイッチだ」

 「確認するだけだ」


 好奇心。

 それは、

 いつだって理性より声が大きい。


 講義が終わるまで、

 俺はずっと、

 カバンから視線を逸らせなかった。



 昼休み。


 誰とも話さず、

 人気のない場所を探し、

 俺は一人、

 建物の端にある空き教室に入った。


 静かだ。


 ここなら、

 誰も来ない。


 ドアを閉め、

 鍵をかける。


 カバンを机に置き、

 深呼吸。


「……」


 俺は、

 もう一度、

 黒い包みを取り出した。


 ゆっくりと、

 布をほどく。


 赤いスイッチが、

 こちらを見ている。


 押すか。

 押すまいか。


 指が、

 震える。


 馬鹿だ。

 本当に、馬鹿だ。


 それでも――


「……押しちまえ」


 小さく、

 そう呟いていた。


 興味には、

 勝てなかった。


 指先が、

 赤に触れる。


 ――ぽち。


 軽い音。


 拍子抜けするほど、

 あっさりとした感触。


「……なんだ」


 一拍。


「……何も起こらな――」


 ドゴォォォォ……


 遠くで、

 何かが砕けるような音。


 低く、

 体の奥に響く振動。


「……え?」


 次の瞬間。


 カタタタタタ……。


 窓が、

 小刻みに震え始めた。


 机が、

 かすかに揺れる。


 心臓が、

 嫌な速さで脈打つ。


「……なに、これ」


 耳鳴り。


 鼓膜の奥が、

 じんと痺れている。


 遠く。

 確かに、

 何かが起きた。


 俺の押したそれが、

 どこかで、

 何かを引き起こした。


 理解した瞬間、

 背中に冷たい汗が流れ落ちた。


 ――これは、

 冗談じゃない。


 ――取り返しがつかないかもしれない。


 その時の俺は、

 まだ知らなかった。


 この小さなスイッチが、

 俺の人生を、

 完全に別の方向へ押し出してしまったことを。


 そして――

 この日を境に、

 「日常」は、

 二度と戻らないことを。

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