第5話:畑の貴族と、城の不安
カイルが目を覚ましたのは、いつもより少し早い時間だった。
「昨日の資料……よし、もう一度整理しよう」
机に広げたのは、農業に関する古文書や流通記録。昨夜、目をこすりながらメモしていた紙も残っていた。
“作付け面積×収穫効率=供給力”。――それは、魔王という立場とは思えぬ地道な勉強だった。
ふと窓を開けると、朝日が照らす城の外に、広がる農地が見えた。
「あ、あそこ……農民が動いてる?昨日まで草ボーボーだったのに」
興味を引かれて身を乗り出したその瞬間、空気がビリッと軋んだ。
「え――?」
ドンッ!
景色が歪み、次の瞬間、カイルの足元はふかふかの黒土に変わっていた。
「――――誰だ、あんた」
土の上で体勢を整える間もなく、男の声が飛ぶ。
目の前には、弓を構えた農民。後ろには驚きすぎて逃げ出す草食動物。そして周囲の畑には、道具を手に固まった農民たち。
(……やったな俺……!)
「違う!ちょっと、あの、見てただけで……!」
カイルが両手を挙げて言い訳を始めた瞬間、別の農民がバタバタと小屋から飛び出してきた。
「ほらっ!持ってきたぞっ!これ、作物!芋!豆も!」
「な、なんで持ってくるの!?」
「し、仕方ないだろ!?怒らせたら村が終わる!」
「おい、やめろって! 何を勝手に!」
叫んだのは、一人の青年だった。顔に泥が跳ね、手には鍬。だが、真っ直ぐにカイルを見ていた。
「お前……貴族だろ?」
「え、あ、まあ……そう、かも……」
「昨日まで来もしなかったくせに、いきなり畑に現れて、何なんだよ!」
「俺たち、命令されて無理やり働かされて、それでも自分たちの暮らし守ろうとしてんだぞ!」
静まり返る畑。誰もが、その青年を止めようとしない。
カイルは思わず、真剣なまなざしを見つめ返していた。
「ご、ごめん……本当に、勝手に来ただけで、邪魔するつもりはなかったんだ」
青年の肩が、わずかに揺れる。
「……怒らないのかよ?」
「怒る理由ないよ……僕が悪いし」
「……意味わかんねぇよ……」
一方、魔王城では。
「……おや?」
エリーナは、執務室の扉をノックした。返事は、ない。
「……もうお出かけですか?」
かすかな笑みを浮かべるが、その目は真剣そのものだった。
(昨夜まで、机に向かって資料を広げていた。……けれど、今朝はどこにもいらっしゃらない)
数日前、倒れていた魔王の姿が脳裏をよぎる。
(魔王様……まさか、また――)
誰にも動揺を悟らせぬよう、エリーナは冷静に命じる。
「情報部と警備隊に、異常がないか確認を。……使い魔の発信も」
「かしこまりました」
普段通り、でも確かに何かを探る動きが始まる。
その夜。
「た、ただいま……」
カイルは城に帰ってきた。
廊下でメイドたちに見つかる前にこっそり部屋に入り、机に座る。
(やっばいな……あれ、絶対誤解されてる……)
ノックの音。
「……入っていいよ」
扉が開き、エリーナが姿を現す。
「……ご無事で、何よりです、魔王様」
一礼する彼女の声は、静かで、温かく、でもほんの少しだけ、揺れていた。
そして翌朝、城下町ではひそひそと噂が始まっていた。
「魔王様が畑に降臨なさったらしい」
「害獣退治……じゃないか?」
「いや、あれは民への激励だ……!」
誤解は、着実に広がっていく。
気まずい空気の中、レントはふいにため息をついた。
「……ま、あんたが何しに来たかはわかんねぇけどさ。おかげで、畑は守れたし。ありがとな」
「い、いや……ほんとに偶然で……」
「それでも、今までこんな風に俺らの前に来た“貴族”なんていなかった」
レントは鍬を土に突き刺したまま、空を見上げる。
「魔王ってのはさ、もうちょっと地に足つけてくれたらって、ずっと思ってたんだよ。どこか遠くの存在でさ」
「……そ、そうだな……」
(それ僕が悪いんじゃないんだけど……!)
「最近は、魔王が変わったって噂が出回ってるけど、信じていいのかまだわかんねぇしな」
「う、うん……」
(あ、でもその辺はがんばってる自覚ある……けど何も言えない!)
「ま、あんたみたいに話の通じそうな貴族もいるんだな。……少し、安心したよ」
「…………」
カイルは、笑うしかなかった。
(……はぁ……どうしてこうなるかなぁ)
カイルは、頭を抱えていた。