第4話:魔王様、ただ散歩しただけなのに
魔王として二日目の朝。
昨日の御前会議と、夜遅くまでの資料読みでどっと疲れたカイルは、「本日は執務の予定はございません。どうぞご自由にお過ごしください」
そうメイド長エリーナに丁寧に告げられ、カイルは少しだけ気が楽になり、内心ガッツポーズを決めていた。
(自由時間ってことだよな?)
魔王の体を持つ身となった今、こうした空き時間も貴重な調査の機会だ。
カイルは“民の暮らし”を知るべく、まずは“魔王城の中”を歩いて回ることにした。
――だが、それがまた新たな誤解を生むことになるとは、この時のカイルは知る由もなかった。
豪奢な回廊を歩きながら、カイルはふと壁の装飾に目をやる。
彫刻された装飾の奥に何か機構でもあるのかと、好奇心から耳を近づけてみた。
(なにこれ、ただの飾り?それとも魔導ギミック的な?)
それを偶然目にした警備メイドが慌てて走り去る。
(……魔王様が、壁に耳を?内通者の存在を嗅ぎ取られた!?)
次にカイルは洗濯場を通りかかり、せっせと作業をしているメイドたちの洗濯技術に目を留める。
「この石鹸、すごいな。汚れ落ち良すぎる……なに入ってるんだ?」
メイド(……我が家に伝わる祖母のレシピを、魔王様が直々に査問!?)
そして厨房の隣の配膳所。
昼食前の準備中で、鍋から漂う肉と野菜の煮込みの香りが漂ってくる。
(……うまそう。これ食堂で出るやつかな)
「この香り……すげぇな、塩加減完璧じゃない?」
料理長(魔王様が味の審判を!?これはもう、最後の晩餐では!?)
事件はその直後に起こった。
一人の若いメイドが、緊張と焦りからか銀の皿を落とし、派手な音を響かせた。
周囲が凍りつく中、カイルは咄嗟に声をかける。
「大丈夫? ケガはしてない?」
メイド(ひぃぃ……“大丈夫”って、“これで済むと思うな”の隠語だって聞いたのにぃ!)
そこへ、タイミング悪く(あるいはよく)メイド長エリーナが登場する。
「魔王様……ご気分がすぐれませんか?」
「いや、全然元気だよ? 散歩中に偶然通りかかっただけだし……」
(いや、ちょっと感動しただけなんだけどな。みんな頑張って働いてて、偉いなって)
エリーナは一礼しつつ、表情を崩さず退くが――
(“楽しい”?……散歩が、ですか……?いや、まさか……)
その背筋に走る寒気の正体は、自分でもわからなかった。
その夜。
カイルは自室でふぅ、と大きく息をついてベッドに倒れ込む。
(なんか今日、誰かしらんけどずっとピリピリしてた気がするんだが……)
視察のつもりだったが、全方位に緊張を走らせていたらしい。
何もしていないつもりなのに、皆が気を張っている。
(でも、たぶん怒られてはいない……よな?)
(よし……たぶん今日は成功!)
自信なさげな“成功”に一人うなずくカイル。
その日、城内視察の途中でカイルは通りすがりに食堂を覗き、ふと呟いた。
「……こういう飯、民にもちゃんと食わせたいよな」
その発言を、偶然耳にしていた食堂のメイドたちは、ハッと顔を上げたという。
(今の……“民に食わせろ”……!?)
(もしかして、魔王様が“真に民を思う王”に……!?)
(いえ、まさか粛清の前触れ!?……!)
誰が言うでもなく、誰かが合図したわけでもない。
しかし次の瞬間、全員が一斉に使い魔を召喚していた。
黒猫、梟、蝙蝠、羽虫、光る蝶――それぞれの貴族家が誇る伝令獣たちが、静かに窓辺から舞い上がる。
バサバサッ、ザザッ、シュウウウ――
一気に十数の使い魔が、魔王城の空を飛び立っていった。
その頃、エリーナは魔王の執務室の外でそっと壁に手を当てていた。
(……今日は何も起きませんでした)
(……けれど、なぜか疲れました)
そしてまた、翌日が始まる――。