第12話:耕すべきもの
「ふぅ……」
執務机の上には、優先度のつけられない書類が山積みになっていた。
民政、税制、交易路、治水。どれも重要。どれも今すぐ対応したい。
だが――それを整理し、指針を示してくれる補佐官は、今、いない。
窓の外に目をやると、遠くに農地が見えた。
(……気分転換くらい、いいよな)
数刻後。農村。
「わっ、あ、あんた……じゃなくて、貴族様!? どうしてこんなとこに!?」
レントが素っ頓狂な声を上げて駆け寄ってきた。
カイルはややおどけた表情で肩をすくめた。
「顔に疲れが出てたのかもね。体を動かしたくなってさ。……邪魔かな?」
「いや、むしろ大歓迎ですよ! でもその格好で農作業って……本気っすか?」
簡単な農具を借り、レントに教わりながら耕作地の一角へ向かう。
カイルは無言で、ただ黙々とクワを振り下ろした。
ザクッ、ザクッ、ザクッ――
何も考えない。ただ、土の匂いと汗の感覚だけが心を埋めていく。
(……あの頃は、エリーナが“何をすべきか”を整理してくれた)
(今は、全部が正しそうに見える。だから、全部が動けない)
しばらくして、荷物整理を終えたレントが戻ってきた。
「おーい、そっちはもうじき撒き――……」
言葉が途中で止まった。
目の前には、いつの間にか“ありえない広さ”の土地が耕されていた。
「…………な、なにしてんすか!?」
カイルは額の汗をぬぐいながら、ぽかんとした表情を見返した。
「……無心でやってたら、気がついたらこうなってた」
「無心で!? いやいやいや、村一番の畑が今“二番”になったレベルっすよ!? 魔物かよ!!」
土に座り込むレントに、カイルも腰を下ろす。
「……何を優先すべきか、わからなくなっててさ」
つぶやくような言葉に、レントは少しだけ真面目な顔を向けた。
「全部正しいと、逆に迷いますよね」
「うん……。一番大事なことを、見失ってる気がしてさ」
レントは土を指でなぞりながら言った。
「畑も同じです。広くても、一気に全部は無理っす。種まくにも、収穫するにも“順番”がある」
カイルはその言葉をじっと聞き、ふっと笑った。
「……順番、か。そうだな」
帰り道、カイルの服は泥まみれだった。
だが、どこかその足取りは軽かった。
(耕すべきは、土地だけじゃない。僕の頭と、この国も――)
【幕間:グランシュタイン邸】
貴族街の一角に構える公爵家の館。
夕食後のティータイム、金縁のカップから香る紅茶の湯気がゆらめいていた。
エリーナは、窓辺の椅子に腰掛け、分厚い紙束に視線を落としていた。
それは御前会議の議事録。全ての提案と、発言の要旨が記されている。
公爵――彼女の父は、紅茶を口に含みながら静かに言った。
「……議事録か」
彼女は応えない。ページをめくる手が、一瞬だけ止まった。
「政務には、もう関わらぬと申していたな」
それでも彼女は黙ったまま。
公爵は椅子から立ち上がると、そっともう一冊の控えをテーブルに置いた。
「私は少し、外の空気を吸ってくる。……茶は冷めぬうちに」
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
部屋には、議事録と二人分の紅茶が残された。
エリーナはしばらく沈黙した後、テーブルに置かれた紙束へと手を伸ばした――。