第9話:声なき矢が刺さるとき
「これ……メイド長の筆跡ですよね?」
ある日の午後、資料室で整理をしていたメイドの一人が、ふと一枚の地図を手に取った。
端の余白に記された控えめな文字。それは、以前エリーナが書き添えた、些細な補足だった。
『この水路は、春の雪解け時期に氾濫する恐れがあります。橋の補修を先行した方が……』
「これって、魔王様のご判断に影響を与えたってことでは……?」
噂は静かに、しかし確実に広がっていった。
それから間もなく。
貴族たちは、公爵グランシュタインのもとへ集まっていた。
「公爵殿、これは些か看過できぬ事態ですぞ」
先に口を開いたのは、交易都市を抱える東方の領主だった。
「倉庫の開放、配給の優先……あまりにも“民寄り”すぎる政策。魔王様らしくない」
「そして、そのすべての背後に、貴家の令嬢――メイド長の影がちらついている」
「更に先日、貴家の次女が密かに魔王城に出入りしていたという話も。我々の知らぬところで何を話していたのか」
グランシュタイン公爵は、沈黙を保ちながらすべての言葉を聞いていた。
(……リシェルの訪問が、ここまで疑念を生むとは)
「魔王陛下にとって、有益な助言をしたと信じておりますが……」
「意図がどうであれ、結果として政務に私情を持ち込んだと取られてはなりません」
「もはや、黙認の範疇ではありませんぞ」
公爵は目を伏せた。そして、静かにうなずいた。
「……娘を、引き取ります」
その夜、エリーナの部屋に使者が訪れた。
「父上より、“ただちに帰還せよ”との伝言です」
エリーナは驚き、そしてすぐに悟った。
(私のせいで、父上が……)
一方その頃――
カイルは、いつも通り執務室にいた。
だが、エリーナの姿はなかった。
ここ数日ずっと、姿を見せていない。代わりに届く報告書や手紙は、どれも彼女の字だった。
(本当に……来なくなったな)
ふと、数日前に見たメモのことを思い出す。
(“彼女にしかできないこと”をしてくれていた。なのに……)
誰もそれを評価しないどころか、疑いの目を向けていることも、なんとなく感じていた。
(こんなの、間違ってる。けど――)
それでも、カイルは手を止めなかった。やらなければならない仕事が、山ほどあった。
そして翌日。
「魔王様、ご面会です」
案内の声に顔を上げたカイルは、そこに立つ人物に目を見開いた。
「……公爵閣下?」
執務室の空気が静まり返る。
「陛下。ご多忙の中、恐縮ながら一言、謝罪を申し上げたく」
「我が娘――エリーナが、陛下の政務に余計な助言を加えていた件、誠に遺憾です」
カイルは言葉を失う。
「い、いや、それは……彼女は――」
「もはや、弁明は不要かと存じます。これ以上、誤解と混乱を生まぬよう、娘は本日限りで退城いたします」
公爵の言葉は、あくまで丁寧で、そして冷ややかだった。
その背後、エリーナが静かに頭を下げていた。
その瞳には、涙も、怒りも、何も浮かんでいなかった。
「……ご迷惑をおかけしました」
それだけを残し、彼女はその場をあとにした。
“さようなら”ではなく、“謝罪”で交わされた別れの言葉。
それが、公爵令嬢としての、最後の務めだった。