第7話:魔王様、パンが硬すぎます!
「この国の直轄倉庫にある備蓄……一部、農村に分けられないかな?」
魔王の執務室。カイルの一言に、エリーナと数名のメイドたちが固まった。
「……民への、分配でございますか?」
「うん。私が見る限り、村では作物を育てる余裕もなくて――」
(今動かなきゃ、飢え死にする人が出るかもしれない……)
エリーナは一瞬、視線を伏せた。だが、すぐに顔を上げる。
「……承知しました。必要な物資の選定、私が行います」
その返答に、周囲のメイドたちが小さく息を呑んだのを、カイルは見逃さなかった。
その夜――
「魔王様、僭越ながら……今の備蓄を崩すのは、少々お早いかと」
メイドのひとりが、丁寧な口調で言葉を紡ぐ。
「はい。気候変動や害虫被害など、不測の事態も予想されます。現時点での備蓄は、安全保障の意味でも……」
もっともらしい意見が、静かに重ねられていく。
(……言ってることは間違ってない。でも)
「私としては、今“空腹の人”がいる方が、問題に思えるんだよね」
そう口にしたカイルの目に迷いはなかった。
「“私”の判断が正しいかはわからない。でも、“僕”は、今この国で誰かが食べ物を得られるなら、それを優先したいと思う」
その言葉に、メイドたちは絶句する。
(……いや、そういう話じゃなくて!うちの実家の倉庫が!)
(父上に報告したら絶対怒られるやつ!!)
そんな心の叫びは、声にならず。
「魔王様のご判断、私は誇りに思います」
エリーナが一歩前に出て、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
翌日の昼食時――
「本日の献立は、黒パンと根菜のスープでございます」
銀の蓋が持ち上げられた瞬間、テーブル上に静寂が走った。
以前なら豪華な肉料理と彩り鮮やかな前菜が並んでいた食卓。だが今日は、明らかに質素だった。
エリーナが静かに言った。
「……申し訳ありません、本日の献立、簡素なものとなっております」
「構わないよ。むしろ“私”には、これくらいがちょうどいい」
カイルは静かに答える。
(僕の舌じゃ、豪華料理よりこっちの方が落ち着くんだよね)
「おっ、なんかこのスープ、落ち着くなぁ。あったかい」
カイルはごく自然にスプーンを口に運び、満足そうに微笑む。
「パン、ちょっと硬いけど……うん、ばあちゃんのパン思い出すな……」
その様子を見ていたエリーナは、少しだけ口元を緩めた。
一方、メイドたちは――
(え、これで満足してる!?)
(本気で? 本気なの!?)
(……でも、ちょっと……カッコいい……かも?)
その日の夜――
「魔王様が“これくらいでいい”と仰いました……!」
「直轄倉庫の備蓄も“民に分ける”と明言されて……」
使い魔により、各貴族の屋敷に次々と情報が届く。
「……なんだと……?」
貴族たちは顔を見合わせた。
「自分の食卓を削ってまで、庶民に与える魔王……?」
「もしかして、民心を完全に掌握しようと……?」
「いや……本気で“それが正しい”と思っている……?」
誤解と憶測が、火のように貴族社会を駆け巡っていた。
夜、カイルは小さなランプの灯りの下、日記帳を開く。
《“私”ではまだ王に見えないかもしれないけど……“僕”にはこれしかできない》
彼の目は、穏やかでまっすぐだった。
一方その頃――
エリーナは寝室で、静かに窓の外を見つめていた。
(魔王様……以前のあの方と、どうして、こんなにも違うのでしょう)
その瞳には、ほんのわずかに、期待と不安が揺れていた。