第8話:その距離に、理由があるなら
エリーナは、庭園の回廊を歩いていた。
足取りは整っていたが、どこかその背中には、ひと筋の影が差しているようだった。
(……父上の手紙。“目立つな”と……)
ふと、視線を上げたその先に、のんびりと手を振る少女の姿があった。
「お姉様~、いたいた!」
軽やかな声と共に近づいてきたのは、妹のリシェルだった。たまたま城内の用事で訪れていたらしい。
「ふふ、お姉様のこと、最近貴族の間でちょっとした噂になってますよ~」
「“魔王様を操っている”とか、“王妃の座を狙っている”とか……もう、本当にすごいですよね!お姉様、さすがです~!」
エリーナは表情を変えず、ただ静かに見つめていた。
が、妹の言葉は止まらない。
「父上からも、“最近は目立ちすぎかもしれない”って心配されてました。しばらくはおとなしくしてた方がいいかも、ですって~」
「でも、お姉様が王妃になったら、私は“王妃の妹”ですよね!?うわ~、肩書きだけで縁談すごくなりそう~!」
明るく笑うその声に、エリーナは目を伏せる。
(……魔王様にまで、私のせいで火の粉が……)
通りがかりのメイドが、わざとらしく声をかけてくる。
「おや、メイド長、今日は執務室には出向かれないのですか?」
「お体の具合でも?それとも……最近、魔王様とお話される機会が多かったので」
「“特別な関係”……ですものね?」
遠巻きな皮肉と、探るような視線。エリーナは笑みすら浮かべず、それに背を向けた。
(今、魔王様のそばにいれば……それだけで、傷つけてしまう)
直轄倉庫から農村への食料配給が始まって数日。
「魔王様、配給品の分配が完了したとの報告が上がっております。対象地域での餓死者、ゼロです」
執務室で、メイドが報告書を差し出す。カイルは小さくうなずいた。
「ありがとう。“私”としては、次の段階に進まねばならないな」
(僕としても、この国の“穴”は、まだ塞がれてない)
机の上には、老朽化した橋の一覧、水利に問題を抱える農地の地図、農具不足の報告――書類の山が広がっていた。
ふと、カイルは気づく。
(そういえば、最近メイド長の姿を見てない……)
いつもなら隣に立って、ひとつひとつを整理し、的確な助言をくれていたはずの彼女が、この数日まったく執務室に姿を現していない。
書類の束の中、違和感に気づく。
一枚の地図。端の余白に、小さな文字でメモが残されていた。
『この水路は、春の雪解け時期に氾濫する恐れがあります。橋の補修を先行した方が……』
整った、静かな筆跡。
「……これ、メイド長の……?」
(来ていなかったわけじゃない。黙って、支えてくれてたんだ)
(彼女は……“彼女にしかできないこと”をしていたんだ)
(なら僕がすべきは――)
静かに立ち上がったカイルは、窓の外を見上げた。
(……今、僕にできることを、やるだけだ)
その夜。
カイルは日記帳を開き、ペンを走らせる。
《“彼女にしかできないこと”をしてくれている――そう思えば安心なはずなのに。
でも、なぜだろう。“僕”は、少しだけ、取り残されたような気分だった。》
同じ頃。エリーナは城の奥の廊下を歩いていた。
(この距離が、魔王様を守る盾になるなら……私は、このままでもいい)
窓から見える月明かりが、静かに彼女の横顔を照らしていた。