第10話:静かなる檻の中で
「……あれ? 今日も来てないんだ」
執務室の補佐席。いつもの場所には、やはり誰もいなかった。
カイルは静かに息をつき、目の前の書類に視線を戻した。
業務は回っていた。報告書は届き、承認印も揃っている。メイドたちの対応も丁寧で、礼儀を欠いた様子は一切ない。
だが――そこには、何かが決定的に欠けていた。
(……静かすぎる)
誰も雑談を交わさず、無言で書類を置いて去っていく。
(いや、これは……避けられてる?)
昼、食堂。
食堂に入ると、使用人たちが壁際に整列し、魔王様に目を合わせることなく、そわそわと視線を彷徨わせていた。
一席だけ、ぽつんと空いた場所がある。それは明らかに“魔王様用”だった。
誰も近づこうとはしない。ただ、ぎこちない空気だけがそこに漂っていた。
「……ここに、座ってもいいかな?」
誰かにそう声をかけたつもりだったが、返ってきたのは、気まずい沈黙だけだった。
食事は、味がしなかった。
執務に戻る途中、ふと立ち止まって空の補佐席を見つめる。
(エリーナ……今、どこで何してるんだろう)
その問いには答えがなかった。
かつて読んだ偉人伝の一節が、脳裏をよぎる。
『王には、共に歩む者がいた。支え合い、ぶつかりながらも信じ合える仲間が。』
(僕には、今……)
その夜。
グランシュタイン邸、書斎。
父と娘のふたりだけの空間に、書類と沈黙が積もっていた。
「……お姉様、ずっと部屋にこもってるよ? 私が声かけても、“大丈夫”って返すだけで……」
リシェルの声音には、不安と不満が混ざっていた。
「なのに、私たちだけで作戦会議? 変じゃない?」
「変ではない。あの子には“公爵家の娘”として、静かにしていてもらう」
公爵は淡々と答えながら、机に並べられた資料に目を通す。
王城の噂、報告書、手紙の写し――どれもエリーナの名を含んでいた。
「……我々が下手に動けば、“公爵家が王を操る”という構図が完成する。既に、燃料は揃っている」
「でも、そんなの間違ってるよ! お姉様は……っ」
リシェルが声を荒げかけたが、公爵は手で制した。
「間違っていようが、そう見えるという事実のほうが重い」
リシェルは唇を噛み、肩を落とした。
「……お姉様、ひとりで耐えてるのに」
そのつぶやきに、公爵のペンが一瞬止まる。
だが、すぐにまた動き始めた。
「我々がすべきは“守る”ことだ。火の粉を娘に浴びせるような真似は、二度とせん」
再び、魔王城。
カイルは執務机に向かって、日記帳を開いた。
《誰も責めていない。
誰も怒っていない。
けれど、誰も僕に近づいてこない。》
《僕は“魔王”になった。
でも……王って、こんなに、ひとりだったっけ?》
静かに、ペンの音だけが響いた。
それが、今の彼にとって唯一の“声”だった。